旅のプラズマ

これまで歩いてきた各地の、思い出深き街、懐かしき人々、心に残る言葉を書き綴る。その地の酒と食と人情に触れながら…。

2010年沖縄見聞記⑧ … 普天間と嘉手納基地

2010-12-15 14:24:06 | 

 

 最終日、全国個人タクシー協会沖縄支部の観光タクシーを予約して、「基地・世界遺産城址めぐり」をやった。「5時間1万4千円、普天間、嘉手納基地を回り、合間を縫って世界遺産城址を案内する」というもの。私にとっては実に有益な5時間となった。すでに初老を感じさせる運転手のY氏は、効率的で実に懇切な案内をしてくれた。
 まず「嘉数高地公園」を訪れ普天間基地を見た。この高地は、かつてウィーグスクと呼ばれ石垣をめぐらせていたというが、沖縄戦で破壊され今はその面影もない。反面、機関銃を打つトーチカの跡など激戦のあとがしのばれる。ここは那覇攻防戦最大の激戦地で、米軍は3日で陥落させる予定であったが、十数日戦い続けた場所と言う。それだけ多くの人が死んでいったのであろうと思えば胸が痛む。
 そこから見る普天間基地は、まさに街のまん中をえぐりとって飛行場にしたという感じで、周辺宜野湾市民の日夜の苦しみが目に見える。かつての激戦地の眼下に、未だ市民を苦しめている象徴のような基地があるとは、何とも因縁深いものを感じ、移転解決の道筋さえ見えない現状がもどかしい。

     
                   普天間基地

 問題の嘉手納は、有名な「安保の見える丘」の「道の駅」4階屋上から見た。日曜日であったので、「耳をつんざく轟音と戦闘機の離発着」を目にすることは出来なかったが、4千メートルに及ぶ2本の滑走路と、「あれが極東を制御するといわれる管制塔です」とYさんが指差す塔の聳える基地内を眺めていると、なんだか無力感と恐怖感に襲われた。

      
                       嘉手納管制塔
             

 それに追い討ちをかけられたのは、隣接する「嘉手納弾薬庫」の金網に沿って走りながら語るYさんの解説であった。
 「あの向こうの山全体の地下に弾薬庫があります。どれぐらい広いかわからない。佐藤元総理は核抜き返還と言ったが、核がなかったとは考えられない。この弾薬庫と一体の嘉手納基地を、アメリカが返還することはありえないでしょう。安保廃棄なら別ですが…」
 この言葉は重かった。前夜のM家のお母様の「普天間はまだしも問題は嘉手納です」という言葉と重なったからだ。嘉手納を解決しない限り基地問題は終わらない、としながら、それは途方もない困難を伴っている。ちょっとやそっとの交渉などでは動かない。
 日本とアメリカの在り方、何よりも日本のあり方をどうするかという日本国民の根本問題が問われる。それこそ、軍事力をどうするかという問題を含め、日本国民の並々ならぬ決意を必要とする課題であろう。

  
   遠方の長い丘陵が嘉手納弾薬庫が眠る山

 「基地に対する民意も様々です。基地の地代収入が何千万円にもなる人もいて、その人にとっては基地様さまでしょう。『沖縄は基地で堕落した』といわれてます」
と言うYさんの重い言葉を聞きながら、車は嘉手納をあとに読谷村へ向かった。


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