野菜づくりに追われているが害虫と病気が難しい、セリンセの種も取らないと
野菜づくりを初めて、もう一ヶ月余が経過した。順調なのはサニーレタスで、毎朝収穫して、野菜サラダとして食べている。さっぱりなのがスイカと金瓜、葉が枯れたりしている。病気か害虫かがわからないのが悩ましい。
トマトやキューリには、もっと頑丈な支えが必要となっている。ピーマンなどの生育が悪いのも気になる。何が原因なのか、まったく不明。
(写真はネットから借用した。乞う、ご了承)
トウモロコシやサツマイモは、結構育っていると思うが、収穫までの時間は長い。どうなりますやらだ。ま、今年一年は準備期間と思って、何が起こるのかを学び、収穫できれば「もうけもの」という思いで頑張ってみようと思う。
家の花は何をしなくても咲くのかと思ったら、やはり手入れが必要なことが分かった。「菊作り 菊見る時は 影の人」(吉川英治)の句ではないが、人の存在なしには、美しい花を愛でたり、美味しいお野菜を食べたりはできないことを実感する日々だ。
ともあれ、朝起きたら野菜畑を歩いて、目についた草を抜くようにしている。お野菜や畑の草ばかりに目がいっていたら、セリンセはもう種が落ち始めている。これからは、毎日セリンセの種の収穫の仕事が入った。結構、時間が必要だ。柿の摘蕾・摘果もまだ行けていない。
少しだけ落ち着き三島由紀夫賞受賞作の今村夏子著『こちらあみ子』を読んだ
昨日は夜に雨が降るとの予報などので、大切な椿を植え替えたのに、雨は降らなかった。早朝に何とか育って欲しいと願いつつ、今朝水やりをした。
ところで、「土壇場、修羅場」という感じの日々を何とか切り抜けた。「切り抜けた」というよりも、ま、時間が流れて過ぎていったと言う方が正解かも。
ともあれ、少しだけ落ち着いた日常が戻ってきた。そんなわけで、このところ本を読む余裕が戻ってきた。時間はあっても、心が落ち着いていないと、本を読む気にはならない。不思議なものだ。さて読んだ本の一冊は、今村夏子著『こちらあみ子』(筑摩書房刊)だ。太宰治賞と文学の前途を拓く新鋭の作品に送られる新潮社・三島由紀夫賞をW受賞している。
「『あたらしい娘』(注;出版にあたって『こちらあみ子』と改題)の良さを分かってもらおうと、一生懸命喋れば喋るほど、なぜか作品の一番大事なものから遠ざかってゆくのだった。歯がゆい思いで四苦八苦している私に、三浦しをんさんが助け舟を出して下さった。『あらすじを説明しても、そこからこぼれ落ちてゆくものの方が多い小説なんです』。
なるほど、その通りだった。あみ子の魅力は元々、あらすじなどという安易な尺度では測れないスケールを持っている。読み手から言葉を奪う小説。これこそが『あたらしい娘』が受賞作に相応しい理由であると思う」。
上は、今村夏子の「こちらあみ子」の、第26回太宰治賞の選考委員・小川洋子さんの選評だ。
そしてその受賞後、今村夏子さんは次のような「受賞の言葉」を発表している。
「このような栄えある賞を頂いておきながら、非常に情けないことではありますが、次に一体なにが書けるのか、なにを書きたいのか、自分のことなのにいくら考えても答えが出ません。
でもいつか、たった一人の読者の手によって、ボロボロになるまで繰り返し読んでもらえるような物語を生み出すことができたら、どんなにか幸せだろうと思っています。そういう物語は、書く側が命懸けで臨まない限り決して生まれてこないのだと、今更ながら思い知った次第です」。
「たった一人の読者の手によって、ボロボロになるまで繰り返し読んでもらえるような物語を生み出す」、素敵なフレーズだ。
さて、私もまた「こちらあみ子」について、上手く書けない。上手く書けないが、読んだことだけは記しておきたいと思った。そんな、不思議な小説だ。