慶喜

心意気
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『天台密教』『山王権現』『祇園社』『比叡山』

2024年12月16日 | 宗教
🌸仏教の総合大学、比叡山の天台宗2

⛳円仁をはじめとする弟子たちの奮闘
 ☆最澄が遣唐使船で唐に赴いた際、帰国直前に密教を学ぶ
 *密教経典を日本に持ち帰っているが期間が短く急だった為
 *十分なものをもたらすことができなかった
 ☆最澄は、空海に教えを乞い改めて密教について学ぼうとするが
 *両者のあいだには齟齬がが生まれ、最終的に決別する
 ☆最澄が密教を十分に学べなかったことが、後の天台宗には幸いした
 *最澄の弟子たちは、その不足を補うために
 *盛んに唐に渡り、密教の修法などを学んで密教経典を持ち帰った
 *功績が大きかったのが円仁と円珍であった
 *円仁は慈覚大師、円珍は智証大師の論号を贈られている
 ☆円仁は、唐にいたあいだに
 *「円教」と『法華経』の教えと密教の教えの価値、同一を確認する
 *密教の行としての念仏を日本にもたらした
 *これは、浄土教信仰を広めることに貢献した
 *浄土宗や浄土真宗といった宗派を生むことに結びついていく
 ☆円珍は密教経典を大量に日本に持ち帰った
 *円珍ものが、延暦寺ではなく園城寺におさめられた
 *山門派としての延暦寺と寺門派としての園城寺の対立を生む
 *円珍は園城寺を賜り、そこを密教を伝える伝法灌頂の道場とした
 ☆密教にかんして宗祖の最澄が十分なものを持ち帰れなかった結果
 *かえってその弟子たちが奮闘努力し、多くのものをもたらした
 ☆逆に、真言宗には、円仁や円珍のような重要な弟子があらわれなかった
 *真言宗では、空海の弟子とし著名な存在は輩出されなかった

⛳宗教的独立国として君臨した比叡山

 ☆最澄は、南都東大寺で僧侶になるための具足戒を受けると
 *比叡山にのぼり、山林修行をはじめた
 *平城京から長岡京へ平安京への遷都が行なわれた
 *最澄の比叡山での修行はその時点で10年
 *最澄は、自らが修行する比叡山の下に都を呼び寄せた形になった
 ☆比叡山は平安京の鬼門の方角に位置することになり
 *都を守護するには絶好の空間を占めることとなった
 ☆平安京が誕生しなかったとしたら
 *比叡山が日本の仏教界の中心に位置することはなかったかも
 ☆最澄は、延暦寺を建立する際
 *比叡山の地主の神である日古神社の祭神を勧請し守護神とした
 *延暦寺は日吉神社と結びつき、祭神は神仏習合の山王権現と呼ばれる
 *独自の神道理論として「山王ー実神道」が唱えられ
 *山王権現が密教の中心的な仏、大日如来であるとともに
 *皇室の祖神、天照大神であると説かれた
 *比叡山が、社会的に大きな力をもつ上において
 *祗園社をその支配下においたことが重要な意味をもった
 *京の人々は、祗園社に疫病などの災厄を除いてくれるよう祈願した
 *現在の北野天満宮、当時の北野社も比叡山の勢力下に入り
 *これで比叡山は京の街を実質的に支配することになった
 ☆延暦寺は、興福寺と同じように
 *宗教的な独立国として中世社会に君臨した
                       (敬称略)
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 ⛳出典、『浄土真宗の檀家は多い』





『天台密教』『山王権現』『祇園社』『比叡山』
(ネットより画像引用)

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