スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

泗水杯争奪戦&スぺイクの証言の注意点

2017-02-28 19:08:33 | 競輪
 被災地支援競輪として実施された四日市記念の決勝。並びは山中‐内藤の南関東,浅井‐坂口‐志智の中部,稲垣に竹内,取鳥‐井上の西国。
 浅井がスタートを取って前受け。4番手に稲垣,6番手に取鳥,8番手に山中で周回。残り3周のバックの出口から山中が上昇開始。内藤の後ろに取鳥が続きました。山中がホームで浅井を叩いて前に出ると,切り替えていた取鳥がバックから発進して打鐘。このラインを追った稲垣がコーナーからホームにかけて発進していこうとしましたが,うまく取鳥がスピードアップしたため井上の外で併走に。しかしこの競りは井上が勝ち,稲垣は3番手に後退。竹内の後ろでこれを見ていた山中がバックの入口から発進。出口の手前で捲り切りました。後方まで引いた浅井はその外を捲りにいきましたが直線の手前で内藤がうまくブロック。そのまま粘った山中が優勝。1車輪差の2着争いは写真判定となりましたがマークの内藤が続いて南関東のワンツー。立て直した浅井は迫ったもののタイヤ差の3着まで。浅井マークの坂口もタイヤ差の4着と大接戦でした。
 優勝した千葉の山中秀将選手は記念競輪初優勝。このレースは若い取鳥の先行が予想されたところ。しかし稲垣が意外なほど早い段階で叩きにいったため,実質的に先行争いのような展開となりました。その直後に位置を取れたのがまず大きかったといえるでしょう。着差から推測するとスピードダウンしなければ中部勢のワンツーになっていた可能性も高く,マークの内藤もいい仕事をしたといえそうです。

 ここまでに示してきたことを根拠に推測を進めれば,スぺイクは確かにスピノザのことを称えようとする動機を有してはいたものの,スピノザの日々の生活態度が品行方正であったこと,いい換えれば敬虔pietasであったことについてコレルスJohannes Colerusに証言するときには,それを大袈裟に語ることはあったとしても,作り話をするということはなかっただろうと思われます。たとえば僕はスぺイクが,あたかも自分の面前でスピノザはシモン・ド・フリースSimon Josten de Vriesからの資金提供を辞退したというようにコレルスに語ったのだと思いますが,これは,資金提供を辞退したという事実に脚色を加えたものであって,実際にスピノザがそれを辞退したという点については疑う必要はないのだと解します。ただ,この種の脚色はほかの部分にも加えられている可能性は残りますから,この点についても,コレルスによる伝記を読む際には注意する必要はあると考えます。
                                     
 一方,スピノザの生活態度がキリスト教の教えに背くものではなかったということが,直接的にキリスト教と関連付けて説明されている箇所については,より大きな注意が必要かと思われます。ルター派の説教師であったコレルスに証言する際には,スぺイクにとってはそれを伝えることの方がより重大であったと考えられるからです。なのでこの種の説明については,完全に事実に反するようなスぺイクの創作,いってみれば脚色ではなく脚本ないしは原案のような内容すら含まれているという可能性も排除しない方がよいだろうと思います。フロイデンタールJacob Freudenthalが,証言者としてのスぺイクに疑念を抱いている点について,僕はこういった理由からそれは合理的な指摘であるとみなします。ただ,フロイデンタールはその根拠を,スぺイクがひとりの人間としていい加減であったということ,悪くいえば平気で噓をつくような人間であったということに求めているようなふしがあるのですが,僕はそうではなく,むしろスぺイクにはそのような嘘をつくようなはっきりとした動機があったという点に根拠を求めるという相違があるということです。
 そこで,どのような記述について疑いを有するのが妥当であるか,具体的に示してみます。
コメント
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