このブログのタイトル夢幻泡影(むげんほうよう)(残念ながら無限抱擁ではありません)について;
「我思う 故に我在り」
西洋的にはさまざまなことを見、感じる自分の存在は否定できないという点からスタートするのでしょうか、
でも禅の世界、特に金剛経(金剛般若波羅蜜経)では、空の教えからスタートします。
この世のなかのこと、見えること、感じること、あなたの存在自体が夢であり、雷の稲光にも見た刹那であると。
この世はうたかたの夢。
それが「如夢幻泡影」(夢のごとく泡影のごとく)なのです。
一切有為法
如夢幻泡影
如露亦如電
応作如是観
(金剛経)
いっさいのういのほう
むげんほうようのごとし
つゆのごとくかみなりのごとし
まさにかくのごときかんをなすべし
この世の中のすべての形あるものは
夢、あぶく
露そして雷
そんなものなんです
来世に夢を求める人、極楽を願う人は、この世に満足できていない人、苦しみや、悲しみを覚えている人なのでしょう。この世の生に満足をしていれば、来世に夢を見ることはないのですから。夢幻の中で願う夢(夢のまた夢)それが夢中の夢なのです。
でもそれでも一歩一歩人間は生きていかなければならない。どうせ生きていくのならそれが夢中の夢であっても、極楽への片道切符であって欲しい。
人間の一生でそれほど大それたことができるとは思えません。でも花のそばにいれば着物にも花の匂いがつくかもしれない。毎日の出来事、それがご飯を食べることであっても一生懸命になっていれば、いつかは、、、、