夢幻泡影

「ゆめの世にかつもどろみて夢をまたかたるも夢よそれがまにまに」

矢張野に置けれんげ草

2009年07月10日 02時57分55秒 | 芸術・文化



この前の日記「田園風景」に知人が「蓮華草」というタイトルでコメントをつけてくださいました。それに対するレスをこちらにも上げておきます。(多少おちゃらけを増やしておりますけど)

なんせ、私の友人たちは、忙しい人ばかりなので、コメントはしてこないし、日記を見ていただいても、コメントまでは見ない人ばかりなので、、、、
その割りにはよく見ていただいているようで、お会いしたときや、電話で話題にされる。
ならコメントをつけてよって言いたいですけどね~ 
読み逃げはいけませんよ~
(ところで岬に来ていますけど、今回はまだ写真を撮っていません。トップの写真は以前大多喜の蓮華祭りの日記に使いました蓮華。そして下の写真も、その後で使いました紫陽花の使い回しです)




「手にとらで矢張野に置けれんげ草」、、滝野瓢水はちょっとひねった形でこれを言っていますね。遊女を身請けしようとした友人に、いやあれは遊郭にいるから魅力的なんだ、普通の家に入ったらあの魅力は消えてしまうよ、、、ってね。

でもストレートにこの句を受け取って、野っ原にあるものは野っ原にあるのが綺麗なんだとしても、実は風景写真なんかでフレーミングしたとたんにそれはもう全く自然のものではなく、作家(写真家)の意図が入ってしまったもの。
でも、その作業がなければ何も紹介できないというのも事実なのですよね。

結局、多かれ少なかれ、利休が言っているような「花は野にある如く」の世界になってしまう。
私があちこちで、茶花だけでなく、侘びの茶なんて嘘っぽいって書いているのはご存知ですよね。
  (その割りに、岬に来たら、家の周りを一周して、咲いている花を花瓶に生ける。その儀式が終わるとやっとこちらに来た感じになれるなんてことを平気で書いていたりするのですけど、、、
   幸いなことに、今回はは夏枯れで、活ける花がありませんでしたけどね。
   それにこの下のも、茶花ではないですよね。茶花って活けかたが分からないので活けたことがないので、、、
   要するに切って来たものを花瓶にどんと入れただけのものですけど)



そして、その嘘っぽさをプロの作家の作品の中にも感じるのです。
竹の風音さんと同じように、マネージメントを業務としてきたので、彼らの真摯さ、洗練さ、作品としての完成度には人一倍敬意を払っているつもりですけど、でもどこかで、生きるために作っている虚構としてしか見れない自分がいます。
自分の中で完成度を求める気持ちと、そのために必要なテクニックとのジレンマがあるのと同じですね。
でも、私の場合は、密教の部分として、あえてそのジレンマを大切にしてきたかな、、、

蓮華を写真に撮る。その作業の中で、何か伝えるべき一番大切なものが消えてしまう。
それを人のために活ける、それはもっと嘘になる。
でも、それが必要なのは、私ががその嘘の世界を40年近くもプロモートしてきたことでもわかってやってください。


でも、私の屈折加減も並じゃないですね~