再生可能エネルギーへの転換は電気料金の高騰をもたらす…と盛んに言われ、「脱原発」を言いだした菅首相への包囲網は激しいもののようです。
ネットのNHKニュースは次のようなことを伝えていますが、これから50年、100年単位となる処理費用にいったいいくらかかるのか、こういったものも原子力発電所にかかる費用ですね。
「廃炉」まで数十年…福島第1原発
【社会】 日刊ゲンダイ
2011年07月10日 06:35 更新
福島第1原発事故が収束するまで5年以上、へたすりゃ数十年もかかることが分かった。9日に明らかになった東電の中長期的工程表案によると、早くて3年後に使用済み燃料プールから燃料の取り出しを始め、10年後をめどに原子炉内の燃料を取り出し始めるという。また原子炉を解体して撤去する「廃炉」までは数十年かかるとしている。そのためには1~4号機の使用済み燃料プールに保管されている3108体の燃料を十分に冷やす必要があり、取り出すのは3年後から。取り出した燃料は敷地内の共用プールに移すことになるが、それにはプールの改造なども必要となる。気が遠くなる話だ。
廃炉に向けた工程表案明らかに
7月9日 12時13分
東京電力福島第一原子力発電所の廃炉に向け、国の原子力委員会や東京電力などが検討している、中長期的な工程表の案をNHKが入手しました。この案では、廃炉に向けて最も重要となる溶け落ちた核燃料を取り出す作業を開始する時期の仮の目標を10年後に定めるとともに、最終的に原子炉建屋を解体し撤去するまでには、数十年に及ぶ作業が必要だという見方を示しています。
この工程表の案は先週、国の原子力委員会や原子力安全・保安院などの国の関係者のほか、東京電力や原子炉のメーカーなど、原発事故に対応する関係機関が一堂に集まった会議で示されたものです。それによりますと、廃炉に向けての作業は、まず1号機から4号機の使用済み燃料プールに保管されている核燃料の取り出しを3年後の2014年度の初めに開始し、2016年度の末以降順次各号機で終えたいとしています。最も重要となる溶け落ちた核燃料を取り出す作業については、10年後の2021年度から開始することを仮の目標とし、必要な技術開発を進めていくとしています。この目標は、アメリカのスリーマイル島原発事故の処理でかかった時間などを参考に決めたとされています。しかし、福島第一原発の場合、スリーマイル島原発とは違い格納容器が損傷しているため、作業を進めるには、格納容器を補修し水で満たせるかどうかなどが重要なポイントになるとしています。最終的に原子炉建屋を解体し撤去するのは、これらの核燃料を取り出す作業を終えたあとのことで、工程表の案では、「数十年オーダーの長期に及ぶことが想定される」として、廃炉には長期間の作業が必要だという見方を示しています。福島第一原発の事故の収束に向けた来年1月ごろまでの短期的な工程表はすでに公表されていますが、廃炉に向けた中長期的な工程表の案が明らかになったのはこれが初めてです。国や東京電力などは、この案を基に廃炉に向けた工程の検討をさらに進めることにしています。福島第一原発の廃炉を巡っては、細野原発事故担当大臣が、原子炉を安定冷却させるめどとしている今月中旬には、廃炉までを見通した中長期的な道筋を示したいという考えを明らかにしていました。
国や東京電力などが検討している中長期の工程表の案が明らかになったことについて、福島県大熊町の渡辺利綱町長は「廃炉に向けての作業は正直、ずいぶん時間がかかると思いました。それはそれとして受け止めて、町の復興計画とも絡んでくるので、今の時点では一日も早く原子力災害の早期収束に向けて、全力を傾注して復興計画をきちんと進めていきたい。また廃炉に向けての作業が長くかかることを悲観的に考える町民もいると思いますが、町民の皆さんが一日も早く帰れるようないろいろな政策をつくって、引き続き、国などにも放射能汚染に対する取り組みの要望をしていきたいと考えています」と話していました。
東京電力福島第一原子力発電所の廃炉に向け、国の原子力委員会や東京電力などが検討している中長期的な工程表の案をNHKが入手しました。この工程表の案は、廃炉に向けての作業には、さまざまな課題があると指摘しています。
その1つが技術開発です。例えば、核燃料を安全に取り出すには、原子炉建屋の中の放射線量を下げることが欠かせませんが、そのために遠隔操作で除染を行う装置などを開発する必要があるとしています。
格納容器を水で満たしたり格納容器や圧力容器の内部を調査したりする作業についても、専用の装置や機器などを新たに開発することが課題だとしています。また、燃料を取り出すための既存の機器が建屋の爆発によって使えなくなっていることから、新たな機器を設計し製造することが必要だとしています。
一方、取り出した燃料の処理や作業に伴って出る放射性廃棄物の処分などについても、長期的な課題だとしています。特に、原子炉から取り出した燃料については、再処理を検討する一方で埋め立ても含めた処分の方法を幅広い観点から検討する必要があるとしています。
今回の事故は、世界でも例を見ない深刻なケースだっただけに、工程表の案からは廃炉に向けて検討すべき課題が数多くあることが分かります。このため事故の収束に向けては、「電力会社だけでなく国内・国外の英知を集めた対応が必須」だとしています。
としたら、本当に原子力発電所は経済的でもなんでもありません。アメリカの原子力発電所技術を日本へ売り込んでくるだけのものだったのかもしれません。TOMODACHI作戦などといって米軍が盛んに宣伝していたのは…実はなんのための活動だったんだろう。
東京電力の幹部技術者らは、福島県の5基の原子炉に危険を生じ得る設計上の欠陥があったことを、長年にわたり把握していた。しかし、東電はその欠陥を十分に改善せず、震災が起こった際に事故が起こる結果となったことが、ウォール・ストリート・ジャーナルの調べで明らかになった。
東電は福島県内の10の原子炉で、2種類の異なった設計を採用していた。3月11日に大震災が起こった際には、新型の設計を採用した5基の原子炉は14メートルの津波に耐え、大切な冷却装置が止まることはなかった。これらの原子炉はその後、安全に停止した。
しかし、旧型の設計を採用していた4基の原子炉では冷却装置が止まった。予備のディーゼル発電機と(発電機と原子炉の冷却装置をつなぐ)配電盤は海水につかってしまった。結果として、3基の原子炉で核燃料は炉心溶融(メルトダウン)を起こし、複数の建屋が吹き飛ばされ、最終的にはチェルノブイリ以来最大となる、放射線の漏えいが起こった。
津波により、一部の原子力発電所の設計におけるアキレス腱が露出した。すなわち、キッチンテーブルほどの大きさの配電盤だ。新型の発電所では、配電盤は原子炉と共に頑丈な建物に入れられていた。それ以外では、当初の設計の遺物とも言える、あまり丈夫でない別の建物に入れられていた。津波が来たとき、それらの配電盤は使用不能となり、動いていた発電機も使えなくなった。
この記事は、東京電力の現役、および引退した幹部技術者十数人に対する取材を元にまとめた。その中には、1970年代に行われた、設計に関する決定に深くかかわった技術者もいる。そのうちの数人は、ここ数十年の間に、東電は古い原子炉を改良する機会があったと言う。それができなかったのは、大丈夫だと思う気持ちと、コスト削減の圧力と、規制の緩さが原因だと、彼らは話す。
「(新しい)6号機で使い始めたやり方を、福島第1の原子炉に当然すべて採用すべきだった」と、88歳の豊田正敏氏は言う。東電の元副社長で、原子炉建設の監督に力を貸した人物だ。彼は設計の欠陥に気づかず、のちにそれを修正しなかったとして、自身を責める。
東電の広報担当者は、現在日本政府が事故の原因について調査を進めているとして、この件に対するコメントを控えた。
古い原子炉を使っているのは日本だけではない。米国も30年以上稼働している原子炉が数十基あり、そのうち23基は福島の旧型の原子炉と同じ、ゼネラル・エレクトリック(GE)製のものだ。今後数年のうちに、運転許可の更新が必要なものが数台ある。ドイツやスイスでは古い原子炉をそのまま引退させ、福島の事故後、原子力発電も止めるという決定をした。
福島県の発電所は新型のものも含めて、すべてがGEの設計を基盤としている。GEは日本にあるGEの原子炉の点検・修理などを行うという実入りの良い契約を結んでおり、パートナーである日立とともに、古い原発の寿命を延ばすべく、世界で活動を行っている。
GEは福島の原子炉の欠陥については、東電が設計変更を担当していたのだから、GEの責任ではないと言う。GEの広報担当、キャサリン・ステンゲル氏は、福島第1原発における非常用ディーゼル発電機の設置は、東電と行政当局が確認して、許可されたと言う。
福島で最も古い原発の建設は、1960年代に行われた。震災以後の放射線問題すべてを引き起こしている福島第1原発は、東電にとって最初の原発だった。同原発は太平洋に面しており、ある意味、実験室のような位置づけだった。第2次世界大戦の終結からわずか20年ほどだった当時、日本には自国で原子力発電所を設計する能力はなかった。そこで、GEから原子力技術を卸してもらったのだと、日本の技術者たちは言う。
初期の原子炉はGEの「マーク1」を用いていた。建設を担当したのは、アメリカのエバスコ(Ebasco)という企業で、同社は現在は存在しない。原子炉を小さく、安価にするために、エバスコは原子炉建屋を小さくしたと、豊田氏は言う。
原子力発電所は、不安定な核燃料を継続的に冷却し続けなければならない。このための冷却装置は電気で動き、電気は通常その国の電力網から引いてくる。電力網が機能しなくなった場合、原発のディーゼル発電機などの非常用電源が作動し、冷却装置を動かし続ける。これらの機器が作動しなければ、原発は炉心溶融の危険にさらされる。
東電の最初の原子炉建屋は小さかったため、非常用発電機は別の場所に置かなければならなかった。技術者らは、発電機を隣のタービン建屋に置いた。原子炉建屋は要塞のように厚いコンクリートの壁に囲まれており、頑丈な二重扉がついていた。それに比べるとタービン建屋、特にその扉はずっと造りが貧弱だった。
「原子炉の安全が主目的。だから、原子炉建屋に置くのが当たり前だ。耐震設計でクラスAの場所に置かなきゃいけない」と、豊田氏は言う。「津波が起こっても、ディーゼル発電機が原子炉建屋に入っていれば、今回のような事故は起こらない。ディーゼル発電機がタービン建屋にあったということを、私を含めて気がつかなかったのは残念だと思っている」
東電で原発技術担当の幹部だった岸清氏は、最初に設計が行われた当時は、福島の太平洋岸で大きな津波は「起こり得ない」というのが常識だったという。のちに東電は、この原発の(すべてではなく)一部を手直しし、5.7メートルの津波に対応できるようにした。だが、3月の津波はその倍以上だった。
1970年代以降、何度も福島第1原発を訪れたというある東電の技術者は、原子炉建屋は非常に窮屈で、通常の作業をするあいだ、バルブひとつを設置するのにも苦労したという。「マーク1はひどい設計。1人しか上れないようなはしごを上らなければいけない。時間もかかって、非常に効率が悪い」と、その技術者は言う。
東電の技術者らによると、東電はマーク1にまったく満足しておらず、福島第1原発の6号機を計画している途中で、別の設計を採用することにした。もっと細身のGEの原子炉、「マーク2」を導入し、建屋自体も大きくしたことで、6号機の建屋には予備の発電機を内部に置けるだけの十分なスペースができた。
1970年代後半、11キロほど離れたところに福島第2原発の建設を始める際には、東電はさらに設計を改善した。4基の原子炉がつくられ、そのすべてでマーク2が採用された。また、このマーク2には、津波や地震に対応しやすい仕組みを施しており、「ずっと日本向け」の仕様になっているのだと東電の技術者らは話した。
GEによると、同社は1980年代に米国と日本で、技術の進歩に合わせてマーク1の設計を改良したという。GEはマーク1は安全だという。
1987年、東電は福島県で最後となる、10番目の原子炉を開設した。福島第1原発の1号機から5号機までは旧型で、残りの5基は新型だった。
その後、東電は原発を繰り返し改善し続けた。日本政府も、何度も耐震基準を厳しくした。旧型の原子炉用の非常用ディーゼル発電機を納めたタービン建屋は、耐震安全性評価ではクラスBで、新型の原子炉用の非常用電源が入っている原子炉建屋のクラスSよりも、低い評価だった。
「非常用ディーゼル電源の不統一な置き方、設置のやり方についてはみんな気が付いていた」と、東電の原子力部門を指導してきた幹部技術者は言う。
その技術者によると、1987年に政府による定期検査の準備をしていた時、この予備発電機の置き場所は「違いが際立っていた」という。彼は同僚に「この問題を解決すべきか」と尋ねたと話す。
別の専門家は、タービン建屋の地下だから、耐震上大丈夫だと言ったという。結局、その技術者は、「特にこだわってやるマスト・フィックス(必ず直すべきこと)ではない」と考えたと話す。
元副社長の豊田氏は言う。「その後たびたび、耐震設計などの見直しをやっている。それでもやっぱりお金がかかるということで、言い出せなかったのかもしれない」
東電はこの頃から、電気料金の高さを批判されており、そのような大きな変更は困難だったと、同社の元幹部は言う。
1998年、新たな規制に対応するため、東電は福島第1原発の各原子炉に、少なくともそれぞれ2台の予備ディーゼル発電機を設置することを決めた。新しく設置することが決まった2号機と4号機の予備発電機は原子炉の隣、山側の高い位置に新たに建てられた専用の建物に納められた。これらの新しく追加された非常用電源を通して、福島第1の6基の原子炉はすべて、脆弱なタービン建屋以外の場所に設置された発電機を備えることになった。
これは安全性の面で大きな進歩だった。3月11日の津波が起こったときには、すべての原子炉で予備の電力を確実に得られるようになるまで、あと一歩のところまで来ていた、と言うことができる。具体的にあと一歩とは、追加された予備発電機から原子炉の冷却装置に電気を送る配電盤の問題だった。日本の技術者たちは、この配電盤を「メタクラ」と呼んでいた。配電盤のカバー「メタル・クラッド(金属製の覆いの意)」を省略した言い方だ。
1990年代後半に3機の非常用電源が追加された後も、第1号機から第5号機の「メタクラ」は依然として、耐震安全性評価クラスBの脆弱なタービン建屋にあった。それは、電源追加の機会にも変更されなかった(6号機ではそもそもの設計がより進歩していたため、すでに「メタクラ」は原子炉建屋に入っていて、追加の電源もこの配電盤を通して原子炉の冷却装置につながれた)。
東電の元副社長で、1990年代後半に予備発電機など、原発設備を担当していた友野勝也氏は言う。「やりやすかったからじゃないか。それ以外には想像できない。メタクラが(タービン建屋のなかに)あるのだから、わざわざ新しいメタクラをつくらなくてもいいと。設計グループの中に入って、喧々諤々と議論をした事実はない」
2001年には、福島第1原発1号機の、30年間の運転許可が切れることになっていた。東電は10年間の更新を求め、受理された。2011年初め、東電は再度の更新許可を得た。事故のわずか5週間前だった。政府審議を要約した議事録によると、規制当局は、旧型の原子炉の基本的な設計に欠陥があるか否かを、検討し直すことはなかった。
原子力安全・保安院、原子力発電検査課の青山勝信氏は、設計については原発建設の時点で検討されたという前提で、更新が行われたと話す。したがって、そもそもの設計や建設については議論されず、焦点となったのは、パイプの適合具合などだったと言う。
原子力安全・保安院は、経済産業省の一機関であり、原子力発電を促進する役目も担う。経済産業省は、原子力発電を日本の発電量の半分以上にすることを目標としている。昨年は30%ほどだった。この目標はごく最近、2010年6月に菅直人首相により再度確認された。
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