琉球と倭寇のものがたり展
大変勉強になりました。11月までやってるので来れる方はぜひ。以下、展示から受けた私の独善的解説です。ご参考まで。本当は管内の素晴らしい展示を掲載したいのですが、当然ながら撮影禁止。
〈前期倭寇〉
倭寇とは、1,300年代以降、東シナ海周辺地域で略奪などをして回ったいわゆる海賊。西部開拓時代のアメリカのアウトローのようなものか。中には集めた財を元に交易でさらに財をなす者達もいた。
この頃から大和を日本と呼んでいる古文書が見られ出す。
明朝も倭寇には手を焼いていたようで鎌倉幕府に日本国王であることを認めるかわりに倭寇対策への協力を要請している。
同時に琉球はもちろん、朝鮮半島や東南アジア諸国にも同様の要請を行っている。いわゆる冊封制度である。ある意味、軍事同盟のはしりと言えるかもしれない。
1,400年代に朝鮮王朝が倭寇の拠点であった対馬を平定し、倭寇の活動は沈静化した。ここまでを前期倭寇としている。
〈後期倭寇〉
しかし、1,400年代後半になると治安部隊の軍規の乱れや新たな参入者により再び活発化していく。後期倭寇の始まりである。
さらにこの頃、ポルトガルがマレーシアから中国沿岸部に進出。
1,500年代になると室町幕府による勘合貿易が始まる。幕府は大内氏の博多と細川氏の堺に勘合符を交付したため両氏の間で争いも起こった。
こうしてステイクホルダーそれぞれの思惑が入り乱れたカオス状態となって行った。
両方に権益を約束、あるいは曖昧にしてしまったために後年、争いのタネになってしまうのは歴史の常で、イスラエルとパレスチナ、ウクライナとロシアなどよい例である。
さてわが琉球はこの頃どうしていたのだろうか?倭寇の8割弱は中国人で、日本人は2割弱、残り少数がその他で、琉球から倭寇に加わって悪事を働いていた者は少なかった。
琉球王府は、明朝からの朝貢要請を巧みに利用して上手く立ち回っていたようだ。
朝貢に応じれば明朝からは倍返しどころか”3倍返しの「頒賜品」が与えられたという!
なので明朝の倭寇狩りから逃れてやって来た倭寇残党の取り締まりもしっかり行っていた。
首里城守礼門「守礼之邦」扁額にあるように「礼節を重んじる国」として無法行為には厳しかったのかもしれない。
これこそ孤島の小国でありながら徳川幕府を上回る400年以上もの長期にわたって琉球王府が存続し続けることができた所以である。もっとも民衆は重税でそれなりに苦しめられてはいたようだが。
阿麻和利が、地元うるま市の伝承に伝えられるように民衆を大事にした賢君で、天下を取っていれば琉球の歴史はもっと輝くものになっていたかもしれない。
ところで、戦前から戦後にかけてこうした琉球の遺跡発掘と歴史解明に多大な功績を残した人物にジョージ・ヘンリー・ケアというアメリカ人がいたのは歴史の皮肉かもしれない。