寺田屋
三十石船の船宿
三十石船の波止場
三十石船の水路
伏見の町道散策
寺田屋騒動
上洛した島津久光は、倒幕の意志はなく、公武合体が路線でした
薩摩藩の尊王派の志士らは、京都所司代を襲撃すること決め、伏見の船宿寺田屋に集まりました
当時寺田屋は薩摩藩の定宿でした
久光は、大久保一蔵等を派遣しこの騒ぎを抑えようと試みたが失敗し、尊王派と、久光派の
“同士討ち”の激しい斬りあいが始まり、久光派は尊王派を抑えた
この事件によって朝廷の久光に対する信望は高まり、久光は公武合体政策の実現のため
江戸へと向かいました
坂本龍馬襲撃
薩長同盟の会談斡旋後に、寺田屋に宿泊していた坂本龍馬を、伏見奉行が暗殺しようとした事件です
お龍は、風呂から裸のまま、階段へ駆け上がり投宿していた龍馬らに危機を知らせました
*楢崎龍(後の坂本竜馬の妻)新婚旅行の元祖
龍馬は、自らも手の親指を負傷辛くも脱出し龍馬は九死に一生を得ることができました
くらわんか舟
江戸時代、淀川を往来する大型船に対して、飲食物を売っていた主小舟のことです
貸食船(煮売船)とも呼ばれ、くらわんか舟・食らわんか舟という俗称が定着しました
三十石船
大阪天満橋の八軒家船着場から、京都の南伏見豊後橋まで、淀川を往来してました
旅船は、三十石船ともいう乗り合い船が中心でした