東日本大震災で住民の避難を呼び掛けて津波にのみこまれた24歳の自治体職員の女性、迫りくる大波の中、地域住民に声をかけ続け自らは帰らぬ人となったお巡りさん、放射能の中、原発の冷却作業にあたる電力会社の下請けの社員、そして被災現場の最前線に立つ自衛隊員、消防士、警察官、自治体職員、ボランティア、民間企業社員などなど、文字通り身体を張って日本を守る人々。本
当に目頭が熱くなります。日
本は、まだまだ大丈夫だと強く想う昨今です。
戦前、日本海軍に佐久間勉という海軍大尉がいたことをご存じでしょうか?
佐久間大尉は、福井県出身。明治34年に海軍兵学校を卒業。
巡洋艦吾妻乗組員、巡洋艦笠置で日露戦争に出陣、水雷母艦韓崎を経て第一潜水艇隊艇長、第四潜水艇長、第一艦隊参謀、駆逐艦春風初代艦長、巡洋艦対馬分隊長、そして第六潜水艇艇長に着任した、いわば海軍のスーパーエリート。
事故が起こったのが明治43年4月15日、佐久間大尉率いる第六潜水艇は、ガソリン潜航実験、シュノーケル試験を行うため、山口県岩国を出港、訓練開始後45分立ったころ浸水により海底に着底。
長時間がたっても浮上しないため呉海軍鎮守府に連絡、引き上げ作業が行われました。
当時の技術では、潜水艦の事故の救助は難しく絶望的な状況。
海外の同様な潜水艦事故では、脱出しようとする乗組員が我先にハッチに殺到し殺し合いが始まることもあったようです。
ハッチを空けたところで海水が流れ込み全員の死に確実に至ります。
帝国海軍も引き上げに際し艇内での醜態をさらしていることを心配していたようです。
沈没した第六潜水艇を引き上げてみたところ、乗組員14名は全員死亡。
しかしながら、乗組員は全員自分の持ち場を離れておらず、航海士や機関士など最後の最後まで復旧のための作業を続けていた様子が飛び込んできたのです。
生還の望みが失われた中で彼らは何を考え何を話していたのでしょうか。
わたくし自身、想像を巡らせていますが、よく分からないというのが本当のところです。
絶望的な状況におかれた集団を、最後の最後まで規律と使命を守らせた佐久間艇長のリーダーシップ、それはリーダーの条件、指導者の真髄を昇華したものではないでしょうか?
さらに佐久間艇長は、分刻み秒刻みで航海日誌を書き続けます。
ガスが充満してくる中、酸素が希薄になる中、佐久間艇長は書き続けます。
そして最後に事故の分析を薄れゆく意識の中で記述し、遺書として次のような文書を残します。
「謹んで陛下(明治天皇)に申す 我部下の遺族をして窮するもの無からしめ給はんことを 我念頭に懸るもの之れあるのみ」
死の直前、明治天皇に対する潜水艦の損失と部下の死を謝罪し、この事故が日本の潜水艦の発展の妨げにならないことを願い、それを記述したのです。
そして部下の家族が生活で困窮しないよう最後の希望を書きます。
この佐久間メモは、広島県江田島市にある旧海軍兵学校資料館(現海上自衛隊幹部構成学校・見学可)、呉駅前にある大和ミュージアム(呉市海事歴史資料館・戦艦大和の1/10モデルで有名)で見ることができます。
また、広島県呉市にある鯛乃宮神社に「第六潜水艇殉難の碑」があります。
リーダー不在といわれる現在の日本。今の日本を救うリーダー、そして彼彼女についていくフォロワーが出てこなければなりません。日本は、まだまだ捨てたものではありません。