WESTWOOD -手作りビンボー暮らし-

持続可能な社会とは、必要なものはできる限り自分(達)で作る社会のことだ。衣食住なんでも自分で作れる人が偉いのだ。

「人間性」と資本主義・共産主義

2009年01月20日 | このごろ思うこと

マツタケ山より無念の撤収風景

 不況を口実にした“派遣切り”などに、口だけでなく体を張って対処している共産党に入る人が若者を中心に増えているというご時勢を反映してか、「カンブリア宮殿」というTV番組で共産党の志位委員長が作家の村上龍氏、タレントの小池栄子さんと対談していた。あの聡明そうな村上氏にして「共産党が政権をとったら私は小説を書き続けられるんでしょうか?」などと珍妙な質問をしていた。街頭で「資本主義と共産主義」を選ばせ、当然?のことながら圧倒的に資本主義が選ばれる、ヤラセみたいな投票をやって共産主義のネガティブイメージを浮き上がらせようというニクイ演出ではあった。

 共産党の「ルールなき資本主義からルールある“経済”へ」というスローガンに、村上氏は、「ルールある“資本主義”へ」と言わず「ルールある“経済”へ」と言っているのは、「“ルールある経済”=“共産主義”を目指しているのではないのか」などと言わずもがなの揚げ足取りで噛み付いていた。
 それに対し志位氏は、「共産党はまず資本主義の枠内でルールを守らせることを目指している」が、「マルクスが『資本論』ですでに指摘していたように、いい資本家、悪い資本家など資本家の人間性に関係なく資本主義という経済システムは利潤第一とならざるを得ず、いずれ矛盾をきたす」としていた。

 私もその通りだと思う。しかし、村上氏ばりに揚げ足を取らせてもらえば、「人間性」なるものに論拠を置けば「いい共産党員、悪い共産党員など個々の共産党員の人間性に関係なく、共産主義というのは言論統制、頑張っても報われない世界にならざるを得ない矛盾を含んでいるのではないか」という論も成り立つことになる。
 爾来、ことほどさように資本主義vs共産主義の議論はいつもかみ合わないままであった。

 自動車各社がレイオフを始めたとか、百貨店の売り上げが4%減だとか、「物が売れない」と騒がしい。しかし逆に見れば「ものを買わなくても十分生活できる」ことの裏返しではないか。
 確かに、派遣切りによって明日の生活にも困る人たちが数万人規模で生じる可能性は高いし、何らかの緊急臨時対策は必要だろう。しかし、数千万人、大半の国民はTVインタビューでもニヤけながら不況を憂う余裕はあるのだ。
 問題は、ものを買うことでしか生活の向上感・充実感を感じることのできなかったこれまでの生き方を、必要最小限のものを買うだけでいかに向上感・充実感の得られる生き方に転換していくか、というところにある。そして、こうした生き方のできる社会システムへの転換は、間違いなく“環境にいい”社会の実現にもつながっていくだろう。

 今の「不況」といわれる情況は、むしろそうした転換を行う絶好のチャンスと捉えるべきなのではないだろうか。日ごろ環境をうたっている「環境団体」は今こそそうした転換を訴えて出るべき時なのに、日ごろの威勢はどこへやらほとんど全く声が聞こえてこない。やはり所詮ビジネスとしての「環境運動」でしかなかったということなのだろう。資本主義の今の世の中、“善意の環境運動家”の人間性など「ごまめの歯軋り」にもならない、いやむしろ貪欲にそれをも利用して、TVCMに見るまでもなく、「環境」をウリにして儲けようというあくなき利潤追求のビジネス、商品は巷にあふれかえっている。

 昨年、整備のかいあって30本以上のマツタケ発生を見た山域の所有者から「今後入山するな」とクレームがあった。先週、まつたけ十字軍新年初日の活動は無念の撤収作業とあいなった。

 まともな歴史観を持つ者なら、数万年前、原始人類が現れた頃には「土地や山の所有」など概念さえも存在しなかったことを理解することはそう難しいことではない。     
 江戸のころ、幕府や藩による土地や山の領有はあっても私有などというものはなかった。山(里山)は地域住民の共有財産で、みんながそこからエネルギー源や建材としての木材、きのこや動植物などの食材など日々の生活の糧を得ていた。「環境」も維持されていた。
 明治維新で国有化された山は、天皇によって地域懐柔策として再下賜され(当時は国も山も国民までもが天皇の所有物であった)入会林地となり、戦後さらに個人への払い下げによっていつしか私有化されていったのである。

 資本主義か共産主義かの要諦は月並みな言葉だが「生産手段の私有か共有か」にある。言論、表現、自由の統制は資本主義でも共産主義でもあるだろう、人間という、良くも悪くも感情と知恵を持つ(いわゆる「人間性」)にいたってしまった動物に付きまとう永遠の課題であると思う。むしろ、理不尽なアメリカやイスラエルに自爆テロまでして身を挺して抗している“過激派”の連中より、あまり考えることも無く気づかないままに共産主義に漠然とした恐怖感を植えつけられ、飼いならされている資本主義下の人々のありようの方が危ない気がする。

 ところでこれは上記とはあまり関係ないことではあるが、「ツリークライミング」、「ツリークライム」という用語は、「ツリークライミングジャパン」とかいう団体の登録商標で勝手に使ってはいけないらしい。これも資本主義の産物。なんだかなあ