スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

平塚記念&我慢の観念

2010-05-06 19:08:19 | 競輪
 日程の関係でS級S班の選手は出場できなかった平塚記念は,ゴールデンウイーク中の2日に決勝(動画)が争われました。
 並びは三宅-南-坂上の西日本,阿竹-香川の四国,坂本-立石の九州に中村で,地元の加藤は先行の番手勝負。
 前受けは坂本。4番手に三宅,加藤を挟んで8番手から阿竹で周回。阿竹から上昇し坂本を抑えると,このラインに続いた三宅が打鐘で阿竹を叩いて先行。加藤は番手勝負を挑むもこれは南が確保。加藤が3番手で坂上が4番手に。バックで坂上が内から位置を取り返しにいったところで阿竹の捲り。これを南がうまく牽制しながら踏み込みましたが,7番手からの捲り追い込みとなった坂本がゴール前で届いて優勝。南が2着で立石が3着。
 優勝した福岡の坂本亮馬選手は昨年暮れの岐阜記念以来となる記念競輪3勝目。ここもメンバーの関係で,自力タイプでは力量最上位。レースの組み立て自体はやや失敗気味であったかと思いますが,7番手から捲ってしまったのですからやはり強かったといえるとは思います。さらに力をつけて,もっと上位で戦ってほしい選手です。

 次に,我慢というのを思惟作用としてみた場合,つまり思惟の様態に限定して考える場合に関しての注意点をあげておきます。
 人間の精神のうちに排尿という運動を我慢する意志作用が生じるとき,これと同一の観念というのは,排尿という運動を我慢している自分自身の身体の観念であるわけですが,僕はこの観念についてはこれを表象像,とくに表象の種類でいうなら,知覚,それも第二部定理一九で示されている自分自身の身体についての知覚であると考えます。混乱した観念の意志というものがスピノザの哲学では認められていますから,この知覚が意志作用を含んでいるということについては問題ありません。また,なぜこれが知覚であると僕が解するのかということについては,すでに尿意についてこれを説明しています。これに関して説明できる事柄はそれと同じになりますから,ここでは繰り返しません。
 すでに我慢の秩序で明らかにしたように,我慢の観念自体は尿意を部分的原因として生じます。したがって第三部定理三により,我慢の観念が混乱した観念であるということは明白で,この点に関してスピノザの哲学と齟齬を来すということはありません。何より,そもそも尿意もまた混乱した観念であると規定しているのですから,同様のことは第二部定理四〇4つの意味がすべて成立するということからも,我慢の観念もまた混乱した観念でなければならないということは明らかです。しかし僕はこの観念もまた自分自身の身体についての表象像である,すなわち混乱した観念であると考えているわけですから,スピノザの哲学全体とこれは矛盾しません。よってこれらのことに関して考察してきたここまでのすべての事柄は,スピノザの哲学の枠の中できちんと矛盾なく妥当するというように考えます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする