慶喜

心意気
「明日迄の命の気持ちで、人生を!」
「不老不死の気持ちで、知識の習得を!」

増上寺散策(12/9/13)

2012年09月13日 | 観光

新橋・東京湾・徳川家の菩提寺散策




東京湾クルーズ


新橋駅(日本最初の鉄道)


増上寺根本中堂


増上寺大門

徳川家の墓

増上寺

歴史
空海の弟子・宗叡が建立した光明寺が、増上寺の前身です
風水学的には、寛永寺を江戸の鬼門である上野に配し、裏鬼門の芝の抑えに増上寺配しました
徳川家の菩提寺でした
徳川幕府の崩壊、明治維新後の神仏分離の影響により規模は縮小し、境内の広範囲が芝公園になりました

伽藍
三解脱門は、戦災をまぬがれた建物の1つで、
三毒(3つの煩悩)から解脱でき、内部には釈迦三尊像と十六羅漢像が安置されています

霊廟の被葬者
2代将軍秀忠夫妻
6代家宣夫妻(文昭院・天英院)
7代家継(有章院)
9代家重(惇徳院)
12代家慶(慎徳院)
14代家茂(昭徳院)
その他35名の将軍家ゆかりの子女が合祀されています
  

寛永寺五重塔

寛永寺本堂

寛永寺

創建と伽藍の整備
徳川家の菩提寺です
徳川家光が帰依していた、天台宗の僧・天海の勧めで、「寛永寺」が創建されました
1630年頃、法華堂、常行堂、多宝塔、東照宮、五重塔などが建立されました
根本中堂が落慶したのは、1670年に将軍徳川綱吉により創建されました

徳川家と寛永寺
徳川家光は天海に大いに帰依し、自分の葬儀は寛永寺に行わせ、遺骸は日光へ移しました
4代家綱、6代綱吉の廟は寛永寺でおかれ、増上寺とともに徳川家の菩提寺となりました
歴代将軍の墓所は、寛永寺と増上寺に交替で造営することになりました
寛永寺貫主は、幕末に至るまで、皇子または天皇の猶子が貫主を務めました
貫主は「輪王寺宮」と尊称され、徳川御三家と並ぶ格式と絶大な権威をもっていました

衰退と復興

上野公園の全域が寛永寺の境内で、最盛期には、上野公園の2倍位の広さでした
明治維新には、彰義隊の戦の戦場となり、主要な建造物は、この時焼失しました
1875年に再発足し、川越の喜多院(天海が住していた寺)を移築して本堂とし、
 復興しましたが、寺の規模は大幅に縮小しました
コメント
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