ゴールデンウィークの最後を飾る記念競輪は大垣記念で,昨日が決勝(動画)でした。
並びは渡辺-岡部の福島,深谷-柴崎-山口-志智の中部,北津留に望月-宮倉の南関東。
Sは望月が取って北津留の前受け。4番手に渡辺,6番手から深谷で周回。残り2周のホームでは早々と深谷が上昇し,北津留を叩いて中部が前に。深谷はそのままほとんど流すことなく先行。残り1周のホームに入るところでインを単独で上昇した渡辺が5番手に入り,北津留が6番手。しかしこの両者は動けずに一列棒状のまま,バックでは柴崎が番手から発進。こうなっては後ろは成す術がなく,直線から踏んだ山口が差して優勝。柴崎が2着に残り,3着も志智で中部の上位独占。
優勝した岐阜の山口富生選手は2008年末の防府記念以来となる記念競輪8勝目。ここもGⅠ直後でS級S班は不参加。その中で新鋭の深谷が記念で初めて決勝に乗ってきたのは大きく,中部勢の結束の強さを示した優勝であったと思います。
第二部定理一四は,人間の精神が多くのものを知覚するのに有能な適性を有していることを示しています。このことは経験的にも明らかです。たとえば今現在,僕の周囲には目の前のパソコンをはじめとする様ざまな外部の物体がありますが,たとえば視覚という知覚だけをとってみても,僕はそれら数多くの物体から刺激を受けているということができます。いい換えれば,僕の視野には数多くの物体が入っています。そして第二部定理一七によれば,僕はそれら数多くの物体を現実的に存在すると知覚していることになります。
しかし,だから僕がそれらの物体を逐一何から何まで意識しているのかといえば,そんなことはありません。これはだれでも同じで,やはり経験的に明らかなことだといっていいと思います。そしてこのことから分かるように,人間の精神のうちにある表象像があるということと,人間の精神がその表象像を意識するということは,実は別のことなのです。スピノザの哲学に則っていえば,人間の精神のうちにAの表象像があるということは,この精神がAの混乱した観念を有しているということであり,人間がAの表象像を意識するということは,この精神がAの観念の観念を有しているという意味になるからです。この差は,後者が意識であるのに対して,前者は無意識であるということになるでしょう。もちろん第二部定理四三の証明が示しているように,Aの観念とAの観念の観念は平行論における同一個体です。しかしこのことの意味は,AとAの観念が同一個体であるということと同じ意味でなければなりません。したがってAの観念とAの観念の観念というのは,同じ思惟の様態ではありますが,それぞれの属性が異なっているAとAの観念との間にある相違と同種の相違もまたあると考えるべきだろうと思います。
このことから次のことが出てきます。もしも僕たちの身体に一定の量以上の尿が溜まれば,僕たちの精神には尿意という観念が生じます。だからといってその場合に必ず僕たちが尿意を意識するとは限りません。同様に僕たちの身体が排尿という運動を我慢するとき,僕たちの精神はそれを知覚します。しかしだから僕たちが排尿を我慢している自分自身の身体を必ず意識するのかといえば,これもまた必ずしもそうではないということになるのです。
並びは渡辺-岡部の福島,深谷-柴崎-山口-志智の中部,北津留に望月-宮倉の南関東。
Sは望月が取って北津留の前受け。4番手に渡辺,6番手から深谷で周回。残り2周のホームでは早々と深谷が上昇し,北津留を叩いて中部が前に。深谷はそのままほとんど流すことなく先行。残り1周のホームに入るところでインを単独で上昇した渡辺が5番手に入り,北津留が6番手。しかしこの両者は動けずに一列棒状のまま,バックでは柴崎が番手から発進。こうなっては後ろは成す術がなく,直線から踏んだ山口が差して優勝。柴崎が2着に残り,3着も志智で中部の上位独占。
優勝した岐阜の山口富生選手は2008年末の防府記念以来となる記念競輪8勝目。ここもGⅠ直後でS級S班は不参加。その中で新鋭の深谷が記念で初めて決勝に乗ってきたのは大きく,中部勢の結束の強さを示した優勝であったと思います。
第二部定理一四は,人間の精神が多くのものを知覚するのに有能な適性を有していることを示しています。このことは経験的にも明らかです。たとえば今現在,僕の周囲には目の前のパソコンをはじめとする様ざまな外部の物体がありますが,たとえば視覚という知覚だけをとってみても,僕はそれら数多くの物体から刺激を受けているということができます。いい換えれば,僕の視野には数多くの物体が入っています。そして第二部定理一七によれば,僕はそれら数多くの物体を現実的に存在すると知覚していることになります。
しかし,だから僕がそれらの物体を逐一何から何まで意識しているのかといえば,そんなことはありません。これはだれでも同じで,やはり経験的に明らかなことだといっていいと思います。そしてこのことから分かるように,人間の精神のうちにある表象像があるということと,人間の精神がその表象像を意識するということは,実は別のことなのです。スピノザの哲学に則っていえば,人間の精神のうちにAの表象像があるということは,この精神がAの混乱した観念を有しているということであり,人間がAの表象像を意識するということは,この精神がAの観念の観念を有しているという意味になるからです。この差は,後者が意識であるのに対して,前者は無意識であるということになるでしょう。もちろん第二部定理四三の証明が示しているように,Aの観念とAの観念の観念は平行論における同一個体です。しかしこのことの意味は,AとAの観念が同一個体であるということと同じ意味でなければなりません。したがってAの観念とAの観念の観念というのは,同じ思惟の様態ではありますが,それぞれの属性が異なっているAとAの観念との間にある相違と同種の相違もまたあると考えるべきだろうと思います。
このことから次のことが出てきます。もしも僕たちの身体に一定の量以上の尿が溜まれば,僕たちの精神には尿意という観念が生じます。だからといってその場合に必ず僕たちが尿意を意識するとは限りません。同様に僕たちの身体が排尿という運動を我慢するとき,僕たちの精神はそれを知覚します。しかしだから僕たちが排尿を我慢している自分自身の身体を必ず意識するのかといえば,これもまた必ずしもそうではないということになるのです。