母の命日の今日、畑でキューリを二本初収穫し両親の仏壇に供えた
今日は母の命日だ。お墓に行って、少しだけ墓掃除もした。いろんなことを思い出したりもした。
その日、入院中の母の見舞いを、午後から会議の後に行く予定としていた。が、思い立って会議に行く前に立ち寄った。パートナーや娘は午前中に行っていた。
私が病室に入ると、もうお医者さんが心臓マッサージをしてくれていたが、戻ることはなかった。容態が急変したとのことで、パートナーや娘ともに、見送った。貧しい中で私たち兄弟を育ててくれたお礼を、一言も言わないままの永遠の別れとなった。今から14年前のことだ。
父は入院中の昼間に、母と兄弟で見舞いに行った際には「退院したら温泉にでも行こう」というくらいに元気だった。その病院から夕方に呼び出しがあり、行ってみるともう白布をかぶせられていた。父にも、感謝の言葉を伝えられていない。それは、もう20年も前のことだ。
ところで、母は近所の畑を借りて、たくさんの野菜を育ててくれた。朝一番に家を出て深夜に帰宅し、休みの日もほとんど仕事等をしていて、母の野菜づくりの手伝いをすることはなかった。そしてまた、今は朝は必ず野菜サラダを食べているが、当時は野菜をほとんど食べることもなかった。心から申し訳ないと思っている。母は花が好きだったし、野菜づくりも上手で、それらを使った料理もとても美味しかった。
今、私もご縁があって、畑にお野菜を育てている。当時、少しでも教えてもらっておけばと悔やんだりもしている。
そうした中で、昨日ウォーキングの途中にたくさんの畑を見たが、みなさん丹精込めてとても豊かに育てられている。ジェラシーを感じるとともに、恥じ入るばかりだった。(写真)
そんな他の方の畑を見ていて、石川啄木の「友が皆 我より偉く 見ゆる日よ 花を買ひ来て 妻と親しむ」の句を思い出した。どの畑も、我が貧しい畑に比べると立派だ。少しだけ落ち込んだりもする。
それでも今日、私が畑で育てているキュウリを二本、初めて収穫できた。早速仏壇に供えた。両親に心からの感謝込めて、今日一日を過ごした。
「(日赤の)義援金支給どうなんってんの」、大きな見出しに唖然とした
今朝のスポーツ報知を見て、開いた口がふさがらなかった。その記事によると、日赤と中央募金会には2,513億円の東日本大震災に関わる義援金が寄せられた(6月2日現在)が、被災者に届けられたのはタッタ287億円だそうだ。
「日赤の義援金は、被災者に届かない」という話は、いろんな所で聞いてきた。しかし日赤は「義援金の募金箱」を貸してくれるので、私も何度か利用させてもらってきた。
例えば、「劇団若獅子&市川亀治郎in岡山」公演の際にも募金箱をお借りした。その義援金箱は鍵がかかっており、日赤にそのまま届け、後日10万弱の領収書が送られてきた。
ともあれ、多くのみなさんの被災された方々のためにとの「善意が2,513億円集められたのに、被災者に届いたのはわずか287億円。未だ1,691億円が中ぶらりん」とは、呆れ果てると同時に、怒りが湧いてくる。
3月11日から、もう三ヶ月が経過している。迅速に処理して、被災された方々の手元に届くよう、心から願う。東日本大震災に関しては、東電や政府の対応など、言いたいことや書きたいことが山ほどあるが我慢している。これまた、迅速な対応を願う。
昨朝も薬について「老人力」を発揮、「なにぶん老人は初めてなもので」悩む
「星空まつり」について、事前にビールやフードを買える金券を購入していたのにも関わらず、開催日を間違えて、金券はパーとしてしまったことは既に書いた。
前期高齢者の仲間入りした身であり、次第に「老人力」の発揮が頻繁となってきている。昨日の朝は、薬を間違えて飲んでしまったようだ。私は朝食後と夕食後に服薬しているが、その種類が違う。ところが昨朝は、夜の薬を飲んでしまったようだ。朝の薬は飲んだかどうか、定かではない。困ったものだ。
ところで昨日は久しぶりの友人と、日曜の朝10時頃から廣榮堂でお茶をした。お店の中には、先にテーブルに座っていた四人組があった。私よりも一回り上の世代だろうか、まさに四方山話を楽しまれていた。私も、もう10年も経った頃にお茶を飲みに廣榮堂に行く元気はあるだろうか、それよりもお茶を飲む友人はいるのだろうかと、ふと不安がよぎった。
どなたかの本の題名ではないが「なにぶん老人は初めてなもので」(中沢正夫著、柏書房刊)、いささかに悩んだりもする。そしてまた「発達途上にある」ので、これまた悩ましい限りだ。
いくつかの「老人力」発揮はあるものの、まだまだ元気に過ごして生きたいと願う。その意味では、薬を間違いなく飲めるのは元気な証拠だと考えたりもする。
ところで、昨日セリンセを話題にしながら、その写真を貼らなかった。なんとも恥ずかしい限りだ。お許しを。ま、これも「老人力」故なり。