熊本記念の決勝。並びは平原-武田の関東に斎藤,山賀-渡辺の南関東,浅井-坂口-林の中部で池田は単騎。
武田,浅井,渡辺の3人がスタートを取りにいき,外から山賀と平原も上昇。前受けになったのは平原。4番手に山賀で6番手が浅井。池田は中部追走のレースになりました。残り2周のホームの手前から浅井が上昇。ホームで平原に並び,バックで前に出ました。この動きに乗った山賀が外に出たあたりで打鐘。スローペースに。ここで外から平原が発進。ホームで浅井も対応しようとしましたが,斎藤までラインで出切り,平原のかまし先行に。バックから武田が車間を開けて後ろの動きを牽制。浅井の動きを見て発進し,直線で平原を捕えて優勝。逃げた平原が1車身差の2着。斎藤も1車輪差の3着に続いてこのラインの上位独占。
優勝した茨城の武田豊樹選手は6月の高松宮記念杯以来の優勝。記念競輪は4月の西武園記念以来でGⅢ26勝目。熊本記念は2007年と2010年に優勝があり,5年ぶり3度目の制覇。このレースは成り行きから平原がかまして先行する展開になりましたので,無風で番手を回った武田にはとても有利になりました。少し車間を開け過ぎなのではないかと思いましたが,直線が長いバンクであり,あれでよかったようです。ラインで上位独占ですから,平原も武田も巧みな走行だったといえるでしょう。
ステノは,平行論だけが身体と精神の関係を自分に説得することができないといっているのではありません。二元論も同じように自分を説得できないといっているのです。ここからも,ローマカトリック信者としてのステノの標的は,スピノザだけでなく,デカルトを含んでいたことが理解できるのではないかと思います。
一方,ステノはこの部分の記述で,図らずも本音を吐露しているように僕には思えます。というのは,ステノは二元論も平行論も身体と精神の関係についての真理を明らかにすることはできないとはいわずに,それは自分を説得することができないといっているからです。すなわち,ステノにとって何が最も重要であったのかといえば,それが真であるか偽であるかというよりも,自分にとって説得力があるかないかだったのです。基本的にこの視点はステノがスピノザに出した手紙の全体を貫いていると理解するのが妥当であると僕は考えています。つまりステノにとって,最も説得力があったのはローマカトリックの教義だったのであり,デカルトやスピノザの哲学ではなかったということなのです。
もちろんステノ自身が,何が真であり何が偽であるのかということについて,まったく関心がなかったと僕はいいたいのではありません。ステノの方からみるなら,ステノにとって最も説得力がある事柄が真であり,それ以外は偽であったのです。ですが説得力という観点から真理と虚偽を分かつのであれば,万人にとっての真理は存在し得ないということが直ちに帰結してしまうでしょう。ある特定の事柄に,だれもが同じだけの説得力を感受するとは限らないからです。
僕はステノはそれくらいのことは気付いていたのではないかと思います。とくに自分がいかにカトリックの優秀さを喧伝したところで,それがスピノザに対して説得力を有するというようには考えていなかっただろうと推測します。というのは,たぶんステノはスピノザが真理性を観念の内的特徴から結論するということは,承知していたと思うからです。そしてカトリックが自分に対して説得力があった理由は,それと別の部分にあったことも自覚していたと思うからです。
武田,浅井,渡辺の3人がスタートを取りにいき,外から山賀と平原も上昇。前受けになったのは平原。4番手に山賀で6番手が浅井。池田は中部追走のレースになりました。残り2周のホームの手前から浅井が上昇。ホームで平原に並び,バックで前に出ました。この動きに乗った山賀が外に出たあたりで打鐘。スローペースに。ここで外から平原が発進。ホームで浅井も対応しようとしましたが,斎藤までラインで出切り,平原のかまし先行に。バックから武田が車間を開けて後ろの動きを牽制。浅井の動きを見て発進し,直線で平原を捕えて優勝。逃げた平原が1車身差の2着。斎藤も1車輪差の3着に続いてこのラインの上位独占。
優勝した茨城の武田豊樹選手は6月の高松宮記念杯以来の優勝。記念競輪は4月の西武園記念以来でGⅢ26勝目。熊本記念は2007年と2010年に優勝があり,5年ぶり3度目の制覇。このレースは成り行きから平原がかまして先行する展開になりましたので,無風で番手を回った武田にはとても有利になりました。少し車間を開け過ぎなのではないかと思いましたが,直線が長いバンクであり,あれでよかったようです。ラインで上位独占ですから,平原も武田も巧みな走行だったといえるでしょう。
ステノは,平行論だけが身体と精神の関係を自分に説得することができないといっているのではありません。二元論も同じように自分を説得できないといっているのです。ここからも,ローマカトリック信者としてのステノの標的は,スピノザだけでなく,デカルトを含んでいたことが理解できるのではないかと思います。
一方,ステノはこの部分の記述で,図らずも本音を吐露しているように僕には思えます。というのは,ステノは二元論も平行論も身体と精神の関係についての真理を明らかにすることはできないとはいわずに,それは自分を説得することができないといっているからです。すなわち,ステノにとって何が最も重要であったのかといえば,それが真であるか偽であるかというよりも,自分にとって説得力があるかないかだったのです。基本的にこの視点はステノがスピノザに出した手紙の全体を貫いていると理解するのが妥当であると僕は考えています。つまりステノにとって,最も説得力があったのはローマカトリックの教義だったのであり,デカルトやスピノザの哲学ではなかったということなのです。
もちろんステノ自身が,何が真であり何が偽であるのかということについて,まったく関心がなかったと僕はいいたいのではありません。ステノの方からみるなら,ステノにとって最も説得力がある事柄が真であり,それ以外は偽であったのです。ですが説得力という観点から真理と虚偽を分かつのであれば,万人にとっての真理は存在し得ないということが直ちに帰結してしまうでしょう。ある特定の事柄に,だれもが同じだけの説得力を感受するとは限らないからです。
僕はステノはそれくらいのことは気付いていたのではないかと思います。とくに自分がいかにカトリックの優秀さを喧伝したところで,それがスピノザに対して説得力を有するというようには考えていなかっただろうと推測します。というのは,たぶんステノはスピノザが真理性を観念の内的特徴から結論するということは,承知していたと思うからです。そしてカトリックが自分に対して説得力があった理由は,それと別の部分にあったことも自覚していたと思うからです。