オークスの第85回優駿牝馬。
ショウナンマヌエラが前に出たのですが,その外に持ち出したヴィントシュティレが競りかけていき,向正面に入るあたりで3番手との差が6馬身くらいに。向正面に入ってからヴィントシュティレの方が前に出て,そのままショウナンマヌエラとの差を広げていきました。3番手はタガノエルピーダとランスオブクイーン。4馬身差でクイーンズウォーク。6番手にラヴァンダ。7番手はミアネーロとアドマイヤベル。9番手にステレンボッシュ。10番手にチェルヴィニアとサフィラ。12番手にパレハ。13番手にコガネノソラ。14番手にライトバック。15番手にエセルフリーダ。16番手にサンセットビューとホーエリートで,最後尾にスウィープフィート。最初の1000mは57秒7の超ハイペース。
3コーナーでヴィントシュティレのリードは5馬身。ショウナンマヌエラを挟んで5馬身差でランスオブクイーンが単独の3番手に。ここから前が止まったこともあり,相対的にランスオブクイーンが勢いよく追い上げていくことになり,直線の入口では単独の先頭に。ランスオブクイーンは前をいく馬たちの外だったので,この馬の内外から後方に控えた馬たちが追い上げてきました。抜け出たのはランスオブクイーンの内のステレンボッシュとランスオブクイーンより外を回ったチェルヴィニア。この2頭が後ろを離しての優勝争いとなり,外のチェルヴィニアが制して優勝。ステレンボッシュが半馬身差で2着。ランスオブクイーンを含めた3頭の3着争いは大接戦。ランスオブクイーンのすぐ外のライトバックが1馬身4分の3差で3着。その外のクイーンズウォークがクビ差で4着。ランスオブクイーンがハナ差で5着。
優勝したチェルヴィニアはアルテミスステークス以来の勝利。重賞2勝目で大レース初制覇。アルテミスステークスはかなりの能力を示しての優勝で,そこからぶっつけとなった桜花賞でも期待していました。結果的に桜花賞は大敗に終わってしまったのですが,それは状態が万全ではなかったということなのでしょう。これが本来の実力であると思われますので,今年の3歳牝馬はこの上位2頭と,NHKマイルカップに回ったアスコリピチェーノの3頭が,他に対して上位であるということでいいと思います。母の父はキングカメハメハ。母は2013年にフローラステークスを勝ったチェッキーノで祖母は2003年に京都牝馬ステークスを勝ったハッピーパス。ひとつ上の半兄は昨年の新潟記念を勝っている現役のノッキングポイント。Cerviniaはマッターホルンの山麓にある集落の名称。
騎乗したクリストフ・ルメール騎手はホープフルステークス以来の大レース制覇。第78回,79回,83回に続く2年ぶり4度目の優勝牝馬制覇。管理している木村哲也調教師はホープフルステークス以来の大レース10勝目。優駿牝馬は初勝利。
部分的に同意するというのは,欲望cupiditasから衝動appetitusを差し引いた残余の部分が意識conscientiaであるという点は,僕は理論上はそうであるとしかいいようがないと考えるからです。実際には衝動は意識されるということをスピノザは前提としているというように第三部定理九は読解することができるわけですから,欲望から衝動を差し引いた部分が人間の精神mens humanaのうちに残余の部分として残るというようには,スピノザは考えていないと僕は考えるのです。だから第三部定理九備考にあるように,スピノザは衝動もまた人間の現実的本性actualis essentiaと認めているのではないでしょうか。ただし,僕は意識を観念の観念idea ideae一般と解し,観念を無意識と解しているのですから,実際に現実的に存在する人間が,自身の衝動のすべてを意識するというようには考えません。つまりスピノザがいっていることの解釈を離れ,僕の見解opinioに寄せていうなら,確かに國分がいっている通りになると思います。一方,人間の特徴が自身を突き動かす力potentiaを意識しているという点であるという点には,僕は同意します。スピノザはまさにそのようにいっていると考えるからです。ただし僕は,現実的に存在する人間が,自身を突き動かす力すなわち衝動のすべてを意識していると考えているわけではありません。
次に國分は,第三部定理九備考で欲望についていわれていること,すなわち意識された限りでの衝動であるということが,第三部諸感情の定義一では異なって定義されていることの理由を検証しています。すでにいったように,第三部諸感情の定義一の欲望は,第三部定理九備考で欲望についていわれていることよりも衝動についていわれていることに近似した内容になっています。そしてなぜそのようになっているのかということは,僕は平行論の同一個体という観点から説明しましたが,ここからはそれを國分がどう説明しているのかということを検討していくことにします。
まず最初に踏まえておかなければならないのは,第三部諸感情の定義というのは,第三部の最後に記述されたものです。したがってこれは,第三部の全体を通して論じられてきた諸々の感情affectusについて,それらをリスト化したものであることになります。
ショウナンマヌエラが前に出たのですが,その外に持ち出したヴィントシュティレが競りかけていき,向正面に入るあたりで3番手との差が6馬身くらいに。向正面に入ってからヴィントシュティレの方が前に出て,そのままショウナンマヌエラとの差を広げていきました。3番手はタガノエルピーダとランスオブクイーン。4馬身差でクイーンズウォーク。6番手にラヴァンダ。7番手はミアネーロとアドマイヤベル。9番手にステレンボッシュ。10番手にチェルヴィニアとサフィラ。12番手にパレハ。13番手にコガネノソラ。14番手にライトバック。15番手にエセルフリーダ。16番手にサンセットビューとホーエリートで,最後尾にスウィープフィート。最初の1000mは57秒7の超ハイペース。
3コーナーでヴィントシュティレのリードは5馬身。ショウナンマヌエラを挟んで5馬身差でランスオブクイーンが単独の3番手に。ここから前が止まったこともあり,相対的にランスオブクイーンが勢いよく追い上げていくことになり,直線の入口では単独の先頭に。ランスオブクイーンは前をいく馬たちの外だったので,この馬の内外から後方に控えた馬たちが追い上げてきました。抜け出たのはランスオブクイーンの内のステレンボッシュとランスオブクイーンより外を回ったチェルヴィニア。この2頭が後ろを離しての優勝争いとなり,外のチェルヴィニアが制して優勝。ステレンボッシュが半馬身差で2着。ランスオブクイーンを含めた3頭の3着争いは大接戦。ランスオブクイーンのすぐ外のライトバックが1馬身4分の3差で3着。その外のクイーンズウォークがクビ差で4着。ランスオブクイーンがハナ差で5着。
優勝したチェルヴィニアはアルテミスステークス以来の勝利。重賞2勝目で大レース初制覇。アルテミスステークスはかなりの能力を示しての優勝で,そこからぶっつけとなった桜花賞でも期待していました。結果的に桜花賞は大敗に終わってしまったのですが,それは状態が万全ではなかったということなのでしょう。これが本来の実力であると思われますので,今年の3歳牝馬はこの上位2頭と,NHKマイルカップに回ったアスコリピチェーノの3頭が,他に対して上位であるということでいいと思います。母の父はキングカメハメハ。母は2013年にフローラステークスを勝ったチェッキーノで祖母は2003年に京都牝馬ステークスを勝ったハッピーパス。ひとつ上の半兄は昨年の新潟記念を勝っている現役のノッキングポイント。Cerviniaはマッターホルンの山麓にある集落の名称。
騎乗したクリストフ・ルメール騎手はホープフルステークス以来の大レース制覇。第78回,79回,83回に続く2年ぶり4度目の優勝牝馬制覇。管理している木村哲也調教師はホープフルステークス以来の大レース10勝目。優駿牝馬は初勝利。
部分的に同意するというのは,欲望cupiditasから衝動appetitusを差し引いた残余の部分が意識conscientiaであるという点は,僕は理論上はそうであるとしかいいようがないと考えるからです。実際には衝動は意識されるということをスピノザは前提としているというように第三部定理九は読解することができるわけですから,欲望から衝動を差し引いた部分が人間の精神mens humanaのうちに残余の部分として残るというようには,スピノザは考えていないと僕は考えるのです。だから第三部定理九備考にあるように,スピノザは衝動もまた人間の現実的本性actualis essentiaと認めているのではないでしょうか。ただし,僕は意識を観念の観念idea ideae一般と解し,観念を無意識と解しているのですから,実際に現実的に存在する人間が,自身の衝動のすべてを意識するというようには考えません。つまりスピノザがいっていることの解釈を離れ,僕の見解opinioに寄せていうなら,確かに國分がいっている通りになると思います。一方,人間の特徴が自身を突き動かす力potentiaを意識しているという点であるという点には,僕は同意します。スピノザはまさにそのようにいっていると考えるからです。ただし僕は,現実的に存在する人間が,自身を突き動かす力すなわち衝動のすべてを意識していると考えているわけではありません。
次に國分は,第三部定理九備考で欲望についていわれていること,すなわち意識された限りでの衝動であるということが,第三部諸感情の定義一では異なって定義されていることの理由を検証しています。すでにいったように,第三部諸感情の定義一の欲望は,第三部定理九備考で欲望についていわれていることよりも衝動についていわれていることに近似した内容になっています。そしてなぜそのようになっているのかということは,僕は平行論の同一個体という観点から説明しましたが,ここからはそれを國分がどう説明しているのかということを検討していくことにします。
まず最初に踏まえておかなければならないのは,第三部諸感情の定義というのは,第三部の最後に記述されたものです。したがってこれは,第三部の全体を通して論じられてきた諸々の感情affectusについて,それらをリスト化したものであることになります。