池澤夏樹が「トルコは遠い」と書いている。(新潮社『イスタンブール歴史散歩』)それは距離的、物理的意味での遠近のことではなく“質の遠さ”みたいなものを言っているようだ。氏は書いている。
「現代の日本人の世界観の中でトルコという国はおそらくヨーロッパのずっと先の方に霞んでいる。パリとロンドンは身近な都会だし、ミラノやミュンヘンだってそう遠くはない。しかしイスタンブールは遠いのだ。」(同著102頁)
確かに、日本にとって西欧はその距離以上に近いのかもしれない。日本は明治以来西欧文明を取り入れ、追いつけ追い越せと学んできた。衣服や住居、生活習慣や様々な文化面でかなり同化していると言えるだろう。言葉の障害を除けば、欧米の諸都市で生活するのにあまり違和感は無いのではないか。
ところがトルコといえばどうか?
アジアの西の端と東の端という位置関係以上の距離を感じる。というよりも、私などは殆ど何も知らないと言った方がいいくらいだ。
イスラム教という宗教のせいか? そもそも一神教は日本人には合わないと思う。日本は「よろずの神」で、なにもかも神様で、自ら努力すれば仏には成れることになっている(成った者は釈迦以外には居ないようだが)。実に平和な民で、「唯一絶対神」などという怖い思想は似合わない。
しかし、同じく一神教のキリスト教を相当な範囲で受け入れている。西欧文明をこれほど同化していることから見れば、そのせいでもなさそうだ。
何がトルコを遠くしているのだろうか?
反面、トルコは大変に親日的だという。100年以上も前の“エルトゥールル号難破事件”(トルコ使節団の船が和歌山県沖で台風のため沈没、日本人の努力でやっと70人を救出し日本船でトルコに送り帰した事件)を、教科書で教え、全国民が未だ日本に恩義を感じていると言う。ボスボラス海峡に架かるトルコ最大の橋も、日本の円借款と日本人技術によるものだ、ということもガイドブックに載っている。
トルコについてあまり知らない、なんて失礼ではないのか。いや、私だけが知らないのかもしれない。ここはじっくり、今度の旅でこの目で見て、もっともっとトルコを知ろう。
結果、トルコは意外に近いのかもしれない、と願っている。