スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

叡王戦&想定

2024-05-04 19:26:00 | 将棋
 2日に名古屋で指された第9期叡王戦五番勝負第三局。
 藤井聡太叡王の先手で角換わり相腰掛銀。後手の伊藤匠七段が最近では少なくなった指し方を選んだのですが,先手の攻めに対応を誤ったようで,先手が有利になりました。
                                       
 この王手に対して☗8八王と逃げましたが,これは危険な手でした。☗6九王と逃げておけば後手は継続手段に窮していたようです。
 ☖8六角成に☗8二角成と飛車を取るのはこの一手。これは先手の読み通りで,そこで☖6八歩成なら勝ちとみていたようです。しかし後手の指し手は☖7六銀。これが先手の読みになく,修正を迫られました。
 ☗6一飛☖4一香と王手をしてから☗8七銀と打ちましたがこれが敗着に。☗7九桂☖6八歩成☗7七銀打なら先手が残していたようです。
 後手は☖6八歩成として☗7六銀と外します。
                                       
 後手にとってはここが最後の山場。ここで☖7八とと金を取ってしまうとまた大変になるところでしたが正着の☖7六同馬を指し,そのまま押し切りました。
 伊藤七段が勝って2勝1敗。第四局は31日に指される予定です。

 チルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausがスピノザが書いた文書をもっていてそれを秘匿しているという情報をステノNicola Stenoが得て,何らかの手段を用いてそれを入手しようとするとき,それを直接的にチルンハウスに糾すという方法と,チルンハウスがそれをステノに渡しやすくするような策を用いるというふたつの方法があり得ます。前者の手段を採用するなら,それにはさほどの時間を要さないでしょう。もちろんチルンハウスはホイヘンスChristiaan Huygensにそれを教えなかったのですから,そのことをステノに対して秘匿しようとはするでしょうが,カトリックの立場からローマにおいてそのようなものを所有しているのであれば罪に問われるというような仕方で恐喝し,それを入手するということは,ステノからすれば可能であったかもしれません。ですからステノがこのような方法を用いたのであれば,ステノとチルンハウスの間に何らかの信頼関係があったと想定する必要はありません。
 もうひとつの策を用いる場合にはそういうわけにはいかず,ある程度の時間を必要とするといわなければなりません。これは恐喝というよりは詐欺とか搾取に近い方法であって,これを成立させるためにはステノに対する信頼をチルンハウスから得ておく必要があるからです。とくにこの場合はカトリックに改宗したステノの立場というのは,チルンハウスに対してむしろ弱みに作用してしまうと考えられますから,より多くの時間を必要としたと考えておく方がよいでしょう。スピノザが死んだのが1677年2月で,異端審問所への草稿の提出は9月ですから,これは十分な時間といえるので,スピノザが死んだときにチルンハウスはまだパリにいたということを否定する要素にはなりませんが,しかしその前からチルンハウスはローマに行っていて,ステノと知り合っていたあるいはその後にステノと知り合ったという可能性もあり得ることになります。なので,スピノザが死んだときにチルンハウスはまだパリにいたと僕は想定しますが,遅くともその半年後にはチルンハウスはローマにいたのであって,僕の想定はあくまでも想定で,スピノザが死んだ時点ですでにチルンハウスがローマにいたということも僕は排除しません。
コメント
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