🌸臨済宗宗祖ー栄西
☆幕府の庇護のもと禅の教線を広げた宗教家
⛳密教僧が宋で禅に出会う
☆日本にはじめて禅が伝わったのは7世紀中頃
⛳密教僧が宋で禅に出会う
☆日本にはじめて禅が伝わったのは7世紀中頃
*9世紀にも天台宗の宗祖・最澄が中国で禅を授かった
☆禅を一宗派として確立したのは鎌倉時代の僧・栄西
*栄西は比叡山にのぼって出家した
*栄西は比叡山にのぼって出家した
*比叡山では密教を学び、宋で求法を体験
*帰国後は天台密教の一派を開いた
*栄西は当初、禅僧ではなく密教僧として活躍していた
☆栄西は密教僧でありながら次第に禅への関心を深める
☆栄西は密教僧でありながら次第に禅への関心を深める
*2度目の入宋を果たし、天台山万年寺で修行に励んだ結果
*ついに印可(悟りの明)を授けられた
☆禅の奥義を究めた栄西が日本に戻った
☆禅の奥義を究めた栄西が日本に戻った
*朝廷は禅宗を禁止する命令を出していた
☆栄西は京都に戻らず、九州を中心に活動をはじめた
*比叡山を中心とする旧仏教側の空気は冷たく、栄西に圧迫を加える
☆栄西は『興禅護国論』を著して「禅は鎮護国家の法である」と訴えた
☆栄西は『興禅護国論』を著して「禅は鎮護国家の法である」と訴えた
*禅は最澄が説いた精神を統一する止観にほかならない
*比叡山の再興にもつながる教えであると主張した
⛳栄西、鎌倉幕府への接近
☆栄西は旧仏教側との摩擦を避けて、密教の祈祷僧として活動した
☆栄西は旧仏教側との摩擦を避けて、密教の祈祷僧として活動した
☆源氏の武家政権が朝廷を凌駕する勢いで台頭してくる
*京都から鎌倉へ下って禅の布教をはじめた
*幕府側も栄西を積極的に迎え入れた
*幕府側も栄西を積極的に迎え入れた
☆鎌倉幕府は人心掌握の術を考えたうえで
*栄西と禅の教えを庇護した
*鎌倉武士を中心に禅が広がると
*栄西は幕府の権威を背景にして京都へ進出
*頼家の援助を受けて京都に建仁寺を建てる
*頼家の援助を受けて京都に建仁寺を建てる
*朝廷もようやく禅宗を認めるに至った
☆栄西はお茶を、日本に伝えたことでも知られている
*宋で茶の魅力に傾倒した栄西は帰国の際、茶の種を持ち帰る
*日本で栽培された最初のお茶で、石上茶と名づけられた
⛳栄西死後の臨済宗
☆鎌倉五山から優れた禅僧が数多く輩出した
⛳栄西死後の臨済宗
☆鎌倉五山から優れた禅僧が数多く輩出した
☆京都にも天竜寺や相国寺など
*京都五山できて臨済宗が定着した
*五山文化と呼ばれる禅文化も生まれた
*五山とは一線を画して、修行に励む禅憎もあらわれた
*五山文化と呼ばれる禅文化も生まれた
*五山とは一線を画して、修行に励む禅憎もあらわれた
*その後、五山文化は、応仁の乱で低迷した
☆江戸時代中期、白隠禅師 が新たな禅風を確立し中興を果した
☆江戸時代中期、白隠禅師 が新たな禅風を確立し中興を果した
*現在は寺と法系による14派が本山をもち、教えを伝えている
(敬称略)
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⛳出典、『比べてわかる!日本の仏教宗派』
「臨済宗」「栄西」「鎌倉幕府」「お茶」「五山文化」
(「比べて分かる日本の仏教宗派」記事より画像引用)
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