「愛情なくして教育なし」

2016年10月17日 22時20分27秒 | 社会・文化・政治・経済
★「平和だから文化運動をするのではない。平和のために文化運動を断行するのだ」
★「地を離れて人無く人を離れて事無し」吉田松陰
★風土が人間を育む。
★「慈愛、好意、友誼、親切、真摯、質朴等の高尚な心情の涵養は郷里を外にして容易に得べからざることや」
★「恩師の小生に何たる因縁ある事ぞ、ああ、奇縁なるかな、親の情もかくまでに深くあらざるべし」野口英雄の小林栄先生に対する報恩の念。
★「教育とは人格です。実際の授業よりも、多分むしろ教場外で知らず知らずのうちに、人格が教育を施すのです」
歴史学者・朝河貫一
★誠に教育とは、人格と人格の触れ合いであり、魂の共鳴に他ならない。
★「愛情なくして教育なし」
★「教育は子どもの幸福のためにある」
★戦前の日本は「戦争のための教育」を推し進めてきた軍部政府。

書くことは自分を成長させる

2016年10月17日 18時52分32秒 | 社会・文化・政治・経済
★支持者からの要望や声をどう政治に反映させるか。
その役割を果たすのが、政党の存在意義の一つである。
★「作文が苦手」という子どもが少なくありません。
しかし、自分の思いを言葉にし、書き残すことは、子ども自身の成長につながります。
児童文学作家の漆原智良(ともよし)さん
「書くこと」は、自分自身を成長させる行為でもあるのです。
さらに、書いたものを発表し、相手から内容を指摘され、批評されることで、「そういう考えもあったのか」と、ふと立ち止まって、自分の思い・考えを反省させられることにもなります。
私は、すでに傘寿を越えました。
しかし、絶えず「今、何を書かなければならない」と考えて行動しています。
すると、気力も衰えず、どこからともなく自然に言葉が湧きだしてくるのです。
書くことは、生きる活力の一つにもなっています。
「言葉で表現する」とは「言葉と生きていく」ということでもあり、仲間と成長していくことにもつながります。

現代人にも強い改革のメッセージ

2016年10月17日 15時38分00秒 | 社会・文化・政治・経済
家人にとっては、米国のシンガーソングライターのボブ・ディランさんの今年のノーベル文学賞は意外というより、「なんなの?歌手じゃないの」と違和感があったようだ。
作詞が詩であり文学の一部であることは、当方として肯定したい。
歌手なら別の賞があるはず。
そんな想いも否定派には共通するものだろう。
スウェーデン・アカデミーは授賞理由を「米国の歌の伝統において新たな詩的表現を創造した」と説明した。
西欧では概して詩人の評価が高く、第1回文学賞もフランスの詩人に与えられた経緯があある。
その先例にならえば、ディランさんの受賞は原点回帰とも受け取れる。
古代ギリシャの詩人のホメロスを引き合いに「彼らは人々に聞かれることや演奏されることを前提に詩を書いた。ディランさんも同じやり方だ」とアカデミーは称賛した。
「ボブ・ディランンがいたから今日があるような気がする。多くのことがそこから始まったと思うのだ」
聖書などあらゆる言葉を歌詞に生かし、新たな文学性を切り開いてきたディランさんは、正に「口語で表現する偉大な詩人」アカデミーの評価。
多くの問題を抱えながら、社会を改革しようと人々が苦闘した時代にディランさんはデビューした。
それから54年の長きわたり新しい創造を続ける姿は、現代人にも強い改革のメッセージを投げかけている。
毎日新聞社説

「わたしはべつのだれかである」

2016年10月17日 15時14分41秒 | 社会・文化・政治・経済
★「よく詩を書いていた。詩人には働き口がないから心配だった」。
かつてこう語っていたのはボブ・ディランさんの母親のビーティーさんだった。
高校ではバンドに熱中していた息子だが、親はそれを「働き口」とは思わなかったらしい。
★1962年ごろから急に自分の歌う曲に熱中しだしたのは「自分の歌いたい曲はまだ存在していないことに気づいたからだった。
★フランスの詩人ランボーの「わたしはべつのだれかである」とい一節を目にして、頭の中の鐘が「一気に鳴り始めた」のだった。
★そのころ仲間とビールを飲みながらの演奏の後、家に帰ってきて一気に書き上げたのが「風に吹かれて」だったといわれる。
★「どんなレッテルを貼られてもかまわない。歌うためならね」ディランさんの言葉である。
毎日新聞「余録」

祖父のような道楽者

2016年10月17日 14時49分04秒 | 創作欄
利根輪太郎は懲りない男であった。
200万円のサラ金の借金を母親に穴埋めしてもらって、1年後、再び競馬に負け続け、今度は300万円の借金をしていた。
困り果てて、母親に再び泣きついたのである。
今度も母親は怒らなかった。
「本当に、これだけかい。もっと借金あるんじゃないの。あったら直ぐに払うんだよ」サラ金からの督促状を見て言う。
「競馬なんか、もうよしなよ。いいね」
優しい母親の言葉に、「申し訳ない」と輪太郎は涙ぐんだ。
それにしても、息子に甘い母親であった。
箪笥から郵便貯金通帳と印鑑を出して、居間のテーブルに乗せた。
「お前のために、母さんが積んで置いたんだ。いいね。大事に遣うだよ」
1700万円の金額に利根輪太郎は目を見張った。
「これで、救われた」利根輪太郎は小躍りしたくなってきた。
道楽ものであった母の父は芸者遊びをしてしばしば家を空けていた。
4人姉妹の末である信恵が迎えに行くと父親は信恵の手を引いて家へ戻ってきた。
祖母は目を細めて「道楽親父も、信恵には弱いだね」と相好を崩した。
信恵の母親は心が優しく夫の道楽を大目にみていた。
利根輪太郎は祖父のような道楽者であった。
昭和56年の暮れを輪太郎は何とか無事乗り切ったのだ。
300万円もの借金で眠れぬ夜を過ごしてきたのだ。
サラリーマンにとって、サラ金の300万円の鉛のような重い借金。
会社にかかる電話や督促状は脅迫観念になり、生き地獄のような日々であった。
サラ金3社の借金であったのだ。

気風がいい

2016年10月17日 12時13分22秒 | 創作欄
競輪で借金を負った以上、競輪で取り返す以外ない。
サラ金を借りる人間の安易な行動パターンである。
年率48%もの高利で借りたのだから、短期で返済しなければならない。
宮田虎之助は焦っていた。
そこに助け舟を出した利根輪太郎は、同じような体験をしてきた。
過去にサラ金で200万円借金をした時は、最終的に母親に泣きついたのだ。
「バカだね。私に借りれば、そんな高い金利払わずにすんだんだよ」
幼いころから一人息子に甘かった母親が、怒りもせず200万のサラ金の穴埋めをしてくれたのだ。
「お父さんには内緒だよ。30歳にもなって独身なんて、私は肩身が狭いよ」
母親は近隣に住む知人や友人の息子たちが20代で結婚し、子どもを既に育て家庭を大切にしていることを愚痴のように告げて溜息をついた。
「お前の職場には、いい子居ないのかね」
輪太郎は苦笑し、いつものとり曖昧にしていた。
「輪ちゃんは気風がいいね。俺が女なら惚れていたよ」虎之助は真面目な顔で言う。
「気風がいいとはどんなことなのだろう?」輪太郎は宮田虎之助の娘の芳子に惚れられることがあるだろうかと想ってみた。

10月桜

2016年10月17日 07時09分38秒 | 日記・断片
昨日は、林さと午前9時30分過ぎに待ち合わせをして利根川の向こうの小掘(おおほり)の赤峯宅へ行く。
今回の参加者は6人、帰りに連絡に言ったら、小掘地区の責任者の井野さんが自宅にいた。
会合へ参加しなくなると惰性になるようで、姿を見せない。
植木関係のアルバイトをしている。
責任者としての使命、責任の自覚の問題である。
面倒なことを回避し、楽をしたいのは人間の常、責めることはできない。
本人の心、意思次第。
午後7時20分の待ち合わせで、富田さんと取手文化会館へ行く。
会合でのビデオでは、作詞で参考になった。
満月が煌々と輝いていた。
だが、今朝の取手は午前4時30分、起きたら雨だった。
昨日の夕方、瓢箪を二つつなげたような異形の黒雲が東の空に見えた。
その雲をカメラで写そうしたら、電線、電信柱が邪魔だ。
歩いて行ったら2階家や本願寺の屋根で雲が見えなくなる。
写すのを諦めた。
西の空を見ると、白い雲の下に小山を連ねたような黒雲が見えた、これも異形であった。
夕陽が傾き、白い雲が茜色に染まっていくが、黒雲は黒雲のまま不気味な感じがした。
ところで、昨日の午後4時ころ井野天満宮で家人の友人の高見さんに会う。
手に1㍉ほどの紫色の実がついた枝と10月桜の枝を持っていた。
「旅行は行ってますか?」と聞く。
「90歳になる母を介護しているので、旅行へ行きたくとも行けません」と言う。
「奥さんに一月に1回会ってますが、何時もげんきですね」
「そうですね、バイクで飛び回ってます」
御主人は上野動物園の専属カメラマンをしていたが、退職後が旅行をしているようだ。
「今日は、北海へ釣りに行っています。鮭を釣りに」
「鮭ですか」その光景を想像してみた。
10月桜を映して帰る。
絵を画いている85歳の菅野さんに会う。
介護士らしい60代と想われる男性が付き添って散歩をしていた。
同じ道を通れば、同じ景色しか見えない。
遠回りして普段歩かない道では意外な出会いもあるものだ。
また、車に乗っている人には見えない花も見ることができる。
家人の海老原さんかもらった自家製の梅酒を3倍飲む。
「砂糖がたくさん入っているのだから、3倍は飲み過ぎ」と家人が止めるが、「どうせ、死ぬんだから、今更」と逆らい4杯目を飲む。
日本酒がまずくなり、コーラやカルピスで酒を割っている。
晩年の父が「日本酒が苦い」と言いだしだ、同じ状況となる。
1年後に父は風呂で死ぬ。
84歳、心筋梗塞であった。