④の後は②の後の部分と同じです。ただし③の冒頭にいったように,この部分はリフレインされますので.この部分は最後にすることとして,3番に入ります。

3番といいましたが,3番は1番および2番に比べると短く,②の部分と④の部分に対応しています。これはメロディーラインにおける対応という意味で,①の部分と③の部分は3番にはないということです。
地平のはしから地平のはしまで
皆、流星のひと走り
ここでようやくタイトルである流星が歌詞の中にも登場します。この流星が何を意味するかはもはや明白でしょう。それはトラックです。確かに長距離トラックには光り輝く装飾が施されていることが少なくない上に,日本中をあちらからこちらへと走り回っているわけですから,流星と喩えるに相応しいといえるかもしれません。
ほら 流星がまたひとつ 君は願いを言えたかい
流れ星をみたときに願い事をするとそれが叶うというのは,とても有名な迷信といえるでしょう。ここで流星といわれているのは実際には流れ星ではなく長距離トラックのことですが,トラックとすれ違うたびに願い事をすることが,あるいは歌い手の習慣になっているのかもしれません。
それでは,人間中心主義と本性中心主義が対立したとき,スピノザの哲学では本性中心主義の方を選択するべきであると僕が考えているもうひとつの理由の説明に移ります。これは『エチカ』のテクストに基づいています。
スピノザは第三部定理五七備考で,非理性的動物,これが意味するのは人間以外の動物と解するのが適切だと思いますが,そうした動物の感情affectusについて言及しています。スピノザはこうした動物が感情を持つということは疑い得ないことであるとして,そうした動物の感情と人間の感情は,動物の本性naturaと人間の本性natura humanaが異なっている分だけ異なっているといっています。スピノザは単に非理性的動物とはいわずに,いわゆる非理性的動物といっていますので,こうした動物が理性ratioを持つということを完全に否定しているのではないかもしれません。もしスピノザがそのようにいうことで,本当は動物にも理性があるということを暗に示唆しているのであれば,僕の考察にとっては有利になるのですが,これは確実にそうであるとはいえませんから,このことについてはここでは触れません。
スピノザはこのことを述べた後で,次のようにいっています。
「馬も人間も生殖への情欲に駆られるけれども,馬は馬らしい情欲に駆られ,人間は人間らしい情欲に駆られる。また同様に昆虫,魚,鳥の情欲および衝動はそれぞれ異なったものでなければならぬ。こうしておのおのの個体は自己の具有する本性に満足して生き,そしてそれを楽しんでいるのであるが,各自が満足しているこの生およびこの楽しみはその個体の観念あるいは精神にほかならない。したがってある個体の楽しみは他の個体の楽しみと,ちょうど一方の本質が他方の本質と異なるだけ本性上相違している」。
この備考Scholiumの中で,個体の観念ideaとその精神mensは等置されていますが,これはスピノザの哲学において,精神が身体corpusの観念とされているからです。つまりたとえば馬の身体の観念というのは馬の精神のことをいうのであって,これはその精神の機能を意味するのではありません。人間の精神と馬の精神もまた,人間の本性と馬の本性が異なる分だけ異なっていると理解しなければなりません。

3番といいましたが,3番は1番および2番に比べると短く,②の部分と④の部分に対応しています。これはメロディーラインにおける対応という意味で,①の部分と③の部分は3番にはないということです。
地平のはしから地平のはしまで
皆、流星のひと走り
ここでようやくタイトルである流星が歌詞の中にも登場します。この流星が何を意味するかはもはや明白でしょう。それはトラックです。確かに長距離トラックには光り輝く装飾が施されていることが少なくない上に,日本中をあちらからこちらへと走り回っているわけですから,流星と喩えるに相応しいといえるかもしれません。
ほら 流星がまたひとつ 君は願いを言えたかい
流れ星をみたときに願い事をするとそれが叶うというのは,とても有名な迷信といえるでしょう。ここで流星といわれているのは実際には流れ星ではなく長距離トラックのことですが,トラックとすれ違うたびに願い事をすることが,あるいは歌い手の習慣になっているのかもしれません。
それでは,人間中心主義と本性中心主義が対立したとき,スピノザの哲学では本性中心主義の方を選択するべきであると僕が考えているもうひとつの理由の説明に移ります。これは『エチカ』のテクストに基づいています。
スピノザは第三部定理五七備考で,非理性的動物,これが意味するのは人間以外の動物と解するのが適切だと思いますが,そうした動物の感情affectusについて言及しています。スピノザはこうした動物が感情を持つということは疑い得ないことであるとして,そうした動物の感情と人間の感情は,動物の本性naturaと人間の本性natura humanaが異なっている分だけ異なっているといっています。スピノザは単に非理性的動物とはいわずに,いわゆる非理性的動物といっていますので,こうした動物が理性ratioを持つということを完全に否定しているのではないかもしれません。もしスピノザがそのようにいうことで,本当は動物にも理性があるということを暗に示唆しているのであれば,僕の考察にとっては有利になるのですが,これは確実にそうであるとはいえませんから,このことについてはここでは触れません。
スピノザはこのことを述べた後で,次のようにいっています。
「馬も人間も生殖への情欲に駆られるけれども,馬は馬らしい情欲に駆られ,人間は人間らしい情欲に駆られる。また同様に昆虫,魚,鳥の情欲および衝動はそれぞれ異なったものでなければならぬ。こうしておのおのの個体は自己の具有する本性に満足して生き,そしてそれを楽しんでいるのであるが,各自が満足しているこの生およびこの楽しみはその個体の観念あるいは精神にほかならない。したがってある個体の楽しみは他の個体の楽しみと,ちょうど一方の本質が他方の本質と異なるだけ本性上相違している」。
この備考Scholiumの中で,個体の観念ideaとその精神mensは等置されていますが,これはスピノザの哲学において,精神が身体corpusの観念とされているからです。つまりたとえば馬の身体の観念というのは馬の精神のことをいうのであって,これはその精神の機能を意味するのではありません。人間の精神と馬の精神もまた,人間の本性と馬の本性が異なる分だけ異なっていると理解しなければなりません。