新潟で指された昨日の第50期棋王戦五番勝負第三局。
藤井聡太棋王の先手で角換わり相腰掛銀。この将棋は先手の飛車が2七にいたまま戦いに。その影響がある程度は出て千日手になりました。時間も多く残していましたから,後手の増田康宏八段にとっては悪くない結果だったのではないかと思います。
指し直し局は先手の増田八段が2六歩型の角換わりを志向。後手の藤井棋王が拒否して雁木。先手は矢倉の将棋になりました。
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ここで先手は☗6四角と取って勝ちにいきました。☖同金に☗5四歩。
後手はこれも☖同金と取りました。これは☗7二角の飛車金両取りがあるので驚きの一手。ただ☖8二飛と逃げて☗5四角成には☖5九飛の王手角取りがあるため先手はそうは指せません。なので☗6三銀と打ちました。これには☖4二王。
ここで☗5四銀成としたいところですが今度は☖4九飛と王手してから☗7二飛と角を取られて攻めが続きません。なので☗6一角成としましたが☖4四金で後手が逃げ切りました。
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飛車で王手をする攻防手が後手にあるため,上図で角を切っていくのは無理だったよう。先に☗6九歩と受けておくのがよく,それはまだ長い戦いになったようです。
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千日手を挟む3連勝で藤井棋王が防衛。第48期,49期に続く三連覇で3期目の棋王です。
受動passioから完全に逃れることができるわけではなく,自身の能動actioの力potentiaが受動の力を上回ればそれは能動です。ですから,菊の花を表象したときに悲しみtristitiaを感じることがあるにしても,そのことを明瞭判然と認識するcognoscereことを繰り返しているうちに悲しみが弱まっていくだけでも,確かに自身の力が受動の力をいくらかは上回っているのであり,その限りにおいては受動から逃れているということができます。もちろんこの例は,菊の花の表象像imagoから生じる悲しみを明瞭判然と認識することがわりと容易なので可能になっているといえる面はありますが,受動感情を明瞭判然と認識することによって,それが受動であることをやめるということは,このような意味を有していると解するなら,明瞭判然とした認識が受動感情に対して力を有しているということは理解できるでしょう。なので第五部定理三は,このような観点から理解しておくのがよいかもしれません。これを文字通りに理解してしまうと,ただただ困難なこととしか思えないかもしれないからです。
吉田の講義は,この菊の花の表象imaginatioからさらに先へ向かいます。たとえばこの人が群落で菊の花を表象して悲しみを感じているときに,たまたまだれか知り合いに会って話しかけられたとします。この人はきわめてふさぎ込んでいるときに話しかけられたので,その知人のやることなすことが癇に障っていやな気持になる,つまり,菊の花を表象するときに感じるのとは別種の悲しみを感じてしまうということはあり得るでしょう。そうするとこの人は後にこの知人を表象するたびに,その悲しみを感じることになるでしょう。そして今度はその知人に似た人を表象することによってまた悲しみを感じてしまうというような仕方で,この連想associtatioは数珠繋ぎになっていくかもしれません。そしてこの連想は発展していけばいくほど,おおもとの原因causaを認識し難くなります。つまりなぜ自分が悲しみを感じているのかということを明瞭判然と認識し難くなるのです。第五部定理三でいわれていることが文字通りに解するならただただ困難であるというのは,そもそも受動感情を明瞭判然と認識すること自体が困難であるということなのです。
藤井聡太棋王の先手で角換わり相腰掛銀。この将棋は先手の飛車が2七にいたまま戦いに。その影響がある程度は出て千日手になりました。時間も多く残していましたから,後手の増田康宏八段にとっては悪くない結果だったのではないかと思います。
指し直し局は先手の増田八段が2六歩型の角換わりを志向。後手の藤井棋王が拒否して雁木。先手は矢倉の将棋になりました。
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ここで先手は☗6四角と取って勝ちにいきました。☖同金に☗5四歩。
後手はこれも☖同金と取りました。これは☗7二角の飛車金両取りがあるので驚きの一手。ただ☖8二飛と逃げて☗5四角成には☖5九飛の王手角取りがあるため先手はそうは指せません。なので☗6三銀と打ちました。これには☖4二王。
ここで☗5四銀成としたいところですが今度は☖4九飛と王手してから☗7二飛と角を取られて攻めが続きません。なので☗6一角成としましたが☖4四金で後手が逃げ切りました。
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飛車で王手をする攻防手が後手にあるため,上図で角を切っていくのは無理だったよう。先に☗6九歩と受けておくのがよく,それはまだ長い戦いになったようです。
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千日手を挟む3連勝で藤井棋王が防衛。第48期,49期に続く三連覇で3期目の棋王です。
受動passioから完全に逃れることができるわけではなく,自身の能動actioの力potentiaが受動の力を上回ればそれは能動です。ですから,菊の花を表象したときに悲しみtristitiaを感じることがあるにしても,そのことを明瞭判然と認識するcognoscereことを繰り返しているうちに悲しみが弱まっていくだけでも,確かに自身の力が受動の力をいくらかは上回っているのであり,その限りにおいては受動から逃れているということができます。もちろんこの例は,菊の花の表象像imagoから生じる悲しみを明瞭判然と認識することがわりと容易なので可能になっているといえる面はありますが,受動感情を明瞭判然と認識することによって,それが受動であることをやめるということは,このような意味を有していると解するなら,明瞭判然とした認識が受動感情に対して力を有しているということは理解できるでしょう。なので第五部定理三は,このような観点から理解しておくのがよいかもしれません。これを文字通りに理解してしまうと,ただただ困難なこととしか思えないかもしれないからです。
吉田の講義は,この菊の花の表象imaginatioからさらに先へ向かいます。たとえばこの人が群落で菊の花を表象して悲しみを感じているときに,たまたまだれか知り合いに会って話しかけられたとします。この人はきわめてふさぎ込んでいるときに話しかけられたので,その知人のやることなすことが癇に障っていやな気持になる,つまり,菊の花を表象するときに感じるのとは別種の悲しみを感じてしまうということはあり得るでしょう。そうするとこの人は後にこの知人を表象するたびに,その悲しみを感じることになるでしょう。そして今度はその知人に似た人を表象することによってまた悲しみを感じてしまうというような仕方で,この連想associtatioは数珠繋ぎになっていくかもしれません。そしてこの連想は発展していけばいくほど,おおもとの原因causaを認識し難くなります。つまりなぜ自分が悲しみを感じているのかということを明瞭判然と認識し難くなるのです。第五部定理三でいわれていることが文字通りに解するならただただ困難であるというのは,そもそも受動感情を明瞭判然と認識すること自体が困難であるということなのです。