昨日の第24回名古屋グランプリ。
インに切れ込んでノットゥルノがハナへ。ヒロイックテイルとキリンジが2番手を併走。5馬身差でアルバーシャ。1馬身半差でブリーザフレスカ。6番手にアンタンスルフレで7番手にレッドファーロ。8番手はエクセスリターンとディクテオン。10番手がハクサンアルタイルとフォルベルール。2馬身差の最後尾にトランセンデンスで発馬後の向正面を通過。ノットゥルノがリードを広げていき,正面では3馬身。キリンジが単独の2番手になり,6馬身差の3番手にヒロイックテイル。さらに向正面に戻って,ノットゥルノのリードがさらに広がっていき,きわめて縦長の隊列になりました。ミドルペース。
3コーナーではノットゥルノのリードは7馬身くらい。キリンジとヒロイックテイルの差も7馬身くらい。3馬身差でアルバーシャが4番手。ノットゥルノはそのまま直線に向かい,後続に影さえ踏ませずに楽に逃げ切り,レコードタイムで圧勝。直線でキリンジを外から差したヒロイックテイルが8馬身差で2着。キリンジが2馬身半差で3着。
優勝したノットゥルノは佐賀記念以来の勝利で重賞3勝目。このレースはノットゥルノとディクテオンの力量が他より上で,優勝争いとみていました。ところがノットゥルノが速力で圧倒し,ディクテオンは道中で差を詰めていくことさえできませんでした。僕の見立てが大きく誤っていて,このメンバーではノットゥルノの力量が断然であったということでしょう。佐賀記念の回顧でもいったように,大井で特異に力を発揮していた馬ですが,佐賀に続いて名古屋でも結果を出したことで,その評価は覆したといっていいでしょう。左回りにはまだ課題が残っていますが,この勝ち方なら,トップクラスに追いついてきているとみていいのではないかと思います。父はハーツクライ。Notturnoはイタリア語で夜想曲。
騎乗した武豊騎手は第2回以来22年ぶりの名古屋グランプリ2勝目。管理している音無秀孝調教師は名古屋グランプリ初勝利。
理論上は現実的に存在する人間の精神mens humanaのうちにXの観念ideaがあれば,Xの観念の観念idea ideaeも同じ人間の精神のうちにあり,ゆえに現実的に存在する人間の精神のうちにある無意識は,その人間によって意識化されることができます。とはいえすべての観念が観念の観念として意識化されるわけではありません。このことは当然であって,もし現実的にそのようなことが生じてしまえば,僕たちはそうした情報の処理だけで手一杯になってしまい,他に何もできなくなってしまうであろうからです。ドゥルーズGille Deleuzeが指摘しているように,仮に人間の身体humanum corpusが外部の物体corpusによって刺激されるaffici状態の観念の観念だけを意識conscientiaと規定するとしても,第二部自然学②要請三から理解できるように,人間の身体は多種の外部の物体から多様な仕方で刺激されるので,逐一その状態を意識していたら,ほかのことに対する意識が希薄になってしまうでしょう。それはもしそのようなことがあれば人間は現実的に生き続けていくことができないという意味です。他面からいえば,人間の身体は多種の物体から多様な仕方で刺激されるがゆえに,意識化されない無意識が存在する余地もそれだけ大きくなっているといえるのです。僕は,僕たちの意識というのは僕たちの無意識のごく一部であって,僕たちの無意識というのはほとんどが意識されずに僕たちの精神のうちで観念を形成しているのだと考えます。
スピノザはしかし,このような理論で無意識の理論を確立しようとしたわけではありません。というか,スピノザが生きていた時代にはそもそも無意識という概念notioがなかったのであって,だからスピノザも意識とは何か,そして無意識とは何かということは少しも考えていなかったであろうと思います。しかしそれでも,確かにスピノザの哲学は無意識の理論を含んでいます。このことは,自然科学として無意識という概念を確立し,その理論を構成したフロイトSigmund Freudが,スピノザの哲学の影響を受けているということを明言していることから明白だといえるでしょう。そして僕はこの観点から,観念の観念が意識であるとすれば,観念とは無意識であるというように解するのです。つまりこれは自然科学的な見解opinioです。
インに切れ込んでノットゥルノがハナへ。ヒロイックテイルとキリンジが2番手を併走。5馬身差でアルバーシャ。1馬身半差でブリーザフレスカ。6番手にアンタンスルフレで7番手にレッドファーロ。8番手はエクセスリターンとディクテオン。10番手がハクサンアルタイルとフォルベルール。2馬身差の最後尾にトランセンデンスで発馬後の向正面を通過。ノットゥルノがリードを広げていき,正面では3馬身。キリンジが単独の2番手になり,6馬身差の3番手にヒロイックテイル。さらに向正面に戻って,ノットゥルノのリードがさらに広がっていき,きわめて縦長の隊列になりました。ミドルペース。
3コーナーではノットゥルノのリードは7馬身くらい。キリンジとヒロイックテイルの差も7馬身くらい。3馬身差でアルバーシャが4番手。ノットゥルノはそのまま直線に向かい,後続に影さえ踏ませずに楽に逃げ切り,レコードタイムで圧勝。直線でキリンジを外から差したヒロイックテイルが8馬身差で2着。キリンジが2馬身半差で3着。
優勝したノットゥルノは佐賀記念以来の勝利で重賞3勝目。このレースはノットゥルノとディクテオンの力量が他より上で,優勝争いとみていました。ところがノットゥルノが速力で圧倒し,ディクテオンは道中で差を詰めていくことさえできませんでした。僕の見立てが大きく誤っていて,このメンバーではノットゥルノの力量が断然であったということでしょう。佐賀記念の回顧でもいったように,大井で特異に力を発揮していた馬ですが,佐賀に続いて名古屋でも結果を出したことで,その評価は覆したといっていいでしょう。左回りにはまだ課題が残っていますが,この勝ち方なら,トップクラスに追いついてきているとみていいのではないかと思います。父はハーツクライ。Notturnoはイタリア語で夜想曲。
騎乗した武豊騎手は第2回以来22年ぶりの名古屋グランプリ2勝目。管理している音無秀孝調教師は名古屋グランプリ初勝利。
理論上は現実的に存在する人間の精神mens humanaのうちにXの観念ideaがあれば,Xの観念の観念idea ideaeも同じ人間の精神のうちにあり,ゆえに現実的に存在する人間の精神のうちにある無意識は,その人間によって意識化されることができます。とはいえすべての観念が観念の観念として意識化されるわけではありません。このことは当然であって,もし現実的にそのようなことが生じてしまえば,僕たちはそうした情報の処理だけで手一杯になってしまい,他に何もできなくなってしまうであろうからです。ドゥルーズGille Deleuzeが指摘しているように,仮に人間の身体humanum corpusが外部の物体corpusによって刺激されるaffici状態の観念の観念だけを意識conscientiaと規定するとしても,第二部自然学②要請三から理解できるように,人間の身体は多種の外部の物体から多様な仕方で刺激されるので,逐一その状態を意識していたら,ほかのことに対する意識が希薄になってしまうでしょう。それはもしそのようなことがあれば人間は現実的に生き続けていくことができないという意味です。他面からいえば,人間の身体は多種の物体から多様な仕方で刺激されるがゆえに,意識化されない無意識が存在する余地もそれだけ大きくなっているといえるのです。僕は,僕たちの意識というのは僕たちの無意識のごく一部であって,僕たちの無意識というのはほとんどが意識されずに僕たちの精神のうちで観念を形成しているのだと考えます。
スピノザはしかし,このような理論で無意識の理論を確立しようとしたわけではありません。というか,スピノザが生きていた時代にはそもそも無意識という概念notioがなかったのであって,だからスピノザも意識とは何か,そして無意識とは何かということは少しも考えていなかったであろうと思います。しかしそれでも,確かにスピノザの哲学は無意識の理論を含んでいます。このことは,自然科学として無意識という概念を確立し,その理論を構成したフロイトSigmund Freudが,スピノザの哲学の影響を受けているということを明言していることから明白だといえるでしょう。そして僕はこの観点から,観念の観念が意識であるとすれば,観念とは無意識であるというように解するのです。つまりこれは自然科学的な見解opinioです。