スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

第四部定理九&スぺイクとリュカス

2017-02-21 19:11:44 | 哲学
 第四部定理一六では,善悪の認識cognitioが未来に関係する場合には,善bonumを希求し悪malumを忌避する欲望cupiditasが,現前するものに対する欲望に容易に凌駕されてしまうことが示されています。要するに僕たちは,それが未来と関係する限りでは悪であると認識していても,現時点において喜びlaetitiaであるならば,そちらの方を欲望してしまいがちであるということです。ダイエットに悪影響であると知っていながらケーキを食べてしまうとか,翌日の仕事に影響が出ると分かっているのに深酒してしまうといったような事柄は,こうした様式によって発生するといえます。
                                     
 ただ,このことは欲望という感情affectusのみに妥当するというわけではありません。一般に感情というものは,その感情を与える原因causaが現実的に存在している,あるいは現実的に存在すると表象される場合には,その原因が現実的に存在すると表象されない場合よりも強力です。それを示しているのが第四部定理九です。
 「感情は,その原因が現在我々の前にあると表象される場合には,それが我々の前にないと表象される場合よりも強力である」。
 この定理Propositioでは,感情の原因が現実的に存在すると表象される場合と,現実的には存在しないと表象される場合が比較されています。これは僕が前に説明した消極的な比較を,より積極的な仕方に置き換えたといういい方が可能です。もしそうであるならこのままでいいでしょう。しかし,現実的に存在すると表象されないということと,現実的に存在しないと表象されるというのは,同じことではなく,前者はより広範にわたると考えることもできます。そしてそれが異なった事象であると解するなら,むしろ現実的に存在すると表象される場合と,現実的に存在すると表象されない場合が広範にわたって比較されているのだと解する方がよいと僕は考えます。というのもこの定理は,表象像imagoが過去あるいは未来に関連させられる場合と,現在に関連させられる場合を比較しようという意図を有しているからです。そしてその限りにおいて,この定理Propositioは第四部定理一六の論拠となり得るでしょう。

 僕はスぺイクHendrik van der Spyckの証言のすべてが虚飾に満ちたものであったとは考えません。スピノザが敬虔pietasであったということはリュカスJean Maximilien Lucasの伝記La vie et l'esprit de Mr.Benoit de Spinozaからも明らかで,確かにリュカスにもまた,スピノザを賛美する動機はあったでしょうが,ふたりが同じように同じ事柄を虚言によって賛美することは不可能であると思われるからです。なのでスピノザが敬虔な人物であった,他面からいえば生活上の無神論者ではなかったということは真実であったと考えます。
 さらにいうと,リュカスがスピノザの敬虔さないしは品行方正さを称えるとき,それは主に金銭や地位に対する私心のなさが強調されます。スぺイクもそういう部分でスピノザを称える証言をしたと思われ,そうした記述がコレルスJohannes Colerusの伝記Levens-beschrijving van Benedictus de Spinozaの中にも見られます。そしてたぶんこの点が,スぺイクがスピノザのことを尊敬した理由の大きな部分を占めると僕は思います。実際にスぺイクがスピノザに敬愛の情を有していたということを僕は肯定しますので,そうした部分に関しては,リュカスの場合にもスぺイクの場合にも誇張はあると解するのが安全かと思いますが,そのすべてが虚偽であるというようには解する必要はないのではないかと思います。少なくともそうでないと,スぺイクがスピノザに好意を抱く理由が欠けてしまいますし,リュカスにしても,単にスピノザの思想に共鳴したというだけで,スピノザの生活を全面的に賛美するとは考えにくいからです。リュカスもまたスぺイクと同様に,スピノザの日々の生活の多くを知っていたと思われるからです。
 しかし,スぺイクがスピノザを賛美する文脈のうちには,リュカスがあまり多くを記述していない事柄があります。それが宗教すなわちキリスト教と関連する事柄です。リュカスがスピノザの聖書と理性の分離に関してどの程度まで理解していたかは分かりません。リュカスは伝記の最後の部分で,新約聖書のキリストの掟が人間を神Deusと隣人への愛amorに導くが,スピノザによればそれは理性ratioが人間に教えるものであるとしていて,これは『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』の主張に同じです。ですが同時に理性がキリスト教を規定するともいっていて,これは違った見解opinioだといえるでしょう。
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