🌸仏教の総合大学、比叡山の天台宗2
⛳円仁をはじめとする弟子たちの奮闘
☆最澄が遣唐使船で唐に赴いた際、帰国直前に密教を学ぶ
*密教経典を日本に持ち帰っているが期間が短く急だった為
*十分なものをもたらすことができなかった
☆最澄は、空海に教えを乞い改めて密教について学ぼうとするが
*十分なものをもたらすことができなかった
☆最澄は、空海に教えを乞い改めて密教について学ぼうとするが
*両者のあいだには齟齬がが生まれ、最終的に決別する
☆最澄が密教を十分に学べなかったことが、後の天台宗には幸いした
*最澄の弟子たちは、その不足を補うために
*盛んに唐に渡り、密教の修法などを学んで密教経典を持ち帰った
*功績が大きかったのが円仁と円珍であった
*功績が大きかったのが円仁と円珍であった
*円仁は慈覚大師、円珍は智証大師の論号を贈られている
☆円仁は、唐にいたあいだに
*「円教」と『法華経』の教えと密教の教えの価値、同一を確認する
*密教の行としての念仏を日本にもたらした
*これは、浄土教信仰を広めることに貢献した
*浄土宗や浄土真宗といった宗派を生むことに結びついていく
☆円珍は密教経典を大量に日本に持ち帰った
☆円珍は密教経典を大量に日本に持ち帰った
*円珍ものが、延暦寺ではなく園城寺におさめられた
*山門派としての延暦寺と寺門派としての園城寺の対立を生む
*円珍は園城寺を賜り、そこを密教を伝える伝法灌頂の道場とした
☆密教にかんして宗祖の最澄が十分なものを持ち帰れなかった結果
☆密教にかんして宗祖の最澄が十分なものを持ち帰れなかった結果
*かえってその弟子たちが奮闘努力し、多くのものをもたらした
☆逆に、真言宗には、円仁や円珍のような重要な弟子があらわれなかった
*真言宗では、空海の弟子とし著名な存在は輩出されなかった
⛳宗教的独立国として君臨した比叡山
☆最澄は、南都東大寺で僧侶になるための具足戒を受けると
*比叡山にのぼり、山林修行をはじめた
*平城京から長岡京へ平安京への遷都が行なわれた
*最澄の比叡山での修行はその時点で10年
*最澄は、自らが修行する比叡山の下に都を呼び寄せた形になった
☆比叡山は平安京の鬼門の方角に位置することになり
☆比叡山は平安京の鬼門の方角に位置することになり
*都を守護するには絶好の空間を占めることとなった
☆平安京が誕生しなかったとしたら
*比叡山が日本の仏教界の中心に位置することはなかったかも
☆最澄は、延暦寺を建立する際
☆最澄は、延暦寺を建立する際
*比叡山の地主の神である日古神社の祭神を勧請し守護神とした
*延暦寺は日吉神社と結びつき、祭神は神仏習合の山王権現と呼ばれる
*独自の神道理論として「山王ー実神道」が唱えられ
*山王権現が密教の中心的な仏、大日如来であるとともに
*皇室の祖神、天照大神であると説かれた
*比叡山が、社会的に大きな力をもつ上において
*比叡山が、社会的に大きな力をもつ上において
*祗園社をその支配下においたことが重要な意味をもった
*京の人々は、祗園社に疫病などの災厄を除いてくれるよう祈願した
*現在の北野天満宮、当時の北野社も比叡山の勢力下に入り
*これで比叡山は京の街を実質的に支配することになった
☆延暦寺は、興福寺と同じように
*宗教的な独立国として中世社会に君臨した
(敬称略)
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⛳出典、『浄土真宗の檀家は多い』
『天台密教』『山王権現』『祇園社』『比叡山』
(ネットより画像引用)
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