能率技師のメモ帳 経済産業大臣登録中小企業診断士・特定社会保険労務士の備忘録

マネジメント理論、経営理論を世のため人のために役立てるために

J-WAVEに知人が出演 モチベーションマネジャーがTOKYO MORNING RADIOに出演

2013年03月12日 | 日記・エッセイ・コラム

朝、ラジオを聞いていると、どこかで聞いた声が・・・。

J-WAVE「TOKYO MORNING RADIO」に友人が出演。

びっくりしました。

彼は、セルフモチベーションの専門家。

やる気を高める技術を数多く持っています。

彼自身、大枚をはたいて数々のセミナーを受けているという研修オタクでもあります。

自身、モチベーションマネジャーと称し、悩める若人に説教・・・いい感じでした。


DJの別所哲也さんとの対談は、結構面白く彼の持ち味が出ているなあ、と感心した次第です。


最新の経営理論や管理技術、仕事のテクニックも有効ですが、その前に一人一人のやる気、モチベーションはもっと大事・・・気持ちの問題、メンタル部分は、ホントーに大切です。


朝から、元気が出る話を聞いて、良かったです。

 

自分自身の朝タイムは、瞑想と儀式を組み込み、一日のテンションを高めるための契機づくりを行っています。

今年のテーマの一つが、自分自身及びメンバーのモチベーションアップです。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

追悼の一日 3.11 あれから二年・・・自分自身、何がどう変わったのか自省した一日

2013年03月11日 | 日記・エッセイ・コラム

二年前の今日・・・大変なショックを受けました。


あれから二年・・・自分自身、何がどう変わったのか自省した一日。


亡くなられた方、その家族、被災され未だに仮説住宅で暮らす方々・・・本当に心が痛みます。


追悼の一日です。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新・会社法 テクニカルな美の法典!会社法は7つの編、全979条の条文から構成されています

2013年03月10日 | 学問

平成18年5月1日に施行された会社法。


学生時代は、商法のゼミに所属していたのですが、当時は商法の中に会社法が含まれていました。

まずは、商法総則を学び、商行為や商人などの定義を理解、その後、会社法やテコギ(手形・小切手法)、保険海商法というステップを踏むのが一般的です。

もちろん商法は民法の特別法であるため、民法の理解が不可欠です。


それにしても、この新会社法。

テクニカルな美しさを持った法律です。

会社というバーチャルな組織体を、文で表現する、しかもモレなくダブリなく・・・。

第2条の「定義」では34もの説明がされています。

譲渡制限株式、取得条項付株式、新設合併などなどムダのない定義には、美の世界を感じさせます。


第一条の趣旨などは、あっけらかんとしたシンプル文。

ムリ・ムダ・ムラが一切ありません。

一般的な法律であれば、目的など高らかな理想や方向性を指し示した浪漫を感じさせるところがありますが、会社法は???


第1条 

会社の設立、組織、運営及び管理については、他の法律に特別の定めがある場合を除くほか、この法律の定めるところによる。


味もそっけもなく、思わず笑ってしまいます。

民訴法や刑訴法などに代表される手続法につながる無機質性も感じさせます。


会社法は、7つの編、全979条の条文から構成されています。


1.総則

2.株式会社

3.持分会社

4.社債

5.組織変更、合併、株式交換・・・

6.外国会社

7.雑則


同法施行規則や会社計算規則などを含めると、それを読むだけでも何日もかかると思います。

ウイスキーなどを舐めながら深まる夜を楽しむという趣味を持つ友人がいますが、彼の楽しみも何となくわかるような感じがします。

会社法というテクニカルな美しい世界・・・それを堪能するのも面白いと思います。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

趣味のとなりに住むということ・・・パチンコ店の隣に住む楽しき仲間 隣が精神科、階下が仏壇店・・・

2013年03月09日 | 日記・エッセイ・コラム

春は人事異動の季節。

小職のいる組織にも人事異動で転入してくる仲間がいます。


単身赴任の彼は、「飲まない」「買わない」けれど、「打つ」ことが大好き。

パチンコやマージャンがライフワークの一つになっているとのこと。

ちょっと理解できないのですが・・・。


彼は、なんと、大型のパチンコ店の隣のマンションに住むとのこと。

単身赴任の寂しさをパチンコで癒す・・・仕事・趣味の職住接近ということなのだと思います。

でも何となく騒々しいような、治安も少し悪そうな、住むにはどうなのか?と考えてしまいます。

一日の仕事を終える・・・パチンコ屋でひと遊び・・・帰宅後、夕食、風呂、就寝・・・起床・・・一日の仕事を終える・・・パチンコ屋でひと遊び・・・というサイクルを回すということなのだと思います。

恐妻家で有名な彼(笑)は、今回の単身赴任を機に、大きく翼を広げ、自由を満喫するのだと思います。


また、小職の周りには、

精神クリニックの隣に住んでいる同僚、

仏壇屋さんの上に住んでいる後輩など、さまざまな価値観を持つ仲間たちがいます。


でも、好きなこと、人生にとって欠かせないこと等の隣に住むことは、充実した生活を送るために大切なことだと思います。

小職としては、銭湯の隣に住みたいのですが・・・。

毎日、大きな浴槽でのんびりしたいものです。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

サムライJAPAN 台湾を撃破 4-3!野球は、ツーアウトから・・・

2013年03月09日 | スポーツ

久々にシビレル野球の試合を見ました。

2点を先行され、追いついたものの、さらに逆転。

9回表ツーアウトから井端のヒットで同点。


延長戦となり、なかなか芯に当たらなかった中田が外野フライで逆転。

杉内が締めて4-3で勝利。

野球は、ツーアウトから


文字通り、ベースボールの面白さがいっぱいの試合でした。結構ハードだった1週間の疲れがかなり緩和されました。

ありがとう、サムライJAPAN


次のオランダ戦も楽しみにしています!


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

社会を変える論文を! 自己満足の論文はイラナイ!文系の大学院なんて、しょせん趣味の延長??

2013年03月07日 | 学問

大学院修士課程に通っているという知人との飲み会。


文系の大学院なんて、しょせん趣味の延長・・・

まさにそのとおりです。


理系のように実験をはじめとする客観的な事実はなく、あくまで先行研究を乗り越え、社会に情報発信する論文が、文系の学徒には求められていると思います。

まさに、そのとおり!です。


いかに先行研究をオーバーラップし、自分らしいオリジナリティを発揮できるか?

それが文系修士課程のキモであるという意見で一致しました。


そのために最も重要なのが、オリジナリティ

単なる書籍の総論まとめよりも、稚拙でも自分らしさが表現された論文こそが大切なのです。


M2の皆さんには、時間のないキビシイ世界ですが、ぜひとも真理の追究に尽力頂きたいジャンルだと思います。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「コマギレ勤務」が社会を変える 高橋美紀著 労働調査会刊 短時間勤務する正社員がカイシャを変える

2013年03月03日 | 本と雑誌

日本の会社は、「健康な男性・長期勤務・長時間労働」がスタンダード。

正社員を中心に人事労務管理が行われています。

しかしながら、非正規雇用が三分の一を占める現在、ニッポンの雇用も変化が求められているように思います。

あまり上品な言葉ではありませんが、「ジョロウガイ」という言葉・・・女性、老人、外国人を指しているとのことです。

今の時代、女性労働者、高齢労働者、外国人労働者、障がい者の方々は、もはやマイノリティではないと思っています。


「コマギレ勤務」が社会を変える 多様な働き方を目指して

高橋美紀著 労働調査会 952円+税


多様な雇用形態の社員が活き活きと働き、成果を産みだし、社会に貢献し続ける組織・・・。

これは、会社の理想型であり、ユートピアであると思います。

同書で、著者の提唱している「コマギレ勤務」社員とは、短時間勤務する正社員のこと。

コマギレ八時間労働がスタンダードとなっている日本の雇用環境の中で、コマギレ勤務社員を組み込むことにより、

ニッポンの会社、社会が変わると提言しています。

まさにそのとおりだと思います。


職務給を中心とする欧米のブルーカラー労働者と日本の非正規社員は、ホワイトカラーと比較した時の賃金の安さ、雇用の不安定さで似ているといわれています。

ソーシャルが世の中の基本コンセプトとなりつつある今、もはやブルーカラー、ホワイトカラー、あるいは正社員、非正規社員などと言っている企業は、社会から淘汰されるリスクがあります。

現状からすぐに大変革を起こすのは難しいにしても、少子高齢化の進む日本の未来を見据えた人事労務施策が求められているようにも思えます。


本書は巻末の「あとがき」から読まれることをお勧めします。

著者の自己紹介が綴られています。

均等法とともに女性の総合職として働き、結婚し、子育て、障がいを持たれたお子さんのサポート・・・。

その中で体感したニッポンの会社の雇用の偏りを見事に喝破されています。

単なる「あるべき論」ではないのです。


今や女性、障がい者、外国人、高齢者はマイノリティではないのです。

彼彼女たちが、その持てる能力や才能をフルに発揮し社会に貢献するソーシャル・カンパニーがスタンダードとなる時代を向かえていると思います。

従来のステレオタイプを切り替えるためにも一読いただきたい一冊です。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本最初のビジネススクール 日本能率学校 日本最初の経営コンサルタント、能率技師上野陽一が創設

2013年03月02日 | 学問

第二次世界大戦、太平洋戦争に突入した1942年。その学校は生まれました。

「日本最初の経営コンサルタント」「能率技師」と呼ばれた上野陽一(1883~1957)が、私財を投げ打ち設立した日本能率学校。

当時の文部省の許認可を得ることはできず、まさに寺小屋的な位置づけからのスタートだったようです。


当時、国際経営学者としての名声もあった上野陽一。

単に、科学的管理法を中心とした欧米流のマネジメント理論を教えるというだけではなく、東洋思想や礼儀作法から生活態度までを教育する学校だったようです。

戦局の悪化により、学生は徴兵に取られ学校としての体をなさなくなるということになりますが、その志は引き継がれ、戦後の1950年、学校法人産業能率短期大学(現学校法人産業能率大学)という日本初の短期大学(夜間)というカタチで復活することになります。

上野陽一は、能率技師(経営コンサルタント)として個々の企業の経営指導、公的機関の業務改善、図書の刊行、能率についての講演活動等をする「売れっ子」コンサルタントでしたが、日本に近代的なマネジメント思想と方法論を浸透化させるというその志を実現させるために、自分自身の分身を作っていくことを考えたようです。

実務家でありながら教育家としての側面を持つ上野の特質が、この日本能率学校に結実したものだと考えます。

天然資源に恵まれない日本に、人的資源に「能率」をプラスすることにより、より良い日本を作っていく・・・そんな想いが上野やその思想に同調する同志によってカタチになっていくのです。

そのあたりを、わたしが書いた修士論文から抜粋させていただきます。

******************************** 

 能率の日本国内への普及のため、上野が最終的にたどり着いたのが、学校教育である。社会人を中心とする能率教育の限界を感じ、若年層からの能率教育の必要性を感じていたのである。上野は、26歳で心理学通俗講話会での講演(19095月、長野県教育会で「実験心理学」を講演)を皮切りにして演壇に立った。33歳の時、早稲田大学広告研究会で広告心理学を講義、同年電通の広告研究会で毎月講演を実施している。教員としての活動は、36歳の時、早稲田大学商科において広告心理学の教壇に立ち、以降、40歳の時に日本大学講師、52歳の時には横浜専門学校(現神奈川大学)で科学的管理法概論、事務管理を講義、2年後に横浜専門学校講師となっている。さらに55歳の時に武蔵野写真学校校長に就任、翌年、再度横浜専門学校講師、早稲田大学講師、中央大学講師となっている。そして、60歳の時に戦時下で経営が厳しくなっていた立教学院の企画委員となり、立教大学教授、立教大学経済学部経営経済学科長に就任している。上野の生涯の中で、学生への高等教育は大きなウエイトを占めているのである。

 上野が、能率の普及にあたり、学校教育の重要性を認識したのは、社会人に対して能率教育を実施したこと、そして前述した大学において学生教育に従事したことの二つに起因していると考えられる。

 学生教育に対しては、日本において幼少期から詰込み型、画一的な教育が展開され、独創性、創造性の開発を阻害していること、そして大学を卒業し就職したとしても、その専門性が十分活かされていないことを主張している。一般的に法科や経済科を卒業し企業組織において事務職につきにしても、事務についての専門教育を何も施されていないことについての危惧を述べているのである。また、社会人になってからの教育の重要性も十分に認識していたのである。上野は、自らの教育観を具現化するために、産業能率専門学校設立を計画する。

 上野は、59歳となった1942年に私財を投げ打ち日本能率学校を創設する。戦時下局面にある厳しい状況である。日本産業能率研究所をベースとして創立された日本能率学校は、上野の思想たる能率道の具体化を図る場として設立されたのである。

 

 日本能率学校の学生募集広告によると、その内容は次のとおりである。

1.所在・・・東京都世田谷区玉川等々力町3-312

2.開校・・・昭和17417

3.修業年限・・・本科2年 専攻科1

4.入学資格・・・中等学校卒業者

5.入学試験・・・学力および性格についての試験

6.募集人員・・・17年度本科1年 100

7.寄宿舎・・・校長は生徒と寝食を共にする

 

同募集広告の中での解説には、「軍モ官モ民モマタ家庭モ工場モ国モ アゲテ 能率ノ 必要ガ サケバレテ イル トキニアタリ 能率方法実施担当者ノ養成ハ 目下 急務中ノ急務デアリマス。(中略)午後ハ 全部研究実習ニアテテ 実際ニ 役ニ タツ指導的 人物ヲ 養成スル コト ヲ 目的ト シマス。」とある。付属実習工場として目黒区下目黒6-1531と板橋区板橋3丁目505の住所が、そして付属施設として能率道場と日本産業能率研究所が記されている。

 また、同校の入学試験は、「学力および性格についての試験」としているが、その内容はユニークなものであった。①イロハウタをひらがなで書け、②イロハウタを漢字カナマジリ文で書け、③イロハウタの意味を書け、④五十音図を書け、⑤五十音図をローマ字で書け、⑥自転車の略図を書け、⑦漢字にふりがなをつけよ、⑧能率学校入学の動機を書け、⑨筆の持ち方を知っているか、⑩百科事典の中から目的となる題目をさがせ、といった試験内容であった。心理学者である上野の出題意図が垣間見られる。

 日本能率学校のカリキュラムも独自性を有していた。

 日本能率学校カリキュラムは、テーラーの科学的管理法を習得するためのステップを前提に編成されていたものと考えられる。工学概論と能率概論を土台として、作業管理、工程管理、工具管理、工業簿記、事務管理、工場組織、賃金論、工場建築といった生産管理分野を中心として編成されている。さらに、戦時下にも関わらず英書講読の時間が第一学年で4時間、第二学年で3時間となっている。最も独自性が見られるのが、実習時間である。学生募集広告の記述にあるよう午後の時間はすべて研究実習にあてられることが、このカリキュラムからも読み取れる。全39時間中15時間が実習にあてられているのである[1]

 

 しかしながら、学生募集は上野の期待を裏切った。募集定員100名に対し志願者は50名足らず、入学試験に合格したものは30名であった。日本能率学校の経営基盤を支えるには不十分だったのである。日本能率学校は、実習を重視し、学校で作った佃煮を生徒が近所で売り歩くといった形の実務的教育[2]を行っていた。しかし、そういった学生教育への世間の理解はまだ不十分だったし、戦争中ということもあり評価を得ることができなかったのである。このため1943年には社会人(工場労働者)向けの夜間6か月の能率講座を企画し定員を超える聴講生を集めたことは、日本能率学校の価値を認めていたということであり、将来の姿を暗示させた。だが、戦争は長期化、学生の徴兵、空襲の危険性等のため、同年本科は中断することとなった。

 

 日本能率学校の再開は、終戦後の1947年である。産業能率専門学校として学習募集が行われた。生徒募集案内の中に「目的」が記されている。「能率ノ原理ニ モトヅキ 合理化ノ質ヲ アゲルタメニ 産業ノ科学的管理法ニ 通ジタ 人材ヲ 養成スルコト」である。この時の就業年限は3年、本科生(生産科50名・事務科50名)、校外生(夜間・日曜日)若干名、聴講生若干名であった。 

そして、1950年、上野66歳の時、日本能率学校は産業能率短期大学に昇格した。初代の人事院人事官であった上野のポジションが少なからず後押ししたものと推測される。 

 上野の設立した日本能率学校は、学生教育と社会人教育を同時に行うデュアルスタンダードの学校であり、日本初のビジネススクールということが出来よう。戦前、戦後を通じ学生募集に苦労した上野は、中等教育卒業の学生と企業や団体に所属する社会人の双方を「学生」とすることにより、学校の経営基盤が安定化することを認識していたことも推察される。さらにそのことは、「能率」教育の全階層性、普遍性と相まって、ヒジネススクールとしての性格を濃くしていったのである。 

 1942年に上野によって創立された日本能率学校は、従来の商業学校や工業学校とは一線を隔する学際的が学校であった。管理、組織、事務などの実学を習得するための欧米型のビジネススクールに近い存在であった。能率というコンセプトを軸として、いわば心技体で体得していくという学習形態であった。 

 上野は、知識偏重、詰め込み型の教育を否定し、独創的・人間的な全人教育を目指したのである。ムリ・ムダ・ムラをなくす能率道を能率道場で極めつつ、科学的管理法をベースとする欧米のマネジメントのエッセンスを習得し、日本の産業界に貢献する人材を輩出することを志向したのである。上野の想い、構想を、第二次世界大戦中という非常時に実現させなければならなかったことは、大きな難問であった。教員、職員の充実、学生募集、施設の整備等を同時に行っていかなければならず、しかも資金確保のため、上野自身、能率についての指導、講演等で飛び回らなければならなかったのである。いわば、自身の想いを実現させるために私財を投げ打ち、自らの全てを賭して日本能率学校の創設に向かったのである。しかしながら、戦時という中、学生募集も思うように進まず、まだ、徴兵、勤労動員により学生が召集され、最終的に学生数がゼロとなる危機に陥ることになるのである。

 

 上野の苦悩は続くものの、昭和20年の終戦により、米国を中心とする連合国の管理下に入り、学校再開に向かうことになる。さらに、戦後初代の人事院人事官に就任することにより日本の公務員制度の構築、公務員の教育研修制度の確立に向けて動いていくことになる。人事院人事官の就任には、戦前の友人であった故ギルブレス夫妻のリリアン・ギルブレスのGHQに対する強い推薦があったと言われている。公職への就任は、その後、日本初の短期大学の一つとなる産業能率短期大学の認可に大きく影響していると言われている。

 

 昭和241015日付で文部省から認可がおりた学校法人産業能率短期大学は、他の148校とともに短期大学となる。学科は、能率科第二部(生産能率専攻・事務能率専攻)である。しかしながら、設備、資金、教員組織等により夜間部(Ⅱ部)だけの短大となる。この夜間部だけの設置ということが、社会人向けのビジネススクールとして後に開花することになるのである。

 設立当時のカリキュラムを見ると、現在のビジネススクールに近い科目構成となっている。

 

[1] 日本能率学校は、教室、寄宿舎、食堂、農場等で構成されていた。そこでの学生の生活は、朝6時太鼓(上野陽一記念文庫に「能率太鼓」として保存)を合図に起床、顔を洗った後仏壇のある二階で思い思いに30分間静座、その後日によっては上野陽一より仏教や禅の講話。それから道場の掃除をし、8時に一階の食堂に集まり唱え言葉を唱えて朝食。9時から講義を聴き、昼食後は講義、畑仕事または社外実習、5時半夕食、9時太鼓とともに就寝といったのが平均的な一日であった。「上野陽一記念文庫案内」 産能短期大学図書館 1996.7.5より 

[2] 「上野陽一記念文庫案内」12ページ 産能短期大学図書館 1996.7.5


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする