スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

能登半島支援 万博協賛 日本選手権競輪&意識と規範

2024-05-08 19:13:12 | 競輪
 5日にいわき平競輪場で行われた第78回日本選手権競輪の決勝。並びは小林‐諸橋の上越,吉田‐平原‐武藤の関東で岩本と山口と古性と清水は単騎。
 武藤がスタートを取って吉田の前受け。4番手に古性,5番手に清水,6番手に山口,7番手に小林,最後尾に岩本で周回。残り3周のバックから小林が上昇を開始。これに古性が対応して動き,まずホームで吉田を叩いたのは古性。小林はその後で外から古性を叩き,3番手に古性,4番手に清水,5番手に山口,6番手に吉田,最後尾に岩本の隊列になって打鐘。ホームから吉田が発進。岩本も続いて4人で小林を叩きました。このまま直線まで後ろからの動きがなかったので,番手から踏み込んだ平原が優勝。このラインに続いていた岩本が外から伸びて4分の3車身差で2着。小林が叩かれ,後方からの捲り追い込みとなった古性が半車身差で3着。
                                        
 優勝した埼玉の平原康多選手は一昨年7月の弥彦記念以来の優勝。ビッグは2021年10月の寛仁親王牌以来となる11勝目。GⅠは9勝目。日本選手権は初優勝。このレースはラインの前を回る選手よりは単騎の選手の方が明らかに脚力上位なので,そちらから優勝者が出るのではないかと予想していました。関東地区の5人の選手が,結果的に協力するようなレースになったのですが,これは引いた吉田が,古性や清水,山口が予期していたよりも早い段階で巻き返していったからだと思います。単騎の中では脚力では劣る岩本が2着に食い込んだのは,道中で脚をほとんど使わなかったからなのは間違いなく,したがって,たとえば古性や清水が岩本のような立ち回りをしていれば,優勝まであったのではないでしょうか。

 観念の観念idea ideaeを意識conscientiaとみなすということについて,僕がドゥルーズGille Deleuzeの影響を受けているということについては否定しません。ただ僕は,観念ideaを無意識とみなし観念の観念を意識とみなすという点から,スピノザの哲学における意識とは観念の観念であるというのですから,それは無意識との対比でそのようにいわれているという点には注意してください。僕がいうスピノザの哲学における意識というのは,その人間によって自覚される無意識のことなのであって,この観点からは,現実的に存在する人間によって認識されるような一種の自己認識であるということです。僕はこれからもこのような意味で意識といいます。
 それからもう一点だけいっておくと,スピノザが,というよりスピノザの時代に意識といわれるときには,僕たちが意識という語で意味するのとは異なった意味合いが含まれている場合があります。スピノザの時代における意識というのは,僕たちがいう意味でのモラルとか規範といった意味合い,とくにその個人的な意味合いが含まれている場合があります。たとえば第四部定理八は,意識された喜びlaetitiaおよび悲しみtristitiaについて語られていますが,これが善bonumでありまた悪malumであるといわれています。これなどは意識が個人的な規範と結びつけられている典型的な例であるといえるでしょう。この場合でいえば,善と悪を分かつ個人的な規範が,意識されるものであるといわれているのであって,そのことが現実的に存在する個々の人間について妥当するということになります。つまり一人ひとりの良心conscientiaとでもいうべきものが意識と結びつけられているのであって,一般にこの時代は意識と良心の間に区別はなかったのです。このことは後に別の著書を考察するときに詳しく探求しますからここではこのことだけを指摘しておきます。現代の英語では意識がconsciousnessで良心がconscienceです。このふたつがよく似た綴りなのは,ふたつが元来の意味として関係しているからです。フランス語においてはconscienceが現代でも意識という意味と良心という意味のふたつの意味をもっています。これはスピノザの時代の名残といえるでしょう。

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