tnlabo’s blog   「付加価値」概念を基本に経済、経営、労働、環境等についての論評

人間が住む地球環境を、より豊かでより快適なものにするために付加価値をどう創りどう使うか。

2023年 明けましてお芽出とうございます

2023年01月02日 20時48分01秒 | 国際関係
新年ですから恒例のご挨拶の言葉ですが、本当は言葉通りではなくて、ますます難しい年になりそうです。

日本では、近く始まる通常国会で、日本が戦争をする国になるのか、戦争はしない国として、その存在意義を世界に明示するのかが本格的に行われるでしょう。

もし戦争をする国と世界が日本を認識することになれば、日本国憲法の第9条は事実上死文化し、戦後70余年の世界平和への努力は雲散霧消でしょう。

日本が、国家権力によって国民に殺人を強制する国に戻るのだと、世界が日本を認識する事になれば、日本人は、これまでと全く違った思考方法を持たねばならないでしょうし、人生設計、生涯設計もこれまでとは全く違ったものにしなければならないでしょう。

今の日本人に、その認識と覚悟が本当にあるでしょうか。
多くの日本人は、そんな認識を明確にすることなしに、ウクライナの悲惨な画像もテレビの画面として一般化し、自分は勿論、家族や、更に子や孫に至るまで、戦争をする国の国民としての覚悟を持つ必要があるなどと考えてもいないでしょう。

恐らくこういっても、今の多くの日本人、その中で国会議事堂の中で、直接にこの問題について議論をする人達も、戦争という現実の中で、人間がどんな覚悟で、どんな気持ちで生活することになるのかを、実感として感じた経験はないでしょう。

偶々昭和1桁生まれで小学校6年まで生活の総てが戦争を前提としてたものだったという経験をしたものとして、1945年の8月15日を境に、自分の人生、その中での考え方が、いかに変わったかを経験することになりました。

その経験から感じ取った人生というものへの認識の変化を、きちんと、今の戦争を知らない人達に伝えて、戦争というものが、いかに人間という存在を蔑ろにするものかを知っておいてほしいと思うのです。

戦争の惨禍については知識としては情報化時代の人間は皆よく知っていると思います。
ここで確り記しておきたいと思うのは、そういう中でのそれぞれの人間の、人生に対する理解や意識の在り方の変化です。

戦争の中での、自分の意識というのは、基本的に自分の人生は自分では決められないという不安定感です。
何時かは戦場に立ち殺すか殺されるかの瞬間が来るでしょう。そして例え死のうとも、自分の死は戦争の目的のために役立ったという満足感をもつよう努力する、自分の人生がいつ終わっても、それは戦争の目的のためと信じる、これが人生の目的になるのです。

戦争が終わったと知った時の心の変化は、これまでの無理強いの信念、覚悟が、全く要らなくなった空白の時間がずっと先まで続いているという認識の変化でした。

考えてみれば、人間として生まれた時の状態に既に意識の在る自分が戻ったという感覚でしょう。

戦争がなければ、今後の人生は、自分で考えて自分で作って行くのかな。自分の人生は自分で考えて行かなければならないのだ。いや、自分の人生は本来、自分で設計し実践できるものだったのだ。つまり、人間の本来の在り方に気付いたという事でしょう。

全ての人間の持つ人権、その尊厳と独自性、生甲斐、その素晴らしさを、すべて「戦争の目的」という一色に塗り替えて、人間の生死まで国家権力が介入するのが戦争をする国という国の在り方だったのだ。日本はそんな国だったのかという思いに至ったのです。

戦争は、人間の「命と心」という尊厳を、冒涜し、破壊するものなのです。
日本を、戦争をする国にしようとする人たちは日本国民の「命と心」という尊厳を、冒涜し、破壊する国に、日本が改めて退化する事を、国として決めようという人たちだという事になるようです。