今日は、「みんななかま教室」の職員研修で、権利条約の話をする(2時間半)。横糸に国際的な広がりを、縦糸に歴史をと思いながら、話をした。前半部分を、だいぶ速いペースで話してしまった。後半の1時間を歴史をとおもいながら、障害の重い人たちの就学の歴史をはなしているところで、つい思いあまって、声が詰まってしまった。若い職員の人たちには、おじさんのうろたえる姿は不可解なものとおもわれただろう。就学猶予免除とされた子ども達や父母のこと、向日が丘、与謝の海や桃山の開校、運動と実践を担ってきた父母や先生方のエピソードにふれてきた。その整理できない思いがつい喋っている中でこみ上げてきてしまったようだ。更年期か?
松本宏先生の余録は、桃山学園派遣教諭から、与謝の海養護学校へと突然の異動、そして本格開校準備へと続いている。
-その2-
3.与謝の海養護学校開校
(1)逆風に帆をあげた与謝の海丸
1969(昭和44)年4月、与謝の海養護学校、高等部別科生17名での部分開校。仮開校ともいわれていた。翌70年4月、小・中・高等部本格開校。「全員就学」「就学猶予免除撤廃」「すべての子どもにひとしく教育を保障する学校づくり」を内外に宣言しての不退転の決意を固めた教職員集団の実践開始。
障害児教育にかかわる当時の日本の社会状況をのぞいてみる。
1960年代に入った頃、日本の政策の主柱に高度経済成長が据えられた。経済・資本の論理に基づき、経済効果優先主義、能力主義のもと、人的能力開発計画と呼称され、教育も経済計画の一環として絶えず再編成され続けた。
63年、国の経済審議会答申に「経済発展における人的能力開発の課題と対策」が出された。65年の文部省の公報において、時の特殊教育課長は「特殊教育の目標は、端的にいって社会的自立を達成できる人間の育成である。社会的自立は職業に従事することによって可能となる」とし、文部行政は「精神薄弱児のうち、教育不可能の段階(知能指数45以下)を除いた教育不可能な児童生徒が精神薄弱教育の該当者のである」としている。それはそれなりの当時の社会的背景がもたらすものではあった。
この就職の可能性の見いだせない子は、教育の対象外とする序列化、棄民政策に対して、与謝の海は学校設立運動の段階から、「制度理念における正義の原則の貫徹」を高らかに掲げて敢然と対峙したのであった。
(2)開校当時の府教委は、与謝の海の全員就学方針に懐疑的であった
私は69年3月の年度末に、教委教教職員課で人事担当者から「与謝の海教員定数もう1名確保がどうしてもできなかった。2学期には君を配置するからそのつもりで」と異動内示にはあるまじき内示を受けた。
それでも9月1日、与謝の海へ配置となり、岩滝の仮校舎へ出向した。午後の職員会議で「松本の公務分掌は4月に決定ずみ、一つは、すでに入学申請書運動によって提出されている入学希望者中の就学猶予免除者50名の、就学前実態把握と、就学前指導と、入学後のカリキュラム案の準備。もうひとつは研究部長。どちらも計画案を立てて」と。そしてドサリと机上にその入学申請書なるものの分厚い綴が置かれた。問い返す間もなく、皆平然としている中におけることだった。
重度児就学前準備で、まず与謝丹後地域と、舞鶴・綾部・福知山市の中丹地域の申請書提出者の家庭訪問についてそれぞれの市・町村教委に協力していただきながら進めた。10月から丹後・与謝・舞鶴に会場を設けて、週1回約2時間、保護者同伴での集団学習を設定した。自家用車を使えない家庭の移動には、地教委の職員による援助をいただいた。
これらのとりくみの中で、子ども達、保護者達、付き添っていただいた地教委の職員達の間で、子ども達の動きや変化に予期せぬ数々のドラマが生まれていった。
それと連動して、後に制度化される適正就学指導委員会を、府教委・学校・学識者・医師等で構成。医師委員の見解も含め、5名の重症心身障害児などが入学保留となった。
70年4月の2年次の本格開校時に、集まった68年の教職員のテキストとした『よさのうみ』(第1号、1970年3月)の後記に、そのことに関連する記述があるので、少しつけ足して記して記してみる。
-3月19日夜、重症心身障害で寝たままの子の親御さんから、「毎日まだかまだかと待っているのですが、入学通知がまだ届きません。先生は必ず入学させるといわれますけれども、通知をもらわないと不安で…」と電話があった。3月20日5時半、障害重症重複・寝たままの子ども5名の入学保留の入学許可をとりつけるべく、前日から府教委に据わり込みの藤田校長から「保留中の入学許可通知書、全員発送してよし」の電話あり、「よし」と郵便局に駆け込み発送をした。その後職員会議。暗くなってほかの議案を終了したところで、本誌の作製発効を提起し、原稿かを分担することとした。-
それより以前の67年3月の府立肢体不自由の向日が丘養護学校開校直前、重症児の入学不許可について、学校設立運動の母体であった親の会の度重なる強烈な入学許可要求も経ている府教委においても、全員就学ということにはまだ逡巡があった。府教委のある人はそっと「理想としての全員就学はわかるが、排泄も含めた身辺未自立、全面介助の子に教育が成り立つか」といい、またある人は「今は1年目10人の教職員の意思統一ができているが、4月から新しい数十人の皆が納得してついていくだろうか」と聞かせてくれる人もあった。
すでに与謝の海がが全員就学を標榜していることを承知している近畿の養護学校からも「反対。与謝の海は自滅する」と聞こえてきた。京都市内の有力な障害児者関係団体からも、「それはもはや学校ではない。福祉施設以下だ。反対」と役員会で話し合われたとの情報もあった。
(3)与謝の海の実践の断片
70年4月、小・中・高等部児童生徒170名。内、就学猶予免除であった者55名。教職員、校長以下教育職員40名、寄宿舎職員16年、事務・スクールバス・技術・調理・用務職員12名、合計68名で本格開校。現在の支援学校の国の定数法と比べるべくもない。集まった教職員全員にまず『よさのうみ』(1号)をテキストとして、○与謝の海養護学校設置経過の概要、○人間の発達について、○寄宿舎教育についてをはじめとする学習を研究会として行った。それは今までの学校教育の既成概念を横に置き、人間の尊厳を中核に据える自己変革闘争とも言えるものを組織しようとするものであった。
これらの学習過程で民主的内部規律と称した「合言葉(アイコトバ)」として「このともし火を消すな」「石にかじりついてでもやりきる」ことを確認したのだった。「このともし火」とは、全国のあちこちでともりつつある「重度障害の子にも教育を」との父母の声を、与謝の海が全員就学をやりきる可能性を実践で示すことで、ともし火を燎原の火とすることができることを確認しあったものである。
「実践から出発し実践に還る。指導案のグループ検討、実践の記録化、分析検討、次の実践へ」「子どもの個々の極微の変化を捉える眼」などなどの日々のつみあげの中で、2学期10月の体育祭の頃には、子どもたち個々と集団の連帯の広がり、父母・家族の子どもの変化への感動、父母と教職員の共感・共同・連帯の発展の事例が次々と報告されだした。そのことはまた、教職員の次への実践への自信と励みともなっていった・
私は、2学期終了直後の全教職員での学期総括研の討議を経ながら、「よし、全員就学をやりきれる見通しはついたぞ」とひそかに感じたのだった。それにしても、この当時の与謝の海の教職員の実践・検討・研究・学習の日常化における創造的実践集団としての発展はすさまじいものであった。
与謝の海の本格開校2年次の71年の適正就学委員会においては、学校の全員就学の基本路線を府教委も認めるところとなりつつあった。実践における個々の重度児の発達の可能性を、まだまだ荒削りの実践とはいえ容認できるものとなっていた。
松本宏先生の余録は、桃山学園派遣教諭から、与謝の海養護学校へと突然の異動、そして本格開校準備へと続いている。
-その2-
3.与謝の海養護学校開校
(1)逆風に帆をあげた与謝の海丸
1969(昭和44)年4月、与謝の海養護学校、高等部別科生17名での部分開校。仮開校ともいわれていた。翌70年4月、小・中・高等部本格開校。「全員就学」「就学猶予免除撤廃」「すべての子どもにひとしく教育を保障する学校づくり」を内外に宣言しての不退転の決意を固めた教職員集団の実践開始。
障害児教育にかかわる当時の日本の社会状況をのぞいてみる。
1960年代に入った頃、日本の政策の主柱に高度経済成長が据えられた。経済・資本の論理に基づき、経済効果優先主義、能力主義のもと、人的能力開発計画と呼称され、教育も経済計画の一環として絶えず再編成され続けた。
63年、国の経済審議会答申に「経済発展における人的能力開発の課題と対策」が出された。65年の文部省の公報において、時の特殊教育課長は「特殊教育の目標は、端的にいって社会的自立を達成できる人間の育成である。社会的自立は職業に従事することによって可能となる」とし、文部行政は「精神薄弱児のうち、教育不可能の段階(知能指数45以下)を除いた教育不可能な児童生徒が精神薄弱教育の該当者のである」としている。それはそれなりの当時の社会的背景がもたらすものではあった。
この就職の可能性の見いだせない子は、教育の対象外とする序列化、棄民政策に対して、与謝の海は学校設立運動の段階から、「制度理念における正義の原則の貫徹」を高らかに掲げて敢然と対峙したのであった。
(2)開校当時の府教委は、与謝の海の全員就学方針に懐疑的であった
私は69年3月の年度末に、教委教教職員課で人事担当者から「与謝の海教員定数もう1名確保がどうしてもできなかった。2学期には君を配置するからそのつもりで」と異動内示にはあるまじき内示を受けた。
それでも9月1日、与謝の海へ配置となり、岩滝の仮校舎へ出向した。午後の職員会議で「松本の公務分掌は4月に決定ずみ、一つは、すでに入学申請書運動によって提出されている入学希望者中の就学猶予免除者50名の、就学前実態把握と、就学前指導と、入学後のカリキュラム案の準備。もうひとつは研究部長。どちらも計画案を立てて」と。そしてドサリと机上にその入学申請書なるものの分厚い綴が置かれた。問い返す間もなく、皆平然としている中におけることだった。
重度児就学前準備で、まず与謝丹後地域と、舞鶴・綾部・福知山市の中丹地域の申請書提出者の家庭訪問についてそれぞれの市・町村教委に協力していただきながら進めた。10月から丹後・与謝・舞鶴に会場を設けて、週1回約2時間、保護者同伴での集団学習を設定した。自家用車を使えない家庭の移動には、地教委の職員による援助をいただいた。
これらのとりくみの中で、子ども達、保護者達、付き添っていただいた地教委の職員達の間で、子ども達の動きや変化に予期せぬ数々のドラマが生まれていった。
それと連動して、後に制度化される適正就学指導委員会を、府教委・学校・学識者・医師等で構成。医師委員の見解も含め、5名の重症心身障害児などが入学保留となった。
70年4月の2年次の本格開校時に、集まった68年の教職員のテキストとした『よさのうみ』(第1号、1970年3月)の後記に、そのことに関連する記述があるので、少しつけ足して記して記してみる。
-3月19日夜、重症心身障害で寝たままの子の親御さんから、「毎日まだかまだかと待っているのですが、入学通知がまだ届きません。先生は必ず入学させるといわれますけれども、通知をもらわないと不安で…」と電話があった。3月20日5時半、障害重症重複・寝たままの子ども5名の入学保留の入学許可をとりつけるべく、前日から府教委に据わり込みの藤田校長から「保留中の入学許可通知書、全員発送してよし」の電話あり、「よし」と郵便局に駆け込み発送をした。その後職員会議。暗くなってほかの議案を終了したところで、本誌の作製発効を提起し、原稿かを分担することとした。-
それより以前の67年3月の府立肢体不自由の向日が丘養護学校開校直前、重症児の入学不許可について、学校設立運動の母体であった親の会の度重なる強烈な入学許可要求も経ている府教委においても、全員就学ということにはまだ逡巡があった。府教委のある人はそっと「理想としての全員就学はわかるが、排泄も含めた身辺未自立、全面介助の子に教育が成り立つか」といい、またある人は「今は1年目10人の教職員の意思統一ができているが、4月から新しい数十人の皆が納得してついていくだろうか」と聞かせてくれる人もあった。
すでに与謝の海がが全員就学を標榜していることを承知している近畿の養護学校からも「反対。与謝の海は自滅する」と聞こえてきた。京都市内の有力な障害児者関係団体からも、「それはもはや学校ではない。福祉施設以下だ。反対」と役員会で話し合われたとの情報もあった。
(3)与謝の海の実践の断片
70年4月、小・中・高等部児童生徒170名。内、就学猶予免除であった者55名。教職員、校長以下教育職員40名、寄宿舎職員16年、事務・スクールバス・技術・調理・用務職員12名、合計68名で本格開校。現在の支援学校の国の定数法と比べるべくもない。集まった教職員全員にまず『よさのうみ』(1号)をテキストとして、○与謝の海養護学校設置経過の概要、○人間の発達について、○寄宿舎教育についてをはじめとする学習を研究会として行った。それは今までの学校教育の既成概念を横に置き、人間の尊厳を中核に据える自己変革闘争とも言えるものを組織しようとするものであった。
これらの学習過程で民主的内部規律と称した「合言葉(アイコトバ)」として「このともし火を消すな」「石にかじりついてでもやりきる」ことを確認したのだった。「このともし火」とは、全国のあちこちでともりつつある「重度障害の子にも教育を」との父母の声を、与謝の海が全員就学をやりきる可能性を実践で示すことで、ともし火を燎原の火とすることができることを確認しあったものである。
「実践から出発し実践に還る。指導案のグループ検討、実践の記録化、分析検討、次の実践へ」「子どもの個々の極微の変化を捉える眼」などなどの日々のつみあげの中で、2学期10月の体育祭の頃には、子どもたち個々と集団の連帯の広がり、父母・家族の子どもの変化への感動、父母と教職員の共感・共同・連帯の発展の事例が次々と報告されだした。そのことはまた、教職員の次への実践への自信と励みともなっていった・
私は、2学期終了直後の全教職員での学期総括研の討議を経ながら、「よし、全員就学をやりきれる見通しはついたぞ」とひそかに感じたのだった。それにしても、この当時の与謝の海の教職員の実践・検討・研究・学習の日常化における創造的実践集団としての発展はすさまじいものであった。
与謝の海の本格開校2年次の71年の適正就学委員会においては、学校の全員就学の基本路線を府教委も認めるところとなりつつあった。実践における個々の重度児の発達の可能性を、まだまだ荒削りの実践とはいえ容認できるものとなっていた。
教育実践から得て教訓から思い切って教育目標を立てる大胆さが、与謝の海養護学校の開拓精神だったように思います。
いつの時代もこのことは教育にもとめられているように思います。