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人間の内発的な力の開花

2016年10月29日 13時45分41秒 | 社会・文化・政治・経済
寛容の精神

★「寛容」の精神を世界に広めていくことが重要だ。
「寛容は“他者に尽くす”なかにある。寛容は“共生の積極的なかたち”である」
「寛容とは、他者との対話であるとともに、自己との対話だ。自分は偏見に囚われていないか、利害に囚われていないか、そう自分自身に不断に問いかけることだ」
★いじめは、人間の劣化の表れた。
大人が劣化しているので、子どもまで劣化している。
★人間の偉大さとは絶えず自己を再創造することだ。
★勝負は常に今ここから。
諦めの心を制し栄光をつかむことだ。
★人材の育成は、苦難の戦いのなかで築かれる。
★人生は聡明に朗らかに歩むもの。
★幸福と平和の実現には、たゆまぬ社会貢献が必要。
私たち一人一人が努力を開始することで、その輪は家庭や地域、そして世界へと広がっていくはず。
★人間の内発的な力の開花と教育の価値向上を。
★子どもの無限の可能性を引き出す、人間教育を期待。

若者はなぜ恋をしないのか?

2016年10月29日 13時23分52秒 | 社会・文化・政治・経済
恋をしない若者が増えている。

過去にない特異な状況

恋愛への欲求や憧れも低い


交際相手のいない未婚者(18~34歳)が男性約70%、女性約60%。
一方、いずれは結婚しようと考える未婚者は男性で約86%、女性は約90%。
今から約60年前は、お見合い結婚が全盛時代で、多くの人は恋愛結婚に憧れながらも、現実にそのような機会はなかった。
約30年前のバブル経済期は、結婚せずに恋愛を楽しむ風潮が強かった。
その意味で、恋愛をすっ飛ばして結婚を望むのは、特異だと言わざるを得ない。
若者が恋愛を敬遠する背景は?
一つは、国民の生活が豊かになって結婚生活のハードルも上がったことで、結婚相手の選別が進んでいる点だ。
日本では、結婚後は男性が主に養うと考え方が今根強い。
このため、恋愛の結果としての結婚より、経済的に安定した生活営むことを優先した結婚を望む傾向が特に女性に強い。
しかし、男性間の経済格差は広がっている。
それゆえ、結婚に至らない相手を恋愛しても無駄面倒と捉える若者が、女性だけでなく男性にも増え、気軽に恋愛しない状況になっている。
安定を求める女性は収入の低い男性との交際を「時間無駄」と考え、男性側も「交際しても結婚は断られるに違いない」として、経済状況が厳しい人ほど諦めてしまう。
恋人がいる割合も、年収に比例して低下している。
若者の性的欲求の減退も影響している。
性関係に嫌悪感を抱いている人も増えている。
恋愛に対する意欲の有無が一番の問題だ。
中央大学文学部・山田昌弘教授

乳幼児の窒息死 5年で160人

2016年10月29日 12時48分27秒 | 社会・文化・政治・経済
「うつぶせ寝」など注意

不慮の事故による死亡は計502人(消費者庁の調査)
顔がマットレスに埋まる(33人)
掛け布団などの寝具が顔を覆う・首に巻き付く(17人)
ベッドと壁の隙間に挟まれれる(13人)
原因不明の死は81人いた。
柔らかい敷布団や枕は、うつぶせ寝になると鼻や口をふさがれて窒息する危険があるという。

金、くらいで死ぬなよ

2016年10月29日 07時08分01秒 | 創作欄
生命を奪いに来る「死霊」「死魔」に支配され、取り殺される。
そこからの脱出は可能であるはず。
「金、くらいで死ぬなよ」と宮元武蔵はパチンきの近藤啓太に言った。
啓太はパチンで生活費を失うと「死にたい」と愚痴をこぼしたが、本当に死を望んでいたわけではない。
自らの愚かしさを自嘲したのである。
「パチンコ止めて、競輪に転向したらどうか」と居酒屋で促したが「競輪には全然、興味ないんだ」と頑なである。
武蔵も若い頃、パチンコにはまっていた。
だが、競輪の面白さを知ってから、以降は一度もパチンコ屋へ足を向けることはない。
啓太が死んだのは、競輪グランプリの前日であった。
パチンコで大当たりして、携帯電話で伝えてきたので「年を越せるな」と武蔵は揶揄した。
「久しぶりに20万円も儲けた」興奮で声が上擦っていた。
だが、不運にも自転車で走行中に背後から来たトラックに跳ね飛ばされたのだった。
運転手は携帯電話を操作中で、前方不注意であった。
運転手は48歳の小杉朝生。
小杉は武蔵に電話をかけようとしていた。
競輪グランプリの予想を武蔵に聞こうとしていたのだ。

特攻作戦にも反対

2016年10月29日 06時23分25秒 | 社会・文化・政治・経済
★昭和天皇の末弟の三笠宮崇仁さまは、支那事変の日本軍犯罪を直視し厳しく反省を求めた。
日本人の「侵略搾取思想」や「侮華思想」「日本軍の暴虐行為」を批判した。
「私の信念が根底から揺り動かされたのは(中国での)この1年間だった。いわば『聖戦』というものの実体に驚きはてたのである」
と戦後になってからの当時の回想である。
特攻作戦にも反対し、終戦時も皇族会議で陸軍の反省を求めた。
日本が侵略戦争の迷路をさまよった時代、皇族でなければできない軍国主義批判を自らの背に課した三笠宮さまだった。
92歳の年でも、護衛も付けず1人で外出していた。
「三十になってたった一人で町をあるく楽しみをはじめて知ったわたしは、運命のふしぎをかみしめながら、だれにも気づかれずにコツコツと町をあるいてみたものである」
「楽しみ」は92歳になっても続いた。
戦後は東京女子大学などで長く講師を務めたが、一般人とバス通勤した。