⑧の最後のところでいったアントン・ヘーシンクについては,戸口はプロレスラーとしてまったくといっていいほど評価していません。このシリーズでヘーシンクはジャンボ・鶴田のUN王座に挑戦したのですが,この試合もひどい試合であったと酷評しています。このシリーズではタイトル戦の前哨戦として,戸口がヘーシンクと組んで鶴田と当たるという試合がいくつか組まれていたこともあり,タイトル戦の翌日にわざわざ事務所まで行き,馬場に直訴したそうです。この結果として,鶴田と戸口の対戦が安売りされることはなくなったし,鶴田のタイトル戦の相手も厳選されるようになったと語っています。前述したようにヘーシンクは馬場が呼んだわけではなく,日本テレビが契約した選手でしたから,鶴田との試合については馬場としてもおそらく組まざるを得なかったのだと推測しますが,レスラーとしてのヘーシンクに対する評価は,馬場の評価も戸口の評価と同じようなものだったと解してよいと思います。
この後,戸口はチャンピオンカーニバルに出場。鶴田との公式戦は30分の時間切れ引き分けでした。そして5月に,大木金太郎と保持していたインタータッグのベルトを,馬場・鶴田組に奪取されます。この試合は最後に大木が3カウントを奪われて終わっているのですが,この点について戸口は,この時期から馬場の中では大木と戸口の立場が逆転したからだと言っています。実際にこれ以降,大木と戸口がタッグを結成する機会は減少していったそうです。
9月13日に名古屋で戸口と鶴田のシングルマッチが行われました。この日は馬場と大木のシングルマッチも組まれていたのですが,メーンは戸口と鶴田の試合でした。ですから,馬場の中で大木と戸口の立場が逆転していったという戸口の発言には,ある程度の裏付けはあると考えてよいでしょう。このシングルマッチは60分の時間切れ引き分けで,戸口のアピールにより5分の延長戦があり,そこでも決着はつきませんでした。このアピールについて戸口は,アメリカで学んだことだと言っていますが,体力的には限界で,あと10分というアピールはできなかったそうです。鶴田はケロッとしていたようなので,この時点でスタミナという面では,鶴田の方が上だったのでしょう。戸口が鶴田を最も高く評価するのもその点です。
現在の考察とはいっかな関係ありませんが,関連事項についてふたつほど指摘しておきます。
ある物体corpusとその観念ideaは同一個体で,同一個体は合一しているとみられる限り,物体の観念はその物体の精神mensといわれるわけです。これが構造主義的解釈なのですが,この解釈が精神について適用されるのであれば,精神の観念対象ideatumである身体corpusにも妥当するというように考えられます。つまりある物体がその物体の観念と合一しているという観点からみられると,その物体はその物体の身体といわれるという解釈です。基本原理としていえば,当ブログはこのような解釈の下に執筆されていると理解してください。このことを,ここでは別の観点から説明します。
スピノザが人間の身体humanum corpusというとき,身体ということに特別の意味があるわけではありません。これは人間的物体というほどの意味だからです。したがって,馬の身体とは馬的物体のことであって,三角形的物体といえば,それは三角形の身体を意味するというように解することができるでしょう。馬の身体というのは僕たちはそんなに不自然には感じないでしょうが,三角形の身体といわれれば僕たちは不自然に感じられるのではないかと思います。ですがもし三角形的物体といわれれば,そこまで不自然であると感じられないのではないでしょうか。しかしもしもそれが不自然に感じられないのだとすれば,三角形の身体というのを不自然に感じていないというのと同じことなのです。
このことが,すべての物体は精神を有するという考え方を理解するために役立つかもしれません。三角形の身体とは三角形的物体のことであって,それはその三角形的物体が三角形的物体の観念と合一しているという観点からいわれるのです。すると,同じ観点から三角形的物体の観念は三角形の精神といわれることになり,三角形は精神を有するということがどういうことなのかということを理解することができるのではないでしょうか。そしてこのことは物体一般,○○的物体といわれるものすべてに妥当するのですから,すべての物体が精神を有するというのがどういう意味なのかということも理解しやすくなるのではないでしょうか。
この後,戸口はチャンピオンカーニバルに出場。鶴田との公式戦は30分の時間切れ引き分けでした。そして5月に,大木金太郎と保持していたインタータッグのベルトを,馬場・鶴田組に奪取されます。この試合は最後に大木が3カウントを奪われて終わっているのですが,この点について戸口は,この時期から馬場の中では大木と戸口の立場が逆転したからだと言っています。実際にこれ以降,大木と戸口がタッグを結成する機会は減少していったそうです。
9月13日に名古屋で戸口と鶴田のシングルマッチが行われました。この日は馬場と大木のシングルマッチも組まれていたのですが,メーンは戸口と鶴田の試合でした。ですから,馬場の中で大木と戸口の立場が逆転していったという戸口の発言には,ある程度の裏付けはあると考えてよいでしょう。このシングルマッチは60分の時間切れ引き分けで,戸口のアピールにより5分の延長戦があり,そこでも決着はつきませんでした。このアピールについて戸口は,アメリカで学んだことだと言っていますが,体力的には限界で,あと10分というアピールはできなかったそうです。鶴田はケロッとしていたようなので,この時点でスタミナという面では,鶴田の方が上だったのでしょう。戸口が鶴田を最も高く評価するのもその点です。
現在の考察とはいっかな関係ありませんが,関連事項についてふたつほど指摘しておきます。
ある物体corpusとその観念ideaは同一個体で,同一個体は合一しているとみられる限り,物体の観念はその物体の精神mensといわれるわけです。これが構造主義的解釈なのですが,この解釈が精神について適用されるのであれば,精神の観念対象ideatumである身体corpusにも妥当するというように考えられます。つまりある物体がその物体の観念と合一しているという観点からみられると,その物体はその物体の身体といわれるという解釈です。基本原理としていえば,当ブログはこのような解釈の下に執筆されていると理解してください。このことを,ここでは別の観点から説明します。
スピノザが人間の身体humanum corpusというとき,身体ということに特別の意味があるわけではありません。これは人間的物体というほどの意味だからです。したがって,馬の身体とは馬的物体のことであって,三角形的物体といえば,それは三角形の身体を意味するというように解することができるでしょう。馬の身体というのは僕たちはそんなに不自然には感じないでしょうが,三角形の身体といわれれば僕たちは不自然に感じられるのではないかと思います。ですがもし三角形的物体といわれれば,そこまで不自然であると感じられないのではないでしょうか。しかしもしもそれが不自然に感じられないのだとすれば,三角形の身体というのを不自然に感じていないというのと同じことなのです。
このことが,すべての物体は精神を有するという考え方を理解するために役立つかもしれません。三角形の身体とは三角形的物体のことであって,それはその三角形的物体が三角形的物体の観念と合一しているという観点からいわれるのです。すると,同じ観点から三角形的物体の観念は三角形の精神といわれることになり,三角形は精神を有するということがどういうことなのかということを理解することができるのではないでしょうか。そしてこのことは物体一般,○○的物体といわれるものすべてに妥当するのですから,すべての物体が精神を有するというのがどういう意味なのかということも理解しやすくなるのではないでしょうか。