スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

女流王位戦&後天性の根拠

2010-05-20 19:21:57 | 将棋
 互いに小ミスを繰り返す終盤の競り合いを挑戦者が制して開幕した第21期女流王位戦第二局。
 対局開始直後から駆け引きがありました。清水市代女流王位の初手は▲2六歩が圧倒的に多いのですが本局は▲7六歩。甲斐智美女王の△3四歩に▲6八玉(第1図)と上がりました。
                
 これは△5四歩からのごきげん中飛車を許さない指し方で,作戦でしょう。
 第1図で後手を持ってどう指すかは人によって考え方が分かれるでしょう。僕ならば△8四歩と突き,もしも先手が▲7八金を急いで駒組みするようなら陽動振飛車も視野に入れるというように考えてみたいです。
 甲斐女王は△9四歩を選択。先手の▲9六歩を見て△4四歩と角道を止め,オーソドックスな三間飛車へ。僕は思いつきませんでしたがこれも一理ある指し方。というのは三間飛車に対しては居飛車穴熊が有効な作戦ですが,9筋の突き合いがあるので先手は穴熊に組みにくい意味があるからです。△4四歩に対する先手の▲2六歩も大事なところで,こうしておかないと△3二飛に▲2五歩が間に合わず,後手に石田流に組まれてしまいます。
 将棋はこの後,先手が5筋位取りというこれまたクラシカルな戦法を採用。対して後手がすぐに飛車を5筋に転換してその位を目標にして戦いへ。このあたりは後手がうまくやったように思います。その後,先手の命運を託したような端攻めの前に一時的には危ないところもありましたが,最後は鋭い決め手で後手が制しています。
               
 これは龍を1九から引いたところですが,僕には即座には意味が分かりませんでした。しかし▲9四歩に△7七香という妙手がありました。甲斐女王の最近の充実ぶりを表す一手であったと思います。
 甲斐女王が2連勝。このままここもストレートで奪取となるのでしょうか。第三局は来月2日です。

 第三部定理二の考察の最後に,補足として,排尿の価値観に関してスピノザの哲学から注釈を加えました。このとき,完全性という価値観からみれば,排尿という運動自体は,それが失禁であろうと放尿であろうと,同様の意味で人間の完全性を示す運動であり,対して排尿を我慢する運動の方は,そういった意味での完全性を示すことはなく,したがってある人間が排尿を我慢する力が著しく弱いような場合でも,そのゆえにその人間がほかの人間よりも不完全であるということはできないと結論しました。人間が一般的に現実的本性としてなす力と,個々の人間が現実的本性によってなす力とは異なると考えられるからです。これは,人間が先天的なものとしてなす力と,後天的に獲得したなす力は異なっているという意味になりますから,このことは現状の考察と大いに関連しているといえるでしょう。
 排尿を我慢する運動の秩序の獲得が後天的なものであるということは,実はこの秩序の獲得の仕方や様式には,個々の人間によって差異があるということを示しています。このことは経験的にもはっきりとしていて,この秩序を容易に獲得する人間もいれば,この秩序を獲得するのが困難な人間もいるわけです。また,早いうちからこの秩序を獲得する人間もいますし,なかなかこの秩序を獲得することができない人間もいます。失禁の分類の具体例でいえば第1のタイプに属するおねしょについて考えるのが分かりやすいかと思いますが,物心がついてからはおねしょなどはしたことがないという人間もいるでしょうし,かなり遅い時期まで,あるいは成人した後でもおねしょをするという人間もいます。個々の人間身体がなし得ること,すなわちこれがスピノザの哲学における力ということになりますが,これは個々の身体が異なるだけ異なっているわけですから,このことだけをもってしてある種の身体は完全であり,別の種の身体は不完全であるといならば,なし得る事柄が異なるだけ完全と不完全が生じることになってしまい,完全の意味は成立しなくなってしまいます。
 一方でこうした事実自体が,ある人間身体が排尿という運動を我慢するなら,この運動は人間の身体の本性に組み込まれているのではなく,この人間が獲得した秩序であるということを示しているように思います。つまり論理的に考えても経験的に考えても,身体が排尿を我慢する秩序は後天的に獲得されるものであるということになるでしょう。
コメント
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