インプラントはなぜ周囲炎になりやすいのでしょう

2017年11月12日 14時34分34秒 | 医科・歯科・介護
こんにちは!吉田歯科診療室の吉田格です。

Blog:歯界良好にてすでにお伝えしておりましたが、私吉田は趣味の音楽を18年ぶりに再開いたしました。
https://y-dc.blogspot.jp/2017/06/blog-post_25.html

その後、地味に練習をしておりましたが、このたび復活ライブなんてことをやってしまいます。吉田のぜんぜん違う顔を見たい方、ぜひいらっしゃってください。詳しくは下記より(^_^)
https://y-dc.blogspot.jp/2017/11/129.html


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1・インプラントはなぜ周囲炎になりやすいのでしょう
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吉田歯科診療室が力をいれているのが「インプラント周囲炎」の予防と治療です。

サイトにはそれらの情報がたくさん挙がっているのですが、そもそもなぜインプラントは周囲炎になりやすいのか、治療が難しいのか、という説明がありませんでした。

で、作りました。ちょっと長いですが。

https://www.y-dc.org/wp/information/root-cause-implantitis

インプラントは自分の歯に見せかけた人工物、中身は歯とはいろいろ違います。メンテナンスも同じつもりでいてはダメなんですね。

これは全インプラント使用者に知っていただきたい、とっても重要な話です。長く快適に使うために、ぜひお読みになってください。


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2・11月11(土),12(日)は東京デンタルショーへ
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久しぶりに東京デンタルショーでお話をします。

今週末の土日、11/11,12、場所は東京ビックサイトです。私はオサダさんのブースで、土曜日一回・日曜日二回、半導体レーザーについて30分のお話しをいたします。

https://y-dc.blogspot.jp/2017/11/111112.html

入場は無料、特に歯科関係者でなくとも入場は可能です。

歯科の展示会って、どんななの?って覗きにきてみませんか?


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3・情報ピックアップ
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A・みんながハマる!?つけおきするだけでお風呂場を簡単にピッカピカにする方法《ウチコト》
 http://tg-uchi.jp/topics/961
…重曹って、かなり使えるんです。診療室でも使わないとです。

B・切り方・調理で大違い 栄養を100%採る野菜の食べ方《日経スタイル》
 https://style.nikkei.com/article/DGXMZO22307110W7A011C1000000?channel=DF260120166503
…ただでさえ少ない栄養、それをいかに効率良く食べるか、様々な工夫が紹介されています。

C・銀座線、幻の2駅ライトアップへ 開業90年の「証人」《朝日新聞》
  http://www.asahi.com/articles/ASKB076SBKB0UTIL06M.html?iref=comtop_8_06
…毎日銀座線を使っている者としては、とても嬉しいです。神宮前駅ってホントに見えるんですヨ

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4・このメールニュースをお友達に教えよう
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メンテナンスを標榜する唯一の歯科医療機関である私たちは、健康情報を積極的に発信して行きたいと思っており、このメールニュースもその一環です。ぜひお友達にも教えてあげてください。読者登録はこちらからお願いいたします。→http://urx.mobi/yB7L


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産業まつりのことも話題となる

2017年11月12日 12時51分33秒 | 日記・断片
久しぶりに、小堀(おおほり)の赤峯宅での支部会合へ行く。
午前8時40分ミスターマックスの東口前から、車で向かう。
寒い朝であったが、快晴。
昨夜(午後1時)の突風も止んでいた。
その時間帯にレモンのチュウハイをビッグAに買いに行く。
ビールを午後7時に飲んだが、また、アルコールが欲しくなったのだ。
化学療法中は、ビールを飲み残したり、日本酒もまずいし、チュウハイも敬遠してきたのに、今は何でも飲めるようになる。
<アル中路線に戻った>と自嘲する。
「顔色いいね」と会う人たちから言われるが、アルコールが残っているだけなのだ。
会合後、お茶会となる。
ミカン、梨、キウイ、お団子、煎餅などをいただく。
毎回のことで恐縮である。
産業まつりのことも話題となる。
林さんも参加していた。
11時、10時などのブロック会合が予定されていて、途中(9時30分ころ)で帰る人や欠席者もいて、今日の参加は8人。
帰宅後、11時からの地区の会合へ向かう。
こちらの会合も8人であった。
昔話も出た。
「ああ、あのころはそうだった」と当時を思い起こした。

11月11日(土)のつぶやき

2017年11月12日 03時31分12秒 | 医科・歯科・介護

憧れの作家吉屋信子

2017年11月12日 00時51分27秒 | 創作欄
吉屋 信子(1896年(明治29年)1月12日 - 1973年(昭和48年)7月11日)は、1920年代から1970年代前半にかけて活躍した、日本の小説家である。
新潟県新潟市にあった新潟県庁官舎で生まれた。
栃木県で少女時代を過ごす。
父・雄一は下都賀郡長を務めた人物であるが、頑固な男尊女卑的考え方を持っており、信子は内心反発を感じていた。
真岡から栃木市に移住、栃木高等女学校(現栃木県立栃木女子高等学校)に入学した際、新渡戸稲造の「良妻賢母となるよりも、まず一人のよい人間とならなければ困る。教育とはまずよき人間になるために学ぶことです。」という演説に感銘を受け、そのころから少女雑誌に短歌や物語の投稿をはじめる。
日光小学校の代用教員になるが、文学への道を捨てがたく、卒業後に上京して作家を志し、1916年(大正5年)から『少女画報』誌に連載した『花物語』で人気作家となる。
その後、『大阪朝日新聞』の懸賞小説に当選した『地の果まで』で小説家としてデビュー、徳田秋声らの知遇を得る。

1919年(大正8年)『屋根裏の二處女』では、自らの同性愛体験を明かしている。

1923年(大正12年)1月、吉屋の公私を半世紀に渡り支えることになる門馬千代と運命的な出会いをする。
1928年(昭和3年)、千代を伴い満州、ソ連経由でヨーロッパに渡り、1年近くパリに滞在した後、アメリカを経由して帰国した。太平洋戦争開戦直前には、特派員として蘭印(インドネシア)、仏印(ベトナムなど)も訪問している。

1937年(昭和12年)に発表された『良人の貞操』は、当時あまり問題視されていなかった男性の貞操をめぐって議論を巻き起こす。
1952年(昭和27年)には『安宅家の人々』『鬼火』で第4回日本女流文学者賞を受賞し、文学界に広く認められる。晩年は『徳川の夫人たち』『女人平家』など、女性史を題材とした長編時代小説を執筆した。

1973年(昭和48年)、S字結腸癌のため神奈川県鎌倉市の病院で死去した。77歳没。
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大正3年生まれの牛口ノブは、沼田高等女学校を卒業すると直ぐに、父の林作が勧めた縁談を拒絶した。
兄の善衛のように父の言いなりにはなるまいと決意していた。
沼田中学を優秀な成績で卒業した兄は、東京の第一高等学校への進学を希望していたが、父親にその進路を阻まれたのだ。
「農家の後継ぎに学問はいらない」と押し切られた。
母親のサトに似た優しい性格の兄は進学を不本意ながら断念した。
そして、農業をしながら田舎の歌人としての生き方を選択した。
若山牧水の短歌誌「創作」の同人であった。
兄善衛のことを、牧水は「みなかみ紀行」にU君として記している。

「兄の様にはなるまい」とノブは農家に嫁ぐのを嫌い恩師を頼って上京する。
沼田高等女学校の恩師であった島田恒子を頼って実家を飛び出したのである。
目的は憧れの作家である吉屋信子の弟子になることであった。
恩師はノブの<思い>に呆れた。
「ノブさん、気持ちは分かるけど小説家は簡単ではないのよ」と諭したが、ノブは吉屋信子を直接、訪ねた。
案の定、ノブは憧れの作家から「私は弟子は取らないの」と玄関先で追い払われた。
ノブの憧れは打ち砕かれ、無知な田舎娘は現実を思い知らされたのだ。
17歳のノブ、吉屋信子は当時35歳であった。

ノブは信子と変名して生涯を過ごした。
諦め難く投稿もせず、67歳まで創作を趣味とした。

あらすじに息を吹き込み、魂を入れ10行を1000行、2000行、3000行にまでする労作業。
それが創作であろう。

1行の真実に100行の雰囲気を用意する。
太宰治がそのように言っていただろうか?