11日に有楽町朝日ホールで指された第14回朝日杯将棋オープンの決勝。対戦成績は藤井聡太二冠が1勝,三浦弘行九段が1勝。
振駒で藤井二冠の先手となり,三浦九段の横歩取り。最初から最後までとにかく難解な将棋で,AIの指針がなければ僕にはどこをどう考えればいいのかまったく分からないというような一局でした。ここではポイントのひとつとなった局面について。
実戦は第1図で☖5五金と打ち☗同王☖4四銀☗同飛☖同金☗同王☖3三銀☗同王☖5四飛の手順で後手は自玉を安全にしつつ先手玉を危険に晒し,先手は☗4四銀と受けました。
第2図の先手玉を寄せるのが意外なほどに難しく,後手が最善手を逃したために先手の勝ちになりました。
それなら第1図で☖5五歩と打つとどうなるか。もし実戦と同じに進むなら第2図の時点で後手の持駒に金が増えますから,後手が勝つでしょう。なので☖5五歩には☗5七王と逃げることになり,後手は☖5八金☗6七王まで決めて☖2四金と飛車を取ると第3図の局面になります。
この局面は☖6八飛☗同金☖8七歩成以下の手順で先手玉が危ないので,先手は後手玉を詰ましにいくことになります。まず☗5二角から。ここで☖3二玉は☗4三角成で詰みなので☖同金☗同歩成。ここで☖同玉は☗4三角で詰みなので今度は☖3二玉。ここから先手は☗4二と☖3三玉☗4三と☖3四玉と追って☗1六角と打ちますが☖2五金と移動合いをします。
第4図になると後手玉は詰まないので後手の勝ちです。なので第1図は大きなポイントのひとつだったといえるでしょう。
藤井二冠が優勝。第11回,12回に続く2年ぶり3度目の朝日杯将棋オープン優勝です。
自己原因論争の論点の中心がどこにあったのかということは,『省察Meditationes de prima philosophia』の論駁と答弁の後に続いた論争をみることによって,さらに補強することができます。
1647年に,ライデン大学の神学者であったレヴィウスJacobus Reviusuは,デカルトRené Descartesを攻撃するために,5つの討論会を開催しました。このうちふたつの討論が,自己原因論争と関係していました。そこでレヴィウスが主張していることの主旨は,デカルトは神Deusの自己由来性を積極的に解することで,神が自己原因causa suiであると主張したというものです。なおレヴィウスは,この考え方は神に対する不敬であると付け加えています。アルノーAntoine Amauldは,神の存在existentiaを起成原因causa efficiensの概念notioから説明するということは,正統な神学の立場ではないという意味のことをいっていました。つまりアルノーはある種の神学的観点からデカルトを批判していたわけです。レヴィウスは神学者でしたから,神学的観点からデカルトを批判することになるのは当然だといえるでしょう。そして神が自己原因であると主張することは,神学的観点に反する立場であったわけです。
デカルトはこれに対して反論しています。それは,神が積極的な意味において自身の起成原因である,つまり神は自己原因であるなどとは自分は主張していないというものです。たとえレヴィウスがどんなにデカルト自身の著作を読んで調べたとしても,そのような記述は発見できないともデカルトは主張しています。同時に,神が自己原因であるという主張については,奇怪な見解opinioであるとデカルトはいっています。したがってこの点に関しては,デカルトはアルノーやレヴィウスの神学的観点と同じ立場に立ったといっていいでしょう。
神学的観点については同じ立場に立っているわけで,その点に関してはふたりの論争としては探求する必要はないでしょう。一方,この部分の,神が自己原因であるとデカルトが主張しているか否かという点に関するレヴィウスとデカルトの間での論争について,それを字義通りに解釈するのであれば,デカルトがいっていることが正しいといわざるを得ません。確かにデカルトは神が自己原因であるということは,完全に否定しているからです。
振駒で藤井二冠の先手となり,三浦九段の横歩取り。最初から最後までとにかく難解な将棋で,AIの指針がなければ僕にはどこをどう考えればいいのかまったく分からないというような一局でした。ここではポイントのひとつとなった局面について。
実戦は第1図で☖5五金と打ち☗同王☖4四銀☗同飛☖同金☗同王☖3三銀☗同王☖5四飛の手順で後手は自玉を安全にしつつ先手玉を危険に晒し,先手は☗4四銀と受けました。
第2図の先手玉を寄せるのが意外なほどに難しく,後手が最善手を逃したために先手の勝ちになりました。
それなら第1図で☖5五歩と打つとどうなるか。もし実戦と同じに進むなら第2図の時点で後手の持駒に金が増えますから,後手が勝つでしょう。なので☖5五歩には☗5七王と逃げることになり,後手は☖5八金☗6七王まで決めて☖2四金と飛車を取ると第3図の局面になります。
この局面は☖6八飛☗同金☖8七歩成以下の手順で先手玉が危ないので,先手は後手玉を詰ましにいくことになります。まず☗5二角から。ここで☖3二玉は☗4三角成で詰みなので☖同金☗同歩成。ここで☖同玉は☗4三角で詰みなので今度は☖3二玉。ここから先手は☗4二と☖3三玉☗4三と☖3四玉と追って☗1六角と打ちますが☖2五金と移動合いをします。
第4図になると後手玉は詰まないので後手の勝ちです。なので第1図は大きなポイントのひとつだったといえるでしょう。
藤井二冠が優勝。第11回,12回に続く2年ぶり3度目の朝日杯将棋オープン優勝です。
自己原因論争の論点の中心がどこにあったのかということは,『省察Meditationes de prima philosophia』の論駁と答弁の後に続いた論争をみることによって,さらに補強することができます。
1647年に,ライデン大学の神学者であったレヴィウスJacobus Reviusuは,デカルトRené Descartesを攻撃するために,5つの討論会を開催しました。このうちふたつの討論が,自己原因論争と関係していました。そこでレヴィウスが主張していることの主旨は,デカルトは神Deusの自己由来性を積極的に解することで,神が自己原因causa suiであると主張したというものです。なおレヴィウスは,この考え方は神に対する不敬であると付け加えています。アルノーAntoine Amauldは,神の存在existentiaを起成原因causa efficiensの概念notioから説明するということは,正統な神学の立場ではないという意味のことをいっていました。つまりアルノーはある種の神学的観点からデカルトを批判していたわけです。レヴィウスは神学者でしたから,神学的観点からデカルトを批判することになるのは当然だといえるでしょう。そして神が自己原因であると主張することは,神学的観点に反する立場であったわけです。
デカルトはこれに対して反論しています。それは,神が積極的な意味において自身の起成原因である,つまり神は自己原因であるなどとは自分は主張していないというものです。たとえレヴィウスがどんなにデカルト自身の著作を読んで調べたとしても,そのような記述は発見できないともデカルトは主張しています。同時に,神が自己原因であるという主張については,奇怪な見解opinioであるとデカルトはいっています。したがってこの点に関しては,デカルトはアルノーやレヴィウスの神学的観点と同じ立場に立ったといっていいでしょう。
神学的観点については同じ立場に立っているわけで,その点に関してはふたりの論争としては探求する必要はないでしょう。一方,この部分の,神が自己原因であるとデカルトが主張しているか否かという点に関するレヴィウスとデカルトの間での論争について,それを字義通りに解釈するのであれば,デカルトがいっていることが正しいといわざるを得ません。確かにデカルトは神が自己原因であるということは,完全に否定しているからです。