人生の目的は音楽だ!toraのブログ

クラシック・コンサートを聴いた感想、映画を観た感想、お薦め本等について毎日、その翌日朝に書き綴っています。

岡田暁生著「よみがえる天才3 モーツァルト」を読む ~ 『悲しいけれどうれしい』『うれしいけど悲しい』音楽を作曲した唯一の作曲家の魅力に迫る

2021年01月29日 07時22分43秒 | 日記

29日(金)。昨日、Dソンの新しい電気掃除機が届いたの組み立てて充電しました 旧Dソンは弱と強の2段切り替えでしたが、新Dソンは3段切り替えになっているところがメリットです 旧Dソンは着払いで引き取ってもらうよう宅配便業者に出しました あとは新機種の実力発揮を待つだけです

ということで、わが家に来てから今日で2311日目を迎え、国際オリンピック委員会(IOC)のトーマス・バッハ会長は27日、感染拡大で懐疑論が広がる今夏の東京五輪・パラリンピックに向け、中止や再延期を否定したうえで「どんな対策を講じるかの情報は、どうか辛抱して待ってほしい」と日本国民や選手ら、すべての関係者に理解を求めた  というニュースを見て感想を述べるモコタロです

 

     

     どんな結果になっても  勤勉な日本人は我慢してくれる と思っている節はないか?

 

         

 

昨日、夕食に「豚バラ大根」と「ブロッコリとトマトのサラダ」を作りました   あとは大根の葉がもったいないので湯がいて削り節をかけて「お浸し」にしました

 

     

 

         

 

岡田暁生著「よみがえる天才3 モーツァルト」(ちくまプリマ―新書)を読み終わりました 岡田暁生は1960年、京都生まれ。京都大学人文科学研究所教授。「オペラの運命」でサントリー学芸賞を受賞。音楽関係の著作多数 当ブログではつい先日「音楽の危機 『第九』が歌えなくなった日」(中公新書)をご紹介したばかりです

 

     

 

本書は「はじめに」と次の15章から構成されています

第1章「モーツァルトの比類なさはどこに?」

第2章「『天才君』の栄光と悲惨」

第3章「『ある』と『なる』・・・天才の2つのありよう」

第4章「失意は天才少年の宿命」

第5章「教育パパの呪縛は結婚で断つ」

第6章「『天才』とは何か」

第7章「フリーになるということ」

第8章「芸術家と実人生」

第9章「美の冷酷さについて」

第10章「実存の不安と『まあこんなものか・・・』の希望

第11章「『ところで』の奇跡」

第12章「流麗さについて・・・モーツァルトの作曲レッスンを受ける」

第13章「晴れた日のメランコリー」

第14章「モーツァルトは神を信じていたか?」

第15章「幸福な阿呆に神は宿る」

著者は「はじめに」の中でモーツァルトについて次のように述べています

「桁違いの才能に恵まれて生まれてしまったことを除けば、彼は多くの点でそれなりに普通の人生を送ったのではないかと思う 親子関係や恋愛や結婚をめぐるわずらわしさと夢と失望、金の工面の苦労と自分の職へのプライドと努力、人恋しさと意地悪さとウィット、野心と諦め、そして死への恐怖・・・すべて誰もが何かしら経験することである それを彼は宝石のようにきらめく音楽で表現した この本で私は、モーツァルトの音楽の何がそんなにも天才的なのかを、できるだけ具体的に説明しようと思った また『人間としてのモーツァルト』を、出来るだけ身近なものとして描こうとした

モーツァルトの音楽の本質を端的に表しているのは第1章「モーツァルトの比類なさはどこに?」の中の次の文章です

「いうまでもないが、私たちの感情生活には『雲一つない快晴』も『土砂降り』も滅多にない たいがい私たちは『晴れ時々曇り』と『曇り時々雨』の中間を生きている モーツァルトが比類なく優美に音にしたのは、まさにこのファジーな領域だ。カッコいい名曲、ハイにしてくれる名曲、悲しい名曲は数多い。しかし つかみどころのない『悲しいけれどうれしい』や『うれしいけど悲しい』を作曲し得たのは、音楽史でただ一人、モーツァルトだけである

そして、「『楽しいのに寂しい』例としてただ一つ挙げるとすれば」として「ピアノ協奏曲 第25番 ハ長調 K.503」の冒頭を挙げています

「第1楽章は、壮麗としかいいようのない輝かしい全楽合奏で始まる 力にみなぎり、歓声に包まれて、待ちに待った胸躍る時間が始まる・・・しかし ものの30秒もしないうち、潮が引くように全楽合奏の歓呼は遠のき、さきほどまで光輝いていた太陽の前を雲が通り過ぎ、音楽に影が差し込む 短調の木管の短いパッセージがそれだ。このかすかな不安は瞬く間にただならぬ胸騒ぎとなって、いてもたってもいられなくなったかのように、ヴァイオリンが短調で駆け出していく 『あの人はどうしている? 大丈夫だろうか・・?』ーそんな不安に音楽がとらえられる だが程なくして安堵が訪れる。『ああ・・無事でよかった!」といわんばかりに、今度こそ一点の曇りもない歓喜が爆発する 音楽は冒頭にも勝る力強さでもって幸福を歌い上げる。祝典は果てしなく続く。ここまでわずか1分 なんという感情の陰影、なんという速度、なんという流麗

実際にCDで聴いてみると、著者の解説が手に取るように分かります 著者は巻末で「これだけは聴きたいモーツアルト名演奏」として9つの名曲を紹介していますが、この曲についてはダニエル・バレンボイムのピアノ独奏、オットー・クレンペラー指揮ニューフィルハーモニア管弦楽団によるCD(1967年録音)を挙げています

 

     

 

第4章「失意は天才少年の宿命」の中では、音楽の表現内容の点で、それまでになかった『大人の男の顔』が表れている音楽の例として「セレナーデ ニ長調K.320(ポストホルン・セレナーデ)」の第5楽章「アンダンテ」を挙げています この曲はパリへの就活旅行がうまくいかず、悄然とザルツブルクに戻ってきてた1779年に書いた作品です

「素晴らしく壮大な第1楽章の序奏は、翳りをみじんも感じさせない そしてテンポが速くなってからの力にみなぎった疾走。これまでモーツァルトはこれほどまでに骨太な音楽を書いたことはなかった。底抜けに明るく、人生の成功への圧倒的な自信をみなぎらせる青年が、ここにはいる ところが、この翳り一つない青空は、5楽章で突如として死の闇に覆われる ここで描かれているのは墓場の音楽だ。『ドン・ジョバン二』の地獄落ちの場面に酷似した、渦巻くようなヴァイオリンの不気味な音型が出てくる。パリでの母親の死のことが脳裏によぎったか?」

そして、「さらにもう一つ、『ポストホルン・セレナーデ』にはモーツァルト固有のきわめて特徴的な筆運びが見られる」として、次のように書いています

「生と死が交錯する様の、唐突といいたくなるような急旋回である 死臭のする5楽章の後、まるで何ごともなかったかのように、6楽章で音楽はふたたび壮大な生の歓びに立ち戻るのである そしてフィナーレの7楽章では傲慢なまでに奔放な生の賛歌が歌い上げられる

この曲も、実際にCDで聴いてみると著者の言わんとするところが良く理解できます もっとも 著者の指摘を待つまでもなく、「光と影の交錯」はモーツァルトの音楽の大きな特徴です   

著者はこの曲の名盤について、ジョージ・セル指揮クリーヴランド管弦楽団による演奏(1969年録音)を挙げています 私はかねがねこの演奏こそベストだと思っていたので嬉しく思いました

 

     

 

第6章「『天才』とは何か」の中で、著者は次のように書いています

「大司教に対するモーツァルトの不遜とも思える態度を見ても、彼が『自分は特別』と思っていたことは明らかだろう モーツアルトは自分の才能を確信していて、ウィーンに行きさえすれば、勤め人にならずとも、多くの仕事を直接とれると考えていた。今風にいえば、『フリーでやっていける』と思った ただし、大司教との大喧嘩や父親の無理解を、『世間の凡人に天才の価値はわからないものなのだ』というストーリーに押し込めてしまってはいけない ある意味で大司教も父親も当時としては当然のことをし、当然のことをいっただけなのである。つまり18世紀において音楽家は仕立て屋や料理人と同じ『職人』、つまり勤め人として頼まれた仕事を為すものであった 勤め先はたいてい教会か宮廷と決まっていた。『自分を表現する』といった発想はほとんどなく、重要なのは何より、頼まれた仕事をきちんとすることだった 『アート』という言葉には2種類の意味がある。『技(技術)』と『芸術』だ。『職人芸』が近代に入って われわれが考える『芸術』へと転義されたと考えていいだろう     では『職人』と『芸術家』の違いとは一体何だろうか?   簡単にいえば、それは『署名』の有無である。作曲家が『芸術家』になったのは19世紀、ベートーヴェン以後のことである。ベートーヴェンは特定の貴族や教会に一度も奉公しなかったし、もちろん何人もの有力貴族のパトロンはいたにせよ、そのありようは従来の正反対で、ベートーヴェンは貴族たちを自分のパトロンとして奉仕させたのだともいえる     勤め人にもならず、『オレの音楽』だけでフリーとして食っていけた最初の一人、それがベートーヴェンだった。モーツアルトは1756年、ベートーヴェンは1770年の生まれだから、モーツアルトはベートーヴェンよりおよそ1回り人生の先輩だったということになる     この差は非常に重要で、モーツアルトはまさに音楽家が職人から芸術家になる、ちょうどその過渡期の人だった。『フリーの芸術家』という可能性にいち早く気づき、しかし少し世に生まれるのが早過ぎた人、それがモーツァルトだ

著者のこの見解について、私は若干違うのではないか、と思います 正確に言えば、モーツァルトは「生まれたのが早過ぎ、死ぬのが早過ぎた」(35歳で死去)から、ベートーヴェンのように本格的な「芸術家」として活躍できなかったのだと思います

第11章「『ところで』の奇跡」の中で、著者はモーツアルトの義妹ゾフィー・ハイベル(コンスタンツェの妹)の回想を紹介しています

「あの人はいつも機嫌のいい方でした。でも一番機嫌のいいときでもどこか沈んでいて、人の目をじっと見つめているかと思うと、ふざけた質問だろうがまじめな質問だろうが答えを考えているようにみえるのですが、それでいてまったく別のことをまじまじと考え込んでいるのです

この回想について著者は次のように書いています

「この回想を読むたびに私は、『モーツァルトは2重の時間のなかを生きていたのだ』という思いを強くする ふつうの人間は単一の時間を生きていて、その流れのなかで悲劇や喜劇が起きる。だからこそ そこには移行がある。つなぎがある。しかしモーツァルトの音楽が前提としているのは、生と死という2つの時間のコラージュ的な交錯だ いつも2つの時間が流れていて、それらの前景/後景の関係が何かのはずみでいきなり反転するのである

そして、音楽の気分が予告もなく一変する例として『幻想曲 ニ短調 K.397』を挙げています 実際にCDで聴いてみると、人の顔の表情が目まぐるしく変わるような印象を受けます 急な転調の為せる技ですが、この曲の演奏について著者は「多くの演奏は最初からていねいに作り込み過ぎている。『先のことなんか何も考えていない』というフリをして弾かねばならない」と書いています。なぜなら「これは『幻想曲』であり、モーツァルトの時代にあって幻想曲とは『即興曲』のことだったのだから」としています

著者はこの曲の演奏としてフルードリヒ・グルダによるライブDVDを名演奏として挙げています 私は持っていないので内田光子によるCDで聴きました

以上、私が「これだけは」と思った章を中心にご紹介してきましたが、まだまだ興味深い章はたくさんあります 是非、本書を手に取ってお読みになることをお勧めします

ちなみに一昨日(2021年1月27日)はモーツァルトの265回目の誕生日でした このブログを書くに当たり、この数日間は 上の文章に登場した音楽を中心に何曲かまとめてモーツァルトを聴きました モーツァルトは何を聴いても天才を感じます

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