夢幻泡影

「ゆめの世にかつもどろみて夢をまたかたるも夢よそれがまにまに」

人生の終わりに

2005年12月14日 23時18分16秒 |  姥捨て山は大騒ぎ
DATE: 12/14/2005 13:47:16

12月7日の「年回り」って記事の一部はお玉という人のブログに触発されたもの。
この人は介護の仕事をしていてその患者さんの危篤の報を聞いてこの記事を書かれていた。
http://blog.goo.ne.jp/t_ashizuka/e/02c3c90ebe50e77da079082aa4e2f67b

私のその記事へのトラックバックが「年回り」だったのだけど、
そこには
>>自分の一生、自分の今置かれている環境に「よかった」って感謝しながら、
>>終わりを迎えられるということは人間にとって一番の幸せ。
この患者さんは素晴らしいめぐり合いを感謝しながら人生を終えられ本当に一生が意味のあるものになったのでしょうね。

お玉さんからの返事が今朝来ていた。
このような施設に勤める人の心の痛みが感じられるものだった。

私のそれに対する返事は
>>
死というものは誰にでも訪れるもの。
最後を迎えて相手が幸せなら、その相手の一生はそれで最高の人生ということでは?

死が遠いものということではなくなるとそんなことを無理なく自然に思えるようになりました。

最良の最後を飾るときをお手伝いされているお玉さんを素晴らしいと思います。
そしてその相手のために涙されているお玉さんを美しいと思います。

でも辛いですよね。
お察しします。
/>>
ってありふれたものだったけど、ちょっとそれ以上の言葉も見つからなかった。

重い話題などだけど、でも返事にも書いたように「死が遠いもの」でなくなってくると、死への感じ方が違ってくるみたい。
まさか、税金の納入日とまではいかなくても、なんとなく払いたくない約束の日って感じ。ただ問題はそのろうそくの火がいつ消えるのか自分には判らないということ。

ちょうど母親が現実の問題として、残りのお金と自分の死ぬまでの生活費を計算しようとして、「いつ死ぬのか判らないからね」ってこぼしているような。

その「予定日」が彼女と比べると多少遠いだろうとは思いながらも、自分も残りの人生の計算がつかないな~、金の切れ目がこの世との切れ目かなって思ったりして。
当人にはそれほど重い現実ではなくなる。
もっともそれは私が子供のときから「もうすぐ死ぬのかな」って思いで生きてきたからなのかもしれない。ずいぶんとおまけの人生をもらったから。

死んでから人から悪口を言われるのはなんとも思わない。だって私の生きてきた美意識なんてかなり極端なものだから。悪口には慣れっこになっている。
恨みを残して死んだら、化けてでてやればいい。
でも本当に愛している人々を困らせるようなことは残したくない。

身近な人の涙を誘うくらいなら、死という現実の重さで許してもらえるでしょう。
でもそれ以上に愛している人々にさまざまな問題を残すようなら、今は悲しくとも、苦しくとも、思い残すことなく死ねるようにと少しづつ身辺整理をしながら、あのコメントを書いていた。