酒を飲んでトラブル

2017年12月02日 21時20分26秒 | 未来予測研究会の掲示板
先生と呼ばれているその人は、巨体を持て余すようにバスから降りてきた。
そのバスに乗って輪太郎は帰るところであったのに、「しばらくです」と声をかけてしまた。
「あんたか、待っていろ、直ぐに戻ってくるから、酒を飲もう」と誘われる。
「声をかけるべきでなかった」
「誘いに応じなければよかったのに」
悔いは残る。
その人が行きつけの食堂は、何年も避けてきたのに・・・
「なぜ避けてきたのか」と問われれば答えにくい。
知られたくないプライベートを店の人たちに知られることを懸念してきたのだ。
輪太郎の裏の顔でもあった。
そして、酒を飲んでトラブルとなってしまう。
諍いや人間関係が壊れることは、輪太郎が恐れていたことであった。

<建設は死闘、破壊は一瞬>

2017年12月02日 20時10分48秒 | 沼田利根の言いたい放題
事件の発端は9月に東京都内の飲食店で起きた貴ノ岩関が絡んだ騒ぎだった。
ここで貴ノ岩関は若手力士と口論になり、粗暴な行動があったという。
粗暴は行動とは、何であったのか?
暴力行為であったのだろうか、との疑問も残る。
そして10月25日、鳥取市内のちやんこ料理店で、モンゴル力士を中心とした食事会が開かれた。
同市の鳥取城北高の相撲部OBである貴ノ岩関や関脇・照ノ富士関、父が同部総監督を務める十両・石浦関に、日馬富士、白鵬関、鶴竜関の3横綱のほか同高関係者らが出席した。
食事の終わりごろ、9月の騒ぎを聞いていた白鵬関が貴ノ岩関に説教を始めた。
だが、騒ぎは若手力士の生活態度についてた貴ノ岩関が注意したことが原因だったため、貴ノ岩関と仲の良かった日馬富士がかばい、その場を収めた。
だが、市内の高級ラウンジに場を移して開かれた2次会で、再び白鵬関が、貴ノ岩関と照ノ富士関に高校時代に受けた恩を忘れないように諭しはじめる。
だが、貴ノ岩関が、スマートフォンを操作しながら話を聞いていたため、日馬富士が注意すると貴ノ岩関は苦笑い。
今度は日馬富士が暴行に及んだ。
2次会も同高関係者が主催し、石浦関も出席するなどモンゴル出身者だけの集まりではなかった。
また、「モンゴル力士会」は、モンゴル出身者は例外なく参加しているものの、生活互助会で番付の地位に応じて会費を集め、会費はけがや病気の力士の見舞金や冠婚葬祭の費用に充てていた。
近年は定例的会合は開いておらず、力士同士の親睦目的の「食事会」ではなかった。
問題は、暴力である。
あくまで暴力は否定されるべきなのだ。
日馬富士の引退は非常に残念であるが、当然の結果であった。
日馬富士は自ら大きな可能性を閉ざしたのである。
自制心が不可欠だ。
自戒したい。
<建設は死闘、破壊は一瞬>
栄光に大きな落とし穴!

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どんな世界でも建設は死に物狂い、壊れるのは簡単である
とっても大切な人間関係を壊してしまった。
<泥酔がダメ!>と注意れた。
失態を酒のせいにはできない。
沼田利根

恩田が闘争に挫折

2017年12月02日 17時00分01秒 | 創作欄
大学院にいた恩田友彦が大学紛争に加わった。
徹は大学中に大学学生自治会に反発しており、「校歌練習」をボイコットしたことがある。
強制的に近い校歌練習であるが、強引に校門を出る。
「お前、何科だ」と自治会の役員に囲まれる。
「バイトがあるんだよ」と徹は彼らを押し除ける。
「鍛え直してやる。部室へ来い」と胸倉をつかまれた。
彼らの部室に連れ込まれてシゴキを受けた学生が居たことも話に聞いていたので、徹は手の拳で相手の腕に一撃を加えた。
「痛てい!このやろう。石を握っているのか」鬼の形相となるが、逃げ足の速い徹は猛ダッシュで駅を目指す。
数人が100㍍ほど徹を追ってきたが振り切る。
「大学自治会は大学の犬か」と恩田に同意を求めた。
「まあ、大学の秩序もあるからね。学生自治会も一概に無視できない」恩田は冷静である。
「自治会などはなくすべきだ」と徹は自説を曲げない。
そのようなこともあって、社会人になった徹は、学生の闘争に共感していた。
だが、後輩たちに会って先輩として激励するだけの立場に過ぎなかった。
理知的な恩田までが、大学側に批判的になっていた。
「理事者側は責任を取って、みな退陣すべきだね」
「そうだね」と徹は恩田の心情に応じた。
結局、恩田は闘争に挫折を味わった。
そして大学院も止めてしまった。
大学の教官を目指していた恩田は、2年後に女子高校の国語教師になっていた。
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日大紛争は、1968年(昭和43年)から1969年(昭和44年)にかけて続いた日本大学における大学紛争である。
ただし「紛争」との呼称は批判的ニュアンスのものであり、学生運動の立場からは日大闘争と呼ぶ。
紛争は、理工学部教授が裏口入学斡旋で受領した謝礼を脱税していたことに加え、国税局の調査で日大当局の莫大な使途不明金が明るみに出たことで、学生の怒りが爆発したことに端を発する。
学生らの抗議運動は、経済学部生の秋田明大を議長とする日本大学全学共闘会議(日大全共闘)を中心に、一般学生や教職員組合、父兄会をも巻き込み、全学的な広がりをみせた。
同年9月には学生側が大衆団交を通して、古田重二良会頭を筆頭とする当局に経理の全面公開や全理事の退陣を約束させた。
しかし、まもなく当局はこれを反故にして、全共闘が封鎖している校舎の解放を警察に要請。
学内に警視庁機動隊が投入される。
1968年9月4日未明、経済学部本館のバリケード封鎖解除に出動していた機動隊員1人が、学生が校舎4階から落とした約16kgのコンクリート片を頭部に受けて殉職した。
これを受けて警視庁公安部村上健警視正は記者会見で「警視庁はこれまで学生側にも言い分があると思っていたが、もうこれからは手加減しない」と憤りをあらわにした。
村上の言葉通り、当初警察は日大当局の腐敗に対して立ち上がった学生らを『学生さん』と呼んで同情しており、大学進学率が10%台であった当時においてエリートである学生らを慮って『奴らの将来を考えてやれ』と力説する幹部もいたほどであったが、この事件で学生に対する怒りは警察全体に広まり、警察の新左翼学生らに対する姿勢は一転した。
それまで警察は学生の検挙よりも解散を重視していたが、徹底的な取締を行うようになった。
一方、日大全共闘も急進化により一般学生の広範な支持を失い、1969年(昭和44年)春には紛争は収束した。
日大全共闘はその後も少数の学生で活動を続けたが、1970年代初頭には自然消滅した。

射撃場

2017年12月02日 10時51分36秒 | 創作欄
大学院にいた恩田友彦が突然のように、「村上から射撃を教わろう」と言う。
中学生のころ福島の田舎で、空気銃を兄とともに使った経験が恩田にはあったのだ。
徹はパチンコでスズメを狙った小学生時代を思いだした。
そこで後輩の三浦昭吾も誘って五反田へ向かう。
射撃場は新宿にもあったが、なぜ五反田であったのかよくわからない。
駅から徒歩3分くらいのビルの3階にその射撃場がある。
受付には美しい黒髪の女性が居たのだ。
自衛隊で射撃訓練を受けてきた村上に銃の構え方、引き金の引き方、標準の合せ方の手ほどきを3人が受ける。
的までの距離は25㍍。
呼吸を整え、息を止めてタイミングを計る。
誘った恩田が一番下手だった。
「生活の乱れが出たな」と恩田は浮かぬ顔をした。
目黒の大きな屋敷に下宿していた恩田は、嫁に行き娘を連れて戻ってきた34歳の大家さんの娘と深い関係になっていたのだ。
下宿の女主人は夫を戦争で亡くして一人娘を育てた苦労人であった。
徹を親友と信じていた恩田は、10歳年上の人との愛慾を明かしていた。
4人で駅前の立ち飲み屋へ寄る。日本酒は50円だった。
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<参考>
昭和42年の物価
【物 価】
公衆浴場 32円   都バス 30円   地下鉄最低 30円
新入社員向け背広既製服 1万7000円前後  コーヒー 70~80円
地方公務員平均月収(在職25~30年) 6万7086円  大工日当 2700円
ガソリン 1リッター 50円   民宿(1泊2食付) 880円  かけそば 60円
【物 価】(昭和43)
国鉄普通運賃 上野 → 青森 2060円  東京 →大 阪 1730円
朝日新聞 朝夕刊セット 月決め 660円   米(10kg) 1520円
総理大臣月給 55万3300円   封切映画館入場券 450円
大学卒 初任給 3万200円  ビール 127円  かけそば 70円


人間を書くのだ

2017年12月02日 09時47分25秒 | 創作欄
面白く書かなくてはいけない。
そして真実ではてはいけない。

人間を書くのだ、真実の人間が書ければ<面白さ>は附いてくる。
作家・山本周五郎

24歳の徹は、まだ、学生気分が抜け切れず、営業の仕事の途中で大学に立ち寄り、大学院に進んだ同期生を訪ねたり、後輩の顔を見に行く。
大学を2年で中退し自衛隊へ入隊した村上哲也もその日、国文学科の研究室に顔を出していた。
「村上、どうしたんだ?」と徹が訪ねる。
「自衛隊に入ったが、自衛隊は戦地へ行かない。だから、辞めた」口ヒゲの村上は苦笑した。
在学時代に徹と村上は詩論で度々、議論となる。
シュールリアリズムを信奉する村上に対して、徹は自然派を自認していた。
学友の多くは中世・近世の文学を学んでいたが、徹は近代・現代文学に傾倒していた。
村上はある日、「我々学生は何を言おうが、しょせん空論に過ぎない。俺は戦争・紛争が起こったら戦地に行く」と意外なことを言う。
そして外人部隊を夢にたりし、やがて自衛隊志向となる。
平和主義者で人道主義者の亀井駿一は「多くの犠牲者の上に、日本の今の平和憲法がある。村上、文学は平和を築くためにあるんだ」と諭す。
亀井は武者小路実篤の文学に傾倒していたが、卒論は万葉集をテーマとした。
その後、学生紛争が起こったことで、大学の門が閉ざされた。
それを契機に徹の学生気分も抜けた。
そして大学院へ進む夢も断ち切れた。
詩や小説を書き続けるために、勤め人・社会人から離脱したいと思っていたのだ。
親の経済事情も徹が遊び人になることを許さなかった。
「勝手をしたいなら、家を出て行くんだね」母親は強い口調で言い放つ。
親に依存してまで「詩は書く必要がるのか」と思い直した。
徹には家を出る闘志・覚悟も欠けていたのだ。

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シュルレアリスムは、フランスの詩人アンドレ・ブルトンが提唱した思想活動。一般的には芸術の形態、主張の一つとして理解されている。日本語で超現実主義と訳されている。シュルレアリスムの芸術家をシュルレアリストと呼ぶ。

日本ではフランス語と英語の発音が混同され「シュールレアリスム」、「シュールリアリスム」、「シュールレアリズム」、「シュールリアリズム」、「シュルレアリズム」、「シュルリアリズム」、「シュルリアリスム」といったバリエーションがあり、日本語のカタカナ表記においては様々である。
「シュール」は「非現実的」「現実離れ」の意味によく使われる。1970年代前後に「シュール」が日本の広告媒体で頻繁に使用された例がある。
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自然派(とは
バルザックやジョルジュ・サンドなどヨーロッパの〈農民小説〉の影響のもとに,ロシア最初の農民小説《村》(1846)、《不幸なアントン》(1847)を書く。
農民(ナロード)を主人公とし、それを共感をもって描くという手法は、ツルゲーネフに大きな影響を与えたが、彼はこの2作により、ゴーゴリによって代表される文学上の新流派〈自然派〉の最も重要な作家とみなされた。
工科学校出身だった彼は,学校の後輩ドストエフスキーを文壇に出したが、その40年後チェーホフを発見するという大きな貢献をロシア文学史に対して果たした。

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外人部隊
日本は、世界の中でも「戦争に行かなくても良い珍しい国」ですが、その日本人の中でもフランス外人部隊に志願して戦場に向かう人が存在しています。