夢幻泡影

「ゆめの世にかつもどろみて夢をまたかたるも夢よそれがまにまに」

紫陽花  いすみ市岬町 (これまた追記あり)

2008年06月13日 23時50分56秒 |  岬な日々
去年の6月14日には紫陽花の花を二つの日記にアップしています。
一つは紫陽花の花のアップもう一つは紫陽花屋敷の風景でした。
紫陽花屋敷は茂原から国吉へ向かう広域農道に面してあり、今年もまもなくピークを迎えようとしています。

千葉にはこの紫陽花屋敷を始めとして、紫陽花寺とも呼ばれる本土寺があり、他にももっと大きな花野辺の里、川村記念美術館、マザー牧場、麻綿原高原など4,5万本クラスの紫陽花の名所があります。
うっとうしい梅雨の時期に紫陽花の花で心を癒すのも嬉しいことですね。



今回は、そんな大掛かりな観光地ではなく、ほんとうに家から道へ出るちょっとの間に植えてある紫陽花をご紹介します。



個人の畑の縁に植えてある程度で、数はたいしたことはないのですけど、いろんな花色の紫陽花を植えてあり、アップで撮るには手ごろな被写体になっています。



このような個人の家の敷地の境を飾っている紫陽花、岬にはたくさんあります。
雨の日など、車で通りながら、紫陽花の咲き誇っている垣を見ていると、ほんとうに住む人の心の豊かさ、ゆとりを感じさせられて、いいものですよ。



でも、紫陽花だけではないのですよね、四季折々、いろんな花がいろんな人のうちを飾っている。四季折々、人の心を愛で、花を愛でできる、そんな町が岬なのです。



書くことが思いつかなくなると(って、いつもそうですね)、安直に昔の詩や和歌を引用してしまいます。
ところが、これだけ美しく咲いている紫陽花ですけど、日本の古典では詩に読まれることが非常に少ない花なのです。
このことに関しては、紫陽花の花は色が変わるので、移ろいやすいということで嫌われたということが定説になっているようです。
でもね、私はかねがねほんとうにそうなのだろうかと疑問に思っています。
だって、古今でも、新古今でも、移ろう心をなじったり、悲しんだりしている詩ってずいぶんたくさんあるし、そのときに、花にたとえることもごく普通に見られるテクニックなのですよね。紫陽花だけが駄目というのは説明になっていないように思えてならないのです。



ところで、ヨーロッパに住まわれた経験のある方にお聞きします。
ヨーロッパで青色の紫陽花をご覧になったことがありますか?
本にはヨーロッパの土壌がアルカリ性なので、ヨーロッパの紫陽花は赤かピンクだと書いてあります。



確かに、赤の紫陽花は見たことがあると思いますが、はて、青の紫陽花を見なかったかどうか、どうにも思い出せないのです。
見たことがあるというかたがありましたら、ぜひ、コメントください。




追記;
アップした日記を見ていますけど、紫陽花ってライティングと被写界深度のお勉強には最適な花ですね。
もちろん、私はスタジオでは撮りませんので、あくまで自然の光をどう扱うかということ、でも半歩なり、、、クローズアップの時には1センチでも、カメラ位置を変えると被写体の感じがまったく違って見えることだってありますよね。
そこ、左へ一歩なんて、、、でも足元には注意してくださいね。崖の下に落ちても私は責任を負いませんので、、、

まずはライティング。
トップの写真のように後ろから回り込んで花びらを透かせている光を撮るというようなときに、トップからの光と後ろの光のバランスなんて自分で光の量を調整できないだけにけっこう難しい問題。ファインダーを眺めながらいらいらしている自分が見えたりして。

トップからのライト、角度をつけてスポット的に当たるライト、それが当たる被写体を見つけるのもまた楽しいですよね。

紫陽花は花が大きいので被写界深度には気をつけなければいけない材料。
今日の日記の写真は全部70-300のズームの300側で撮っています。手持ち撮影です。

3番目の額紫陽花。手前の花びらをもう少しシャープに写したほうがよかったでしょうか。絞込み不足?
その次のは後ろの花びらがぼけています。私はこれはこれでよかったって思っていますけど、でもこちらも両方をシャープにしたほうがよかったかな?

花びら全体でのシャープネスを考える以前に、花の手前や後ろから顔を出す葉っぱの処理をどうするのか、ぼかすのか、それならどのくらいぼけたほうがいいのか、、、

なんてことを考えながら、見返していると、つたない写真でもそれなりに勉強になりました。

写真ってほんとうに楽しいですね、サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ。




あなたが好きです  カルガモ いすみ市岬町

2008年06月13日 18時53分12秒 |  岬な日々


必死に目標に向かって飛んでいる姿には心打たれます。
好きです、そんな貴方。
例え、貴方のお腹が鴨鍋で膨れ上がっていても、
貴方の口の中がオリオール・バラゲのチョコレートで満杯になっていても、

例え、メタボ検診を受けなくても再検査の通知が舞い込む貴方であっても、、、

ひたむきな貴方の姿はとても素敵。。。


人生を幸福にしてくれるピアノの話 少しだけ追加あり。

2008年06月13日 10時41分00秒 | 芸術・文化
ピアニストの熊本マリさんの「人生を幸福にしてくれるピアノの話」という本が送ってきた。肩のこらない、でもそのなかにはとても大切な言葉が埋め込まれたいい本に仕上がっている。

最初のお話が、「ピアノにタッチするということは、自分の好きな人にさわるのと同じこと」なんてばら色の妄想をしてはいけませんよ。ピアノは480キロの巨体を持つ彼氏。それを弾きこなすには体力勝負。食べろ食べろ!ってお話だとおもうと、でもその彼氏がいかに繊細かというような話が前段にあったりして。
よく、ベヒシュタインがどうこうとか、ベーゼンドルファーがああだと、あそこのホールのアクースティックがどうたらとかって私は書いているけど、それは自分が弾かない、企画者の立場からの条件出し。
彼女のように彼氏をとっかえひっかえ触ることがお仕事の場合はもっと細かな条件、状態が重大な問題になってくる。たとえば湿度が上がるとタッチが重くなるというような。
面白いね~
逆に、彼女はソロが多いけど、温度一つとっても、ピアニストは演奏の間にピッチが上がってきてもどうにもならない。それに合わせている周りの楽器やオケもまた人知れず苦労して、その結果がその日の演奏なんですよね。
なんてことを思ったり。。。

あるいは、彼女は基本的な勉強を子供のころにすごしたスペインとアメリカ、イギリスでやってきているのだけど、日本とヨーロッパの教え方の差を書いている部分がある。
ヨーロッパでは多少のミスよりも音楽性、歌うことを大切にする。

友人からこんどそっちの留学生に応募したい生徒がいるから話をしてくれなんていわれるたびに言ってきたこと。小品でいいから自分がちゃんと歌っている曲を提出してよねって。
これだけ弾けますって気違いみたいにがんがん弾いているのを毎日何十となく聴かされるこちらの身にもなってよって言いたくなる。
エチュードを弾く場面と、プロとして、プロを目指す音楽家として自分を見せる場面は違うし、エチュードを弾いているのなんか人に聞かせるもんじゃないと思うけど。
だから日本人の音楽家ってテクニックはあるけど、自分を表現していない。
これは別に音楽だけの問題じゃないけど。
なんてことを以前のブログにはよくこぼしてたのを思い出しました。

ところで、この本の中に楽器の「賞味期限」についてちょっと触れられていた。
そのことと、楽器が生まれてきたヨーロッパとの湿度の違いなどを以前のブログに書いていて、それをこちらに転記したものがあったので、こちらにリンクを張っておきますね。ハモンベジョータとストラディバリウス
2005年7月10日の記事でした。

続きはまた、後で追加しますね。
なんて書いたけど、あまり追加しても仕方がない。皆さん買って読んでくださいよ。
ただ、一つだけ追加するとすれば、彼女がグレングールドからもらった「自分自身をよく知ること、自分を信じること」っていうメッセージは、実にこの芸術・文化のアンダーラインされたノートではありませんか。
それにしても自分に自信がなければ、自分を信じられない。切磋琢磨すること、、、
音楽でも、美術でも、表現者である限り、それは一番大切なことなのでしょうね。


人生を幸福にしてくれるピアノの話
熊本 マリ
講談社

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