ちゃ~すが・タマ(冷や汗日記)

冷や汗かきかきの挨拶などを順次掲載

「不立文字」

2011年01月24日 21時31分50秒 | その他
 朝、昨日つくった子ども用シートをもって出た(はず)。幼稚園に行ってみると、それがない。年中さんの所に行き、それから年長さんの所に行ったが、年長さんはお兄さんらしくなってきた。年中さんもなれてきた…。
 4時半から、3回生のゼミをする。一人で喋ってしまう。3回生と来年度の日程を検討すると、忙しいことを改めて再確認した。絵本の整理などをしようということに…。
 ちょっとぼやき…「『教えてくえださい』といわないでほしい」-そのまえにすることがあるだろう。「やりたいことをやりたい」
 10時から、プロフェッショナルで院内学級のことが放映されるのでビデオにとる。

松本宏「権利と差別について-京都府作成映画「人」の合評会を契機として(1968年5月)」『不立文字』(私家版所収)をPDFでアップする。

柴田昭二・山田温子・豊嶋咲子『子どものすがたとねがいをみんなで-排除しない学校づくり』(湯浅恭正・越野和之・大阪教育文化センター編、クリエイツかもがわ、2011年、全150頁)をよむ。山田さんと豊嶋さんは、新採の教師であり、心の揺れがすなおにかかれていて、とてもよかった。「排除しない」という副題はとってつけたような気がする。あきら君-そういう子どもと出会ったことも…。6年間の成長がわかるが、その一方、それまでのあきら君はどんな育ちや様子だったのかが気になる。

第1章 「困った子」ではなく、「困っている子」として受けとめる(障害児学級担任)
第2章 子どもの居場所9-保健室から見えたこと(養護教諭)
第3章 「先生、ボクの思いを受けとめて-一人の児童を通して見えてきた全体の輪」(学級担任)
第4章 「子ども理解」の多数派をめざして(特別支援教育コーディネーター)
第5章 排除しない学校と共同の輪(実践を読み解く)

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松本氏との論争の記憶 (豊かな論争を)
2011-01-25 00:16:53
「排除しない」という副題はとってつけたような気がする。

 と書かれているが、今うけする表題と考えています。近年とみに、あいまい表現を出版者とくんで大学教授が使われていいます。憂うべき事態で、特に危険なのは、主語がないことです。ダレが、排除しているのでしょうか。そこを書かないで、読み手に委ねています。
 ダレが、を明らかにすればその責任とその責任を持つ人とが改善・あらためればいいことですが、そうしないで「まるなげ」することで、読み手の意識に任せています。
 内容はともかく編者や出版社の売らんがための表題は、真摯に取り組んでいる人々に対する愚弄ではないかとさえ思えてきます。
 同一線上ではありませんが、松本先生も抽象的言葉を組み合わせて話をされる傾向があり、そのことで詰めた論議をしたことがありました。
 ところが、抽象的言葉は、具体的にどのことを指し、どのことを意味するのか、となると言葉に行き詰まれました。
 今後の創造のために、権利と差別に対する考えに対して異なった、また批判意見があったことを書かせていただきます。

1,田中先生の発達についての理解不足。
  タテからの発達だけではなくヨコからの記載の部分は、やはりタテからの視点が強く捉えられ、田中先生のヨコへの発達の視点から、次の階層への移行というタテへの捉え方が弱くありました。
 このことは、京都府障害児教育推進協議会の委員の論議でも主張しました。

2,権利のとらえ方の弱さ
 基本的人権は、ほうとしての権利が成立する以前からひとりの人間の固有の権利であったことへの理解が不足していることです。
 このことでは、河野勝行さんが当時から大阪市大で特別聴講生として学ながら、歴史的分析を行っていたことと異質なとらえ方でした。

3,差別論の誤り
 2,と関わって、差別を、権利が不当に侵される客観的事実の存在、としてのとらえ方の誤りです。
 客観的事実の存在、としながら例をあげているのは主観的事実なのです。
 例えば、障害児に対して、かわいそうに、気の毒に、五体満足であってよかった等々を「差別」としてとらえ、そのように思う人々を包括しながらも理解の輪を広げていくという与謝の海養護学校づくりの教訓を生かしていません。
 差別の助長・拡大再生産という当時の同和問題や同和教育の誤りを無検討のまま受け入れ主張する傾向は、濃厚に主張されていましたが、それはすべての人々ではなく、差別する人と差別される人と言うように「排除」と「分断」を持ち込むものでした。
 舞鶴盲聾分校と高野小学校の共同教育は、双方の先生が相談して別々の山道を通り、山の頂上で出会うように遠足の計画をつくり、同じおやつ、を持って行くようにしようと打ち合わせをします。
 盲聾学校では、障害を持たない子どもの話をすると次々と、いやだ、いじめられる、一緒に遊べない等々の意見が出て先生たちは、「そうかなあ」と言うだけ。高野小学校では、障害を持たない子どもたちの話をすると、うつる、気持ち悪い、いやだ等々次々と意見が出たけれど先生たちは、「そうかなあ」と言うだけ。
 遠足当日、山の頂上で出会い、お昼。お互いの集団は、かたまったまま。
 お弁当を食べて、おやつを食べ始めた子どもたちは、「同じおやつ」を持ってきたことに驚きはじめます。
 でも「違うもの」があった。
 グリコのおまけ。それがきっかけになり、おまけの交換が始まり、山の頂上から「同じ道」を変えることになったら、自然に手をつなぎ合い、時にはおぶり合い山道を帰る。
 その後、高野小学校では、先生が「手をつないでいたけど、うつつた?」と聞くと子どもたちは、「うつらへんかった」の返事。そこで先生は、またまた「そうか」と言うだけ。
 盲聾分校では、「いじめられた」と聞くと「いじめられへんかった」「なかよくなれた」との返事。そこで先生は、またまた「そうか」と言うだけ。
 ここからお互いの学校の生徒は、いろいろな試行錯誤を繰り返して、交流して行きます。
 手紙を書いても眼の不自由な人は、読めない、と言う先生に、点字の話を聞いて…………で文字を書いて手紙を書く生徒、とどんどんと子どもたちの理解の輪が広がっていきます。
「そうか」「そうかなあ」
と言うだけの先生たちの懐の深さ。ここで、差別の話をしていたら共同教育は産まれなかった。
 いや、差別の話を持ち込むことが、正しくないということを双方の先生方が理解し、子どもたちの理解の無限性を見抜いていたからこの取り組みが出来たと思います。
 その点で、松本先生の持論とまったく対照的な論理で教育実践が、小さな学校間で巨大な取り組みとして行われたのです。
 記憶にとどめておいていただければうれしく思います。
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