狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

「傍聴記」那覇市孔子廟裁判の最高裁大法廷弁論 

2021-01-29 00:32:57 | 翁知事国連演説訴訟

 

 

 

 

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筆者は残念ながら傍聴できなかったが、以下は実際に傍聴した空花正人様による「那覇市孔子廟裁判の最高裁大法廷弁論」の傍聴記です。

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空花です

過日、最高裁大法廷で展開された原告団弁論は見事でした。

快晴の20日水曜日正午から、千代田区隼町の最高裁南門前に原告支援者無量40名が傍聴整理券を得るために集結しました。

「那覇市孔子廟違憲住民訴訟」支援組織の事務局長・錦古里正一氏がいろいろお世話を焼いてくださり、

関西から遠路はるばる百人の会事務局長・増木重夫氏も直美夫人同伴で駆け付け、

関東勢の有志が参加し、いわば百人の会臨時集会となりました。

 

武漢テドロス肺炎対策による定員半減措置で傍聴可能席数は40でしたが、結果的には全員入廷できました。

初めて最高裁内部に入る人が大勢いて、広々とした大理石の宮殿さながらのロビーに目を見張らせていました。

開廷時刻を迎え静まり返る大法廷内、正面中央扉が開き、大谷直人長官・裁判長を先頭に黒い法衣をまとった総勢15名の判事が左右に分かれながら着席しました。

冒頭取材カメラ撮影があり、ようやく裁判長の開廷の発声から弁論開始となりました。

 

被告、原告それぞれ提出済みの書面記載内容の同意確認が求められ、さらに付加的な口頭弁論の機会が割り当てられました。

初めに被告(那覇市および参加人である久米崇聖会)側からの、弁明が語られましたが、

件の施設(孔子廟)は那覇市の都市環境整備の一環であり、観光資源であって、宗教施設ではないし、久米崇聖会は宗教団体ではない、と主張しました。

一方原告側は、徳永弁護士が下記のように書いておられるように、儒教自体の宗教性を真っ先に指摘し、

久米至聖廟での祭礼は宗教行為そのものであること、久米崇聖会は紛れもない宗教団体であることを明らかにしました。

さらに原告金城テルさん(あいにく沖縄からの上京は見合わせ)の訴えを上原弁護士が代読しました。

 

市民感情として被告側の主張は容認できない旨が述べられ、最後に斯く締めくくられていました。

「私(金城)が釋奠祭禮や久米孔子廟を宗教だと感じている理由の概略は以上のとおりです。

菅原道真を祀る天満宮とどこが違うのでしょうか。

こうした施設を公園に設置し、使用料を全額免除することが、特定の宗教に対する援助になるのはあたりまえのことです。」

 

最高裁判所大法廷が開かれ当事者で弁論させるという経過を見れば、十中八九「違憲判決、もしくは判例変更」が為されます。

那覇市の行為が特定宗教施設への便宜供与であり政教分離を謳っている憲法に違反するという判決を当然ながら想定しますが、

一方、これまでさんざん議論されてきた、世俗的慣習や信仰にまで厳しく政教分離を強いてきた判例は、少しは緩和されて、

首相の靖国神社参拝を理解許容するきっかけになればよいとも言えます。

 

最高裁傍聴後に付近の民間会議室で報告集会がもたれ、そこにはチャンネル桜のカメラが入り、琉球新報や毎日新聞、時事通信その他の記者が取材参加しました。

徳永、岩原、上原各弁護士は大変お疲れさまでした。

判決期日が待たれます。

百人の会理事

空花正人

 

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那覇市孔子廟裁判の最高裁大法廷弁論

■原告代理人徳永弁護士の解説

德永です。 

去る1月20日に開かれた大法廷弁論は、各紙の報道もあり、多数の傍聴の中で実施されました。

ミナキ倶楽部の会員の方も複数こられていましたので、その内容について簡単に記しておきます。

この裁判は、「儒教は学問か宗教か」を主たる争点とする裁判ですが、儒教と仏教をめぐる日本の宗

教的土壌、そして孔子廟の設置をめぐる沖縄と中国の関係と政治情勢を考えさせられる、意義深い訴

訟でした。実際に大法廷で陳述した口頭弁論の要旨を添付し、これを少し敷衍して説明してみます。   

           

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1 儒教の宗教的性格について        

「儒教は宗教ではなく学問である」。これが那覇市と久米崇聖会の一貫した主張です。

日本では儒教のテキストとして真っ先に思い浮かぶのは「論語」です。そこでは君子の処世や道徳などが語られ、孔子が「子は怪力乱神を語らず」や「未だ生を知らず焉んぞ死を知らん」と言ったことが記されています。実際、かつて儒教は倫理や政治の体系であって宗教ではないという理解が一般的でした。そうした理解に一石を投じたのが加地伸行大阪大学名誉教授の「『孝』の研究」でした。加地先生は、一般向けの著書「儒教とは何か」(中公新書)や『沈黙の宗教-儒教』(ちくま学芸文庫)において、儒教は、血の連鎖と生命の連続をいう「孝」を機軸とする「招魂再生」の死生観において展開された宗教思想であることを明らかにしました。  

裁判には加地先生に書いていただいた意見書を証拠提出しました。そこでは、儒教の世界観が語られています。「儒教は魂魄という霊的存在を中心に置くものであり、仏教の世界観である輪廻転生と厳しく対峙してきた。」とあります。京都大学の小倉紀蔵教授は、『入門 朱子学と陽明学』(ちくま新書)で儒教を「血の連続性及び超越的存在(天)との合一感を基本にして、生者と死者とを包摂した愛と知と美の共同体を構築する宗教思想であり」などとしています。朱子学は、人は死ぬと、一体となっていた魂魄が分かれ、魂は天井に上り、魄は地下に沈潜するとし、死んで分かれた魂魄が一体となって輪廻転生することはありえないとして仏教を批判してきました。儒教は、鬼神や魂魄といった超自然的な存在を信じて畏れ敬い、天という超越的存在との合一を求める宗教としての性格を色濃くもつものなのです。 

日本において、儒教の宗教的性格が意識されてこなかった理由は、そもそも隋唐の時代に日本に伝わった仏教が、儒教と習合した中国仏教であったことにあります。その教えは仏教ですが、祭祀は儒教のものでした。印度仏教には、お墓も位牌もご先祖様のお祀りもありません。これらは儒教に由来するものでした。六道を輪廻しているはずのご先祖様の魂がお盆に戻ってこられるのもおかしな話です。         

儒教は合理的だといわれますが、科学的でも実証的でもありません。私たちは、儒教が道徳や学問としての側面を有することは否定しませんが、そのことは、キリスト教でも、イスラム教でも、仏教でも、もちろん神道でもいえることです。儒教が宗教的性格を有することは、学術的にみて否定できないことなのです。   

以上 

 

【付記】

沖縄タイムス紙面掲載記事

久米至聖廟訴訟 来月24日に判決 最高裁大法廷

2021年1月28日 05:00

 儒教の祖、孔子を祭る「孔子廟(びょう)(久米至聖廟)」のために那覇市が公園内の土地を無償提供していることが憲法の政教分離原則に反するかどうかが争われた住民訴訟で、最高裁大法廷(裁判長・大谷直人長官)は27日、2月24日に判決を言い渡すと決めた。

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