被災地支援競輪として取手競輪場で開催された第32回全日本選抜競輪の昨日の決勝。並びは平原‐武田‐諸橋‐神山の関東と三谷‐稲垣の近畿で新田と和田と浅井は単騎。
武田がスタートを取って平原の前受け。周回中に動いた新田が5番手で6番手に三谷。稲垣の後ろを和田と浅井の両者が狙うような周回に。三谷が動いて平原を抑えようとしたのが残り2周のホーム。平原は下げず,稲垣と併走で打鐘。ここから三谷が本格的に発進して抑え先行。番手戦はコーナーで平原が奪うとホームでまた稲垣が追い上げてきましたが,再びコーナーで平原が奪いきりました。最後尾まで下げていた新田はホームから発進。コーナーで競りの影響もあって外を回らされましたがバックで三谷を捕えました。平原が三谷の後ろから新田を追い,直線で差して優勝。マークの武田が4分の3車輪差の2着で関東のワンツー。新田が半車身差の3着で,バックから発進していった浅井も半車輪差の4着まで迫りました。
優勝した埼玉の平原康多選手は前回出走の大宮記念に続いて連続優勝。ビッグは11月の競輪祭以来で8勝目。GⅠは7勝目。全日本選抜競輪は2013年以来4年ぶりの2勝目。このレースは単騎の選手が3人もいる中で4人でラインを組めた関東勢が数的に優位。武田の地元なのでもしかしたら少し無理に駆ける可能性もあると思っていましたが,強引なレースはしませんでした。武田が迷わずスタートを取っていますので,前受けから番手狙いというのは当初からの作戦のひとつとしてあったものと思います。いいレースをしたのは新田で,だれかマークしてくれる選手がいれば結果は違っていたかもしれません。
場合によってはコレルスJohannes Colerusの伝記Levens-beschrijving van Benedictus de SpinozaよりリュカスJean Maximilien Lucasの伝記が信用に値するとフロイデンタールJacob Freudenthalが考える理由は,証言者としてのスぺイクHendrik van der Spyckが信用に値しないからでした。このゆえにフロイデンタールはコルトホルトSebastian KortholtやベールPierre Bayleにも疑念を抱いているのですが,僕はコレルスの伝記に焦点を絞ります。というのも僕が考えたいのは,スぺイク自身にあるからです。
『スピノザの生涯』を読んで,確かにフロイデンタールの見解に一理あると僕は思いました。ですがそのことは,コレルスの伝記の中に明確に誤りである事柄,すなわちスピノザがあたかもスぺイクの面前でシモン・ド・フリースSimon Josten de Vriesからの金銭の提供を辞退したことが記述されているからではありません。むしろスぺイクはスピノザに好意を抱いていた,あるいは敬愛の情をもっていたという点にあるのです。そうであるならスぺイクには,スピノザを実際よりも立派な人物として他者に語る動機が存在するといえます。つまり,リュカスの日記は僕にも必要以上にスピノザを賛美している部分があるように感じられ,それはリュカス自身が親スピノザという立場であったことが動機となったと思われるのですが,それと同じことが,スぺイクの場合にも該当する可能性があると僕は考えたのです。
スぺイクに実際に取材したふたりのうち,セバスティアン・コルトホルトが書いたのは,父Christian Kortholtが書いた『三人の欺瞞者論De Tribus Impostoribus Magnis』の序文です。つまりその著書はスピノザを欺瞞者とみなしていることが明らかで,スピノザを批判しようという意図を有していることが明らかです。一方,コレルスはルター派の説教師であり,その説教を聞くためにスぺイクが出掛けることによってふたりは知り合いました。したがってコレルスはキリスト教を信仰していなかったスピノザのことを快くは思わないであろうということを,スぺイクは容易に推定できたでしょう。したがってそのふたりにスピノザのことを話す場合には,スピノザのことを美化して話したとしておかしくありません。それはスピノザのためでもありますし,自分のためにもなり得ます。すなわち無信仰のスピノザに5年半にもわたって部屋を貸していたことの弁明にもなり得るのです。
武田がスタートを取って平原の前受け。周回中に動いた新田が5番手で6番手に三谷。稲垣の後ろを和田と浅井の両者が狙うような周回に。三谷が動いて平原を抑えようとしたのが残り2周のホーム。平原は下げず,稲垣と併走で打鐘。ここから三谷が本格的に発進して抑え先行。番手戦はコーナーで平原が奪うとホームでまた稲垣が追い上げてきましたが,再びコーナーで平原が奪いきりました。最後尾まで下げていた新田はホームから発進。コーナーで競りの影響もあって外を回らされましたがバックで三谷を捕えました。平原が三谷の後ろから新田を追い,直線で差して優勝。マークの武田が4分の3車輪差の2着で関東のワンツー。新田が半車身差の3着で,バックから発進していった浅井も半車輪差の4着まで迫りました。
優勝した埼玉の平原康多選手は前回出走の大宮記念に続いて連続優勝。ビッグは11月の競輪祭以来で8勝目。GⅠは7勝目。全日本選抜競輪は2013年以来4年ぶりの2勝目。このレースは単騎の選手が3人もいる中で4人でラインを組めた関東勢が数的に優位。武田の地元なのでもしかしたら少し無理に駆ける可能性もあると思っていましたが,強引なレースはしませんでした。武田が迷わずスタートを取っていますので,前受けから番手狙いというのは当初からの作戦のひとつとしてあったものと思います。いいレースをしたのは新田で,だれかマークしてくれる選手がいれば結果は違っていたかもしれません。
場合によってはコレルスJohannes Colerusの伝記Levens-beschrijving van Benedictus de SpinozaよりリュカスJean Maximilien Lucasの伝記が信用に値するとフロイデンタールJacob Freudenthalが考える理由は,証言者としてのスぺイクHendrik van der Spyckが信用に値しないからでした。このゆえにフロイデンタールはコルトホルトSebastian KortholtやベールPierre Bayleにも疑念を抱いているのですが,僕はコレルスの伝記に焦点を絞ります。というのも僕が考えたいのは,スぺイク自身にあるからです。
『スピノザの生涯』を読んで,確かにフロイデンタールの見解に一理あると僕は思いました。ですがそのことは,コレルスの伝記の中に明確に誤りである事柄,すなわちスピノザがあたかもスぺイクの面前でシモン・ド・フリースSimon Josten de Vriesからの金銭の提供を辞退したことが記述されているからではありません。むしろスぺイクはスピノザに好意を抱いていた,あるいは敬愛の情をもっていたという点にあるのです。そうであるならスぺイクには,スピノザを実際よりも立派な人物として他者に語る動機が存在するといえます。つまり,リュカスの日記は僕にも必要以上にスピノザを賛美している部分があるように感じられ,それはリュカス自身が親スピノザという立場であったことが動機となったと思われるのですが,それと同じことが,スぺイクの場合にも該当する可能性があると僕は考えたのです。
スぺイクに実際に取材したふたりのうち,セバスティアン・コルトホルトが書いたのは,父Christian Kortholtが書いた『三人の欺瞞者論De Tribus Impostoribus Magnis』の序文です。つまりその著書はスピノザを欺瞞者とみなしていることが明らかで,スピノザを批判しようという意図を有していることが明らかです。一方,コレルスはルター派の説教師であり,その説教を聞くためにスぺイクが出掛けることによってふたりは知り合いました。したがってコレルスはキリスト教を信仰していなかったスピノザのことを快くは思わないであろうということを,スぺイクは容易に推定できたでしょう。したがってそのふたりにスピノザのことを話す場合には,スピノザのことを美化して話したとしておかしくありません。それはスピノザのためでもありますし,自分のためにもなり得ます。すなわち無信仰のスピノザに5年半にもわたって部屋を貸していたことの弁明にもなり得るのです。