今朝のNHKの番組で大浦みずきさんがダンサーへ宝塚的振り付けって断りながら、動きを教えていた。
二つの動きだけだったけど、例えばバレエでいうピルエットの動きのときにダンサーはメインのカメラに向けて一点で止まる。でも彼女は「宝塚の舞台は広いから」観客の範囲は角度があるからって終わりの目線が客のいる範囲。
アロンジェの動きもダンサーのエネルギーをぶつけるような動きとは違い、指先のしなやかな動きを強調することで先への動きの予感を込めることで観客にその動きが伸びていくことを感じさせられる。
これはクラッシックバレエなどでは初心者の時からずっと言われ続けることなのだと思う。
一つのフレーズあるいはパートが一つ一つの音や動き、色や形の単なる集合ではなくて、まとまりとしてフレーズ全体でかもし出すイメージということ。
1+1は2ではなく、4にも5にもなれるし、なることを期待されているということなのだと思う。
以前久米仙人のブログで人間の認識の範囲がどの程度微小なものか、それによって演奏や作品を見るときの観客の目の鋭さが判るし、演奏家や作家がどこまで気を使わなければならないのかについて触れたことがある。
例えば演奏家にとってのピッチの差は0.1サイクル程度でも判るはず、人よりちょっと音を響かせたいとか、人のピッチにあわせたいというときにはプロの演奏家は442.5を求めていれば442.4では低いと感じなければならないということ。それが判らなければならないということ。
上行する同じ長さの音符の連続したメロディがあって、最初から、最後まで楽譜どおりで弾く演奏家はいない。最初はゆっくり、そして途中で早くなり、最後はまたゆっくり。
音が単純な音のつながりであれば、楽譜どおりでいいわけだけど、それがメロディとしてその人に感じられれば、その人にとって、楽譜どおりではなく、長短のメリハリをつけたものが、均等の音符を弾いているという感じになるのだと思う。
アゴーギクなどではそれの普遍的な展開の仕方を教えているけど、それはあくまで一般論で、その人がそれをどのように脚色するかでその人となりの演奏になっていく。その微妙さを私は100分の一秒くらいって書いていたと思う。
それはプロの演奏家だけがわかるものではなく、聞いている普通の人が認識できる差であるからプロはそこまで気を使うのだとも書いた。
いい職人が認識できる差はカンナのひと削り、つまり1ミクロンの差だという。
人間の認識の差というものはとても普通に自分が気がついている以上にすごいものだと思う。
またこれを意識して作り出せるのは熟練したプロの技なんだろう。それができて初めて何事にもプロとして認められるのだろう。
でもそれを普通の人が認識できるからこそ、プロがそこまで精進せざるをえないということも事実だと思う。
私がここで言っているのは、絶対的な差ではないことはお分かりだと思う。
440.1の音を聞かされて、これはいくつって聞かれても、私なら絶対にわからないだろう。
でもアンサンブルで誰かのピッチが0.1狂ってくれば、全体の音の響きがにごったり、奇麗でないと感じるだろうと思う。
一つの音符を0.01秒長く弾くことがフレーズ全体として、もたつきを感じさせたり、妙にもったいぶった弾き方と感じたり、あるいは先へ伸びていく余韻として感じたりするだろう。でも単純にその長さの音だけを出されても絶対に判らない。
で、久米仙人のブログの時にはこのときには、作家の心のイメージを伝えるためにはどれだけの細心さが求められるかというような気持ちで書いていたけど、
同じイメージを作家が表そうとしても、そのときの環境によっても、非常に大きな差がある。響くホールでは同じ長さの音を出そうとするともっと短い音を要求されるだろうし、使う材料や、見る人の置かれる環境によって、色や形を変えなければ、映し出したいイメージが相手に伝わらなくなる。
暖かい色は熱いときには暑苦しさ、不快さを伝えるし、寒いときには好感のもてる暖かさとして伝わるだろう。
気持ちだけが先走って、環境もメッセージを伝える相手のことも何も考えなくて、自分の気持ちだけをぶつけて、「ああ、さっぱりした」では見る人は他人のマスターベーションに付き合わされているだけ、作家や演奏家が何を言いたいのか、何を表したいのかまったく判らない。
作家は互いに理解できるキーワードをそのなかに入れ込めなければ、見る人には共通の土台には立てない。それは作家の伝えたいイメージが判るかどうかという以前の問題。
対話がなければ、相手に対して自分の気持ちを表現できない。
もちろんその対話は言葉でするものではなく、作品に込められるものだけど。
二つの動きだけだったけど、例えばバレエでいうピルエットの動きのときにダンサーはメインのカメラに向けて一点で止まる。でも彼女は「宝塚の舞台は広いから」観客の範囲は角度があるからって終わりの目線が客のいる範囲。
アロンジェの動きもダンサーのエネルギーをぶつけるような動きとは違い、指先のしなやかな動きを強調することで先への動きの予感を込めることで観客にその動きが伸びていくことを感じさせられる。
これはクラッシックバレエなどでは初心者の時からずっと言われ続けることなのだと思う。
一つのフレーズあるいはパートが一つ一つの音や動き、色や形の単なる集合ではなくて、まとまりとしてフレーズ全体でかもし出すイメージということ。
1+1は2ではなく、4にも5にもなれるし、なることを期待されているということなのだと思う。
以前久米仙人のブログで人間の認識の範囲がどの程度微小なものか、それによって演奏や作品を見るときの観客の目の鋭さが判るし、演奏家や作家がどこまで気を使わなければならないのかについて触れたことがある。
例えば演奏家にとってのピッチの差は0.1サイクル程度でも判るはず、人よりちょっと音を響かせたいとか、人のピッチにあわせたいというときにはプロの演奏家は442.5を求めていれば442.4では低いと感じなければならないということ。それが判らなければならないということ。
上行する同じ長さの音符の連続したメロディがあって、最初から、最後まで楽譜どおりで弾く演奏家はいない。最初はゆっくり、そして途中で早くなり、最後はまたゆっくり。
音が単純な音のつながりであれば、楽譜どおりでいいわけだけど、それがメロディとしてその人に感じられれば、その人にとって、楽譜どおりではなく、長短のメリハリをつけたものが、均等の音符を弾いているという感じになるのだと思う。
アゴーギクなどではそれの普遍的な展開の仕方を教えているけど、それはあくまで一般論で、その人がそれをどのように脚色するかでその人となりの演奏になっていく。その微妙さを私は100分の一秒くらいって書いていたと思う。
それはプロの演奏家だけがわかるものではなく、聞いている普通の人が認識できる差であるからプロはそこまで気を使うのだとも書いた。
いい職人が認識できる差はカンナのひと削り、つまり1ミクロンの差だという。
人間の認識の差というものはとても普通に自分が気がついている以上にすごいものだと思う。
またこれを意識して作り出せるのは熟練したプロの技なんだろう。それができて初めて何事にもプロとして認められるのだろう。
でもそれを普通の人が認識できるからこそ、プロがそこまで精進せざるをえないということも事実だと思う。
私がここで言っているのは、絶対的な差ではないことはお分かりだと思う。
440.1の音を聞かされて、これはいくつって聞かれても、私なら絶対にわからないだろう。
でもアンサンブルで誰かのピッチが0.1狂ってくれば、全体の音の響きがにごったり、奇麗でないと感じるだろうと思う。
一つの音符を0.01秒長く弾くことがフレーズ全体として、もたつきを感じさせたり、妙にもったいぶった弾き方と感じたり、あるいは先へ伸びていく余韻として感じたりするだろう。でも単純にその長さの音だけを出されても絶対に判らない。
で、久米仙人のブログの時にはこのときには、作家の心のイメージを伝えるためにはどれだけの細心さが求められるかというような気持ちで書いていたけど、
同じイメージを作家が表そうとしても、そのときの環境によっても、非常に大きな差がある。響くホールでは同じ長さの音を出そうとするともっと短い音を要求されるだろうし、使う材料や、見る人の置かれる環境によって、色や形を変えなければ、映し出したいイメージが相手に伝わらなくなる。
暖かい色は熱いときには暑苦しさ、不快さを伝えるし、寒いときには好感のもてる暖かさとして伝わるだろう。
気持ちだけが先走って、環境もメッセージを伝える相手のことも何も考えなくて、自分の気持ちだけをぶつけて、「ああ、さっぱりした」では見る人は他人のマスターベーションに付き合わされているだけ、作家や演奏家が何を言いたいのか、何を表したいのかまったく判らない。
作家は互いに理解できるキーワードをそのなかに入れ込めなければ、見る人には共通の土台には立てない。それは作家の伝えたいイメージが判るかどうかという以前の問題。
対話がなければ、相手に対して自分の気持ちを表現できない。
もちろんその対話は言葉でするものではなく、作品に込められるものだけど。