普段見かけない娘さんや息子さんの姿

2016年10月21日 23時14分14秒 | 日記・断片
今朝は目覚めたら5時15分、家人がパートの仕事に出掛ける時間帯になっていた。
散歩から戻ってきた土屋さんに通称・クリーンベルトで出会った。
「どうしているのか、と思っていた」と言う。
実はしばらく会わないので、当方も土屋さんは「元気なのか」と想っていたのだ。
「酒もあまり飲めなくなったし、体調はようないね」と彼が言う。
「坂を登ると息切れがするんです」
「お互い、弱ってくるね」
彼の奥さんは社交ダンスをしており、若々しい感じである。
どうやら、血管にコレステロールが溜まっているようなのだ。
改善に努めたい。
空は明るくなってきたので、久しぶりに利根川の堤防まで行き日の出を見ることにした。
午前4時台に起きて散歩へ行っているので、ほとんど最近は日の出を見ていない。
日の出は特別の感情を抱かすものだ。
生命が躍動するように感動を覚えた。
時間が6時台になると、普段見かけない娘さんや息子さんの姿を見る。
「秋田さんには、娘さんが居たんだ」と認識した。
独り住まいとばかり思い込んでいた山田さんには二人の息子さんが居たことを知る。
午前6時50分に散歩から戻る。




















車券師・東剛志は豪快な遊び人

2016年10月21日 22時54分57秒 | 創作欄
競輪仲間の津島恭介が首をつって死んだ。
宮元武蔵は「バカな奴だ」と吐きすてるように言った。
自殺する人間、無理心中する人間は、究極的に自分のことしか考えられないのだ。
「人に頼られ、求められる人間になりたいものだ」武蔵の信条である。
武蔵にとって、競輪は生活の一部であるが、全てではない。
「時間潰しのようなものだな」とも言う。

生命の奥低から、生きる力を引き出して、「偉大な人間勝利」のドラマを描いて生きたいものだ。
40代になった利根輪太郎は、このままの人生でいいのか、と懐疑的になっていた。
輪太郎は、東剛志が67歳の若さで逝くは、夢にも思っていなかった。
とても落胆した。
「偉大な人間勝利」のドラマを東剛志とともに描きたいと願っていたのだ。
東京芸大の大学院まで学んだ一人娘の典子の個展のために東は助成してきた。
東に誘われ、銀座での典子の個展に5度ほど輪太郎は足を運んだ。
帰りには銀座の高級クラブに東から接待された。
「死んだ女房に、苦労ばかりかけたんで娘の面倒を見るのは義務のようなのだ」東が心情を吐露した。
自衛隊時代の東は全国各地に単身赴任していた。
防衛大学時代に高校生であった大曽根幸子と出会い、3年後に東は結婚した。
常に「サチコ」をクラブで歌う東であった。
「利根君も何か歌え」と東が言うので「時代おくれ」を輪太郎は歌った。
赤坂や六本木のクラブにも接待された。
車券師・東剛志は豪快な遊び人であった。

文化の振興を置き去りに

2016年10月21日 22時01分10秒 | 社会・文化・政治・経済
音楽は、人間の豊かな感受性を磨き、心身に癒しや刺激を与えてくれる。
ピアノの調律が一度きりでは効果が出ないように、音楽による“魂の調律”も、何度も施す必要がある。
音楽は人の心の琴線に触れ、その都度、躍動の曲を生命に響かせてくれる。
音楽は、言葉で表しがたい表現してくれる。
文明が発展そ、人類の課題は解決されていくと思いきや、むしろ問題は増えているように思われる。
経済の発展を優先し、文化の振興を置き去りにしていまったことが「一因」である。
生命のリズムと世の中のメロディーが響きあわず、人に悪い影響を与える音楽が、横行しているように思われる。
今の社会は、ほんの少しバランスが崩れると、人間性が失われる危うさをはらんでいる。
そういった中にあって、人を平和へと導く旋律、人間愛を訴える響き、団結を呼び掛ける歌などが必要とされている。
「平和の調べ」を演奏するには、自己の中を平和の思想で満たさなければならない。

慈悲・忍耐・智慧

2016年10月21日 21時33分07秒 | 社会・文化・政治・経済
★核兵器は最悪の兵器である。
その根源にあるのは、他者の人間性と生命の尊厳の完全否定である。
★核兵器の使用を前にして、神も無力。
人間の善性を信ずる他ない。
人道の問題に帰着する。
★美徳も己の内に止まれば無に等しい―シェークスピア
★心に羅針盤があれば「人生は強気でいける」
★学校以外の多様な“学びの場”を確保することは、今や焦眉の急。
フリースクールや夜間中学。
小中学生の不登校児生徒は全国で約12万3000人。
全体の1・21%に相当(平成26年度の統計)
★そもそも子どもの特性や家庭環境が多様なのだから、それに応じた学びの場があってしかるべきだ。
★全ての学習はそれに元気と悦びとが伴わなくなれば1文の価値もない―教育者・ペスタロッチ
★既存の教育の枠組みや価値観に固執するあまり、子どもから「元気」と「学ぶ喜び」を奪っては、いったい何のための教育か。
★「場」をつくるのは「人」である。
豊かな境涯から発する慈悲・忍耐・智慧をもって、子どもたちに“安心と学びの場”を提供できるかどうかである。