トルコのエルトゥールル号遭難事件

2018年12月10日 22時06分54秒 | 社会・文化・政治・経済

エルトゥールル号遭難事件(エルトゥールルごうそうなんじけん)とは、1890年明治23年)9月16日夜半、オスマン帝国(その一部は現在のトルコ)の軍艦エルトゥールル(Ertuğrul Fırkateyni)が、現在の和歌山県東牟婁郡串本町沖にある、紀伊大島樫野埼東方海上で遭難し500名以上の犠牲者を出した事件。

現在、和歌山県串本町とトルコのヤカケント町、メルスィン市は姉妹都市である。

樫野埼灯台そばには、エルトゥールル号殉難将士慰霊碑およびトルコ記念館が建っており、町と在日本トルコ大使館の共催による慰霊祭が5年ごとに行われている。

木造フリゲート・エルトゥールル(1864年建造、全長76m)は、1887年に行われた小松宮夫妻のイスタンブル訪問に応えることを目的に、オスマン帝国海軍の航海訓練を兼ねて日本へ派遣されることとなった。

1889年7月14日、イスタンブルを出港。数々の困難に遭いながらも航海の途上に立ち寄ったイスラム諸国で歓迎を受けつつ、11か月をかけて翌1890年6月7日に、ようやく日本に到着した。

横浜港に入港したエルトゥールルの司令官オスマン・パシャを特使とする一行は6月13日にアブデュルハミト2世からの皇帝親書を明治天皇に奉呈し、オスマン帝国最初の親善訪日使節団として歓迎を受けた。

帰途に遭難[編集]

 
紀伊大島トルコ記念館の直下の海岸。画面奥中央の岩礁にエルトゥールル号が乗り上げ座礁した。

エルトゥールルは艦齢26年の老朽艦な上に、補給品の不足、乗員の経験不足などもあって、そもそも極東行きの航海自体も海軍内部に反対意見は強く、日本にたどり着いたこと自体が大変な幸運だとみられていた。

そして出港以来、蓄積し続けた艦の消耗や乗員の消耗、資金不足に伴う物資不足が限界に達していた。

また、多くの乗員がコレラに見舞われたため、9月15日になってようやく横浜出港の目処をつけた。

そのような状況から、遠洋航海に耐えないエルトゥールルの消耗ぶりをみた日本側が台風の時期をやり過ごすように勧告するも、オスマン帝国側は、その制止を振り切って帰路についた。

このように無理を押してエルトゥールルが派遣された裏には、インド東南アジアムスリム(イスラム教徒)にイスラム教の盟主・オスマン帝国の国力を誇示したい皇帝アブデュルハミト2世の意志が働いており、出港を強行したのも、日本に留まりつづけることでオスマン帝国海軍の弱体化を流布されることを危惧したためと言われている。

遭難事件はその帰途に起こった。

9月16日21時ごろに[2]、折からの台風による強風にあおられ紀伊大島の樫野埼に連なる岩礁に激突、座礁したエルトゥールルは、機関部に浸水して水蒸気爆発を起こし22時半ごろに沈没した[2]。これにより、司令官オスマン・パシャドイツ語版をはじめとする600名以上が海へ投げ出された。

救難活動[編集]

 
樫野埼灯台

樫野埼灯台下に流れ着いた生存者の内、約10名が数十メートルの断崖を這い登って灯台にたどりついた。

灯台守応急手当を行なったが、お互いの言葉が通じず、国際信号旗を使用して、遭難したのがオスマン帝国海軍軍艦である事を知った[2]

通報を受けた大島村(現在の串本町)樫野の住民たちは、総出で救助と生存者の介抱に当たった。

この時、台風により出漁できず、食料の蓄えもわずかだったにもかかわらず、住民は浴衣などの衣類、卵やサツマイモ、それに非常用のニワトリすら供出するなど、生存者たちの救護に努めた。この結果、樫野の寺、学校、灯台に収容された69名が救出され、生還することが出来た。

その一方で残る587名は、死亡または行方不明となり、大惨事となった。

遭難の翌朝、事件は樫野の区長から大島村長の沖周(おき しゅう)に伝えられた。



山田寅次郎とトルコ

2018年12月10日 22時03分20秒 | 社会・文化・政治・経済

宗有(寅次郎)は、幕末の慶応2年(1866年)に沼田藩用人・中村雄左衛門(莞爾)の次男として沼田藩の江戸上屋敷で生まれた。
中村家は曽祖父の代から家老職を務めていた。
8歳まで沼田で生活し、維新後に上京した。
明治14年(1881年)に宗徧流家元山田家に養子入りした。宗徧流は、寅次郎が生まれるより以前に6世家元の山田宗学が死去し、その妻が7世を継いで山田宗寿と称していたが、宗学夫妻の間には後を継ぐ子がいなかったため、後継ぎとして寅次郎が迎え入れられたのである。
しかし彼は茶道の家元を若くして継ぐ意志に乏しかったらしく、明治16年(1883年)に家元宗寿が亡くなった後も家元を襲名せず、進んで言論界に入って陸羯南、福地源一郎らと交わった。
茶道は高弟の中村宗知に任せていた。
東京で書生として暮らしながら政治活動・出版事業に手を広げ、幸田露伴の処女作を出版社の金港堂に売り込んだこともあった(後に露伴は、友人だった寅次郎をモデルにして、軍艦沈没事件を抜け目なく利用して名を売り、金を集め、日本との貿易事業を画策して海外へ渡った男の話を短編「書生商人」(明治25~26年)としてまとめている)。

明治23年(1890年)、訪日から帰国途上のオスマン帝国軍艦エルトゥールル号の遭難事件が日本中に大きな衝撃を呼ぶと、寅次郎は民間から義捐金を集めて犠牲者の遺族に寄付することを思い立った。
彼は親交のあった日本新聞社の陸羯南に働きかけて募金運動を起こした。
日本中で演説会をして回って、2年をかけて5000円(現在の価値で1億円相当とされる)の寄付を集めた。当初はトルコへ送金するつもりであったが、その方法について外務大臣の青木周蔵と面談したところ、持参を勧められたという。


明治25年(1892年)4月、寅次郎は義捐金を携えてオスマン帝国の首都イスタンブールに到着し、早速オスマン帝国外相を訪ねて義捐金を届けた。
これにより彼が遠い日本から民間人でありながら義捐金を持って自らやって来たことが知れわたると、彼はイスタンブールの官民から熱烈な歓迎を受け、皇帝アブデュルハミト2世に拝謁する機会にすら恵まれた。
この時に彼が皇帝に献上した生家の中村家伝来の甲冑や大刀は、現在もトプカプ宮殿博物館に保存、展示されている。
1894年(明治27年)6月30日付けで寅次郎が第百銀行の池田健三に宛てた書簡によると、滞在したのは1892年(明治25年)4月から数か月間で、その際オスマン商工会議所内に自ら持参した日本商品を商売の見本として陳列し、日本品販売所を開設できるよう準備をして帰国。
再来訪した1893年から1894年にかけて販売所を開き、その後、大阪の中村健次郎(商人・中村久兵衛弟)の出資を得て「中村商店」として開店したと推測される。
寅次郎はアブデュルハミト2世から士官学校での日本語の教育や、東洋の美術品の整理を依頼され、イスタンブールにしばらく滞在していた。
そのうちにトルコに愛着を覚え、イスタンブールに留まって事業を起こすことを決意した、と自伝では述べている。
明治29年(1896年)、一時帰国を経て再びイスタンブールにやって来た寅次郎は、イスタンブールの「中村商店」の現地支配人となり、日本との間での貿易事業を始め、以後、日本とトルコの間を何度か行き来しながら、イスタンブールに滞在した。
この頃の中村商店の実態、寅次郎の活動については不明な点が極めて多い。
寅次郎はイスタンブールに継続的に留まることはなく、周辺諸国の探訪や日本への一時帰還など活発に活動していたことが確認されているが、その詳細は必ずしも詳らかではない[5]。1899年に一時帰国した時に大阪中村商店の経営者である中村久兵衛の娘・中村たみと結婚し、中村一族と血縁となる[5]。子供も儲けたが、妻子は大阪に置いたままで、日本に落ち着くことはほとんどなかった。
寅次郎がイスタンブールに滞在していた当時、日本とオスマン帝国の間では治外法権の問題から国交交渉が進展せず、正式の国交が持たれなかった。
こうした事情もあり、彼はこの町でほとんど唯一人の日本人長期滞在者であった。
そこで、イスタンブールを訪問する日本人たちは官民、公用私用を問わずみな中村商店を訪問し、寅次郎に様々な便宜を図ってもらっていたという。
寅次郎の接遇を受けた人物に、徳富蘇峰、深井英五、田健治郎、松永武吉、朝比奈知泉、望月小太郎、池辺吉太郎、徳川頼倫、鎌田栄吉、寺内正毅、橋本圭三郎、中村直吉、伊東忠太などがいる。


データで正当化する誤用

2018年12月10日 20時52分35秒 | 社会・文化・政治・経済

「男女は平等」という理念自体を正当化する科学的データは存在しない。
科学的知見が価値判断を導かないのと同様、ある価値判断を正当化する科学的データも存在しないのだ。
データは仮説の検証のためにあるであり、価値判断を正当化するためにあるのではない、ということはしっかりと認識されるべきだと思うのだ。

総合研究大学院大学学長 長谷川眞理子さん


高齢者を、人間として深く知ることが大切

2018年12月10日 20時13分55秒 | 医科・歯科・介護

スウェーデンは、200年以上にわたり戦争に参加していない。
多くの移民を受け入れてきた。

1970年以降は、高齢者のための長期療養病床を多く設立してきた。
現在は、在宅ケアに比重を置くことでコストの削減に挑んできた。
支援を必要とする高齢者を、人間として深く知ることが大切だ。
一人一人が尊重され、その人に合ったケアが施されることにより、医療や福祉は個人のものになる。
スウェーデンに寝たきり老人が少ないのは、ケアの「パーソナル化」(個人のもの)が進んだ結果の一側面であるといえるだろう。
<高齢者になっても活動的な日常が送れるはず>と捉える直すことで、外出したり、体を動かしたりできる場合があることに気付く。


戦前日本の軍隊の欠陥

2018年12月10日 13時31分44秒 | 医科・歯科・介護

統帥権の独立

大日本帝国憲法によって陸海軍は統帥権の独立を保証されていた. これは天皇の命令以外では軍隊を動かせないことを意味する.

しかし,天皇が発言をするということは考えられなかったので,実際には天皇が望んでいるであろうことを推測して軍隊が動くということになった.

この統帥権の独立によって陸海軍は内閣や国会の意向と関係なく動く自由が与えられていた. 裏を返せば,内閣などは軍の作戦などに口をはさむ余地がないのである. これらの悪例が満州事変,ノモンハン事件などである.

天皇の下には軍に命令を出す機関として大本営が設けられており,大本営は陸軍の参謀本部,海軍の軍令部から構成されていた.

参謀本部の最高指揮官が参謀総長,軍令部の最高指揮官が軍令部総長である.

ところが予算の編成などは内閣の仕事であったから,軍といえども内閣の管理下にあるともいえる.

そこで,内閣に参入するのが陸軍大臣と海軍大臣であり,それぞれ陸軍省と海軍省という組織があった.


内閣は軍を動かせない

 ここで注意を要するのが,陸軍の作戦の指揮権は参謀総長が持っており,海軍の場合は軍令部総長が持っているということである.

つまり,陸・海軍大臣は作戦に関して口を出せないのである.

また,逆に参謀総長や軍令部総長が政治に口を出すことも好ましいとされていなかった.

このような二重構造を持っているということに日本の軍隊の組織的欠陥があったといってよいだろう.

 

この困難を解消するために東條内閣では,東條首相が陸相・軍需相さらに参謀総長を兼任し,嶋田海相が軍令部総長を兼任するという事態が発生した.

しかし,時既に遅く有効な指導はできなかったのである.

 

軍は政治に関することを知らないから日本の国力を把握して作戦を立てることはしない.

内閣は軍への指揮権がないから軍の暴走を止められない. このような事態は統帥権の独立というなかに本質的に含まれていたと考えられる.

これから,文民統制の原則がなぜ大切かを知ることができる.

 

本来,軍というものは国家に奉仕すべきものである. ところが,戦前の日本では,国家は軍に奉仕させられてしまったのである.



<日本野球よ、それは間違っている!> - 広岡 達朗

2018年12月10日 13時22分23秒 | 社会・文化・政治・経済

幻冬舎plus2018年12月09日 16:01FA選手の巨額複数年契約はやめろ

 今季FA(フリーエージェント)市場の目玉だった、広島・丸佳浩外野手の巨人移籍が決まった。

 報道によると、出来高払いを含めて5年契約総額30億円超(推定、以下同)で、史上最大級の高額条件だという。 5年ぶりのセ・リーグ優勝をめざして3度目の指揮を執る原辰徳が全権監督としてゲットした大取引だが、巨人がまたも抜群の資金力とブランド力を発揮したマネー戦争に、私は苦虫をかみつぶしている。

 私が「間違っている」と思うのは、巨額の複数年契約である。

 巨人がFAで獲得した第1号は、1993(平成5)年末の落合博満だった。落合は複数球団との競合のすえ、1年契約3億8000万円で中日から移籍した。

 その後、今回の丸までふくめ、FAで巨人に移籍した選手は合計26人。このうちなんと20人が複数年契約だった。主な内訳は以下のとおりだ。

1994年末 広沢克己内野手(ヤクルト) 3年6億5000万円

1996年末 清原和博内野手(西武) 5年18億円

1999年末 江藤智内野手(広島) 4年12億円

2006年末 小笠原道大内野手(日本ハム) 4年15億2000万円

2011年末 杉内俊哉投手(ソフトバンク) 4年20億円

2016年末 山口俊投手(DeNA) 3年7億円

2016年末 陽岱鋼外野手(日本ハム) 5年15億円

気が緩み、安心するのが人間だ
 FA選手の高額複数年契約は巨人だけではない。

 選手の立場に立てば、高額で1年でも長い複数年契約がありがたいのは、私も選手出身だからよくわかる。

 しかしプロ野球本来の姿としては、複数年契約はやめるべきだ。すべて1年契約がいい。年間4億、5億の給料が、働く前から4年も5年も保証されたら、選手は1年契約のような緊張感を維持できるのか。将来が好条件で保証されたら気が緩み、安心するのが人間である。

 たとえば巨人の大物FA選手の場合、杉内は1年目の2012年こそ12勝4敗、防御率2.04と実力を証明したが、4年目からは2ケタ勝利を割り、ここ3年は股関節の手術や肩痛で一軍登板がないまま、この秋引退した。

 3年7億円の山口俊も、2年目の今季こそ9勝9敗で立ち直ったが、1年目は1勝1敗。クリンナップの一角を期待された陽も、1年目は打率.264、本塁打9。2年目の今季は代打要員のまま打率.245、本塁打10に終わり、規定打席数にも届かなかった。年俸3億円の代打では困るのだ。

 このほか、2年4億円でソフトバンクから移籍した森福充彦投手も、“抑えのエース”どころか、この2年間で登板は32試合、1勝3敗で、2年目の今季はもっぱら二軍生活だった。

 これらの選手が年俸通りの働きができなかったのは、「ケガが原因だから仕方がない」という同情論もあるだろう。だが、ケガは野球につきものだから、いつも五体満足で実力が発揮できることを前提とした複数年契約はやめるべきなのだ。

複数年契約でも成績が悪ければ減俸に
 そして複数年契約をやめられないなら、「5年間は身分を保証するが、各年の年俸に見合う働きができなかったら翌年は減俸する。そのかわり、契約以上の活躍をしたら翌年は8億円でも10億円でも出す」というように、「1年契約プラスマイナス出来高払い」を原則とした契約に変えたらいい。

 そうでなければ、大リーグに比べて経営基盤の弱い日本の野球は死んでしまうだろう。

 丸は千葉県の高校から広島に入り、11年でみごとに一流選手に成長したが、今季のようなピークが5年間続くとは思えない。スランプもあれば、思いがけないケガに苦しむこともあるだろう。

 だからこそ1年契約とし、さらなる緊張感で野球を続ければ、結果として30億円以上の名選手になる可能性も夢もある。

コミッショナー主導でFA制度改革を急げ
 もっとも、広島が4年17億円、ロッテも6年25億円を用意していた現状で、巨人だけ1年契約を提示すれば丸を獲得できなかっただろう。

 だから、膨らみ続ける複数年契約をやめてプロ野球本来の1年契約に戻すには、コミッショナー主導のもと、全オーナーが共存共栄の精神でFA制度改革に踏み切らなければならない。

 そうすれば選手たちも、毎年ベストコンディションを作って一生懸命働くようになるはずだ。


12月10日 世界人権デー

2018年12月10日 12時00分55秒 | 社会・文化・政治・経済

20世紀前半、人類は2度の世界大戦を経験し、無数の人権が踏みにじられた。

その悔恨と反省、そして愚行を繰り返さないとの決意とともに、世界人権宣言が誕生した。
全ての人間が生まれながらに基本的人権を持つことを初めて国際的にうたった宣言であり、法の下の平等や自由に生きる権利などが、30の条文でまとめられている。
だが、今日もなお、難民や移民、外国人を嫌悪し、排斥する動きが各地で見られる。
出自や民族、性差による差別の事例、インターネット上で人権の侵害は後を絶たない。
「人権に対する意識が実感をもって一人一人の心に宿ることで、人権文化の礎石が社会で着実に敷かれていく」
自分には大切な人権があるという自覚と、他者にもそうした人権があるという強い意識である。

世界人権デー(せかいじんけんデー)は毎年の12月10日に行われる。世界人権の日(せかいじんけんのひ)、または単に人権の日(じんけんのひ)とも。
世界人権宣言が、1948年(昭和23年)12月10日の第3回国際連合総会で採択されたことを記念して、1950年(昭和25年)の第5回国際連合総会において、毎年12月10日に記念行事を行うことが決議された[1]。
1968年(昭和43年)以降、5年ごとに、世界人権デーである12月10日に、国連人権賞が授与されている。
日本では、この日を含む形で直前の1週間(4日から10日まで)が「人権週間」に、直後の1週間(10日から16日まで)が「北朝鮮人権侵害問題啓発週間」に指定されている。


藤井聡太七段 非公式戦で佐藤名人に勝利

2018年12月10日 07時55分03秒 | 医科・歯科・介護

「結果残せ、励みになる」

12/9(日) 22:56配信

 将棋の藤井聡太七段(16)が9日、名古屋市内で行われたイベント「将棋プレミアムフェスin名古屋2018」で、佐藤天彦名人(30)と公開対局を行い、120手で勝利した。この日の対局は非公式戦だが、将棋界最高峰のタイトルである「名人」の保持者に1月に行われた朝日杯での勝利に続いて2連勝する形となった。


1日3時間を価値的に過ごすには?

2018年12月10日 07時40分26秒 | 日記・断片

働き者の家人は1日2時間のパートの仕事。
火曜日と金曜日は早朝と夕刻の2時間、計4時間のパート勤務。
だが、通勤時間もあり、合わせて3時間として、年間どれほどか?
無職の当方は、その間にテレビを観たり、居眠り。
そこで思うのであるが、1日、3時間。
何かに集中できたら・・・と。
つまり、1日3時間を価値的に過ごすには?

家人は毎朝、午前4時30分に起床、前夜の食器の皿洗い、息子のおにぎりなどを用意。

家を5時20分バイクに乗って出る。

午前8時30分に帰宅して、朝食つくり、洗濯、風呂洗い。

だが、一つも手助けしない当方。


輪子の競輪日記 快気祝い田中家へ変更

2018年12月10日 07時07分57秒 | 未来予測研究会の掲示板

知人に大声で武蔵さんが声をかけていた。
「オオイ、オオイ会長」
相手は特別観覧席の2階から3階へ向かう階段を上がってきた。
輪子と武蔵さんが座るソファーの席から約10㍍の距離。
競輪場内の喧騒を破るような武蔵さんの大声が相手に届き、二人が座る場所へ相手が歩んできた。
「久しぶりだな。肺はどうなった」
「無事、手術できた」
「そうか、良かったな。お祝いだ。牛角で御馳走する。12レースが終わったら2階で待っていろ」
「2階ですね」
「ああ、待っている」
「あの人は、何処からきているのですか」と輪子は聞いた。
「成田線の木下(きおろし)だ」
武蔵さんは、競輪歴が長いので、多くの顔見知りが居る。

「取手の会長も、姿を見せなくなったな」
武蔵さんは知人の全ての人に「おお、会長」と声をかける。
でも、取手の会長は、建設会社の会長。
「じいちゃん、競輪行って遊んできたら」と孫娘が2万円を渡すそうだ。
足腰が弱ってきた92歳の会長は、息子に社長を譲ってから競輪を初めて10年。
武蔵さんが、競輪の帰りに立ち寄る駅ビル5階の「田中屋」で会長は、ソバを食べ日本酒の八海山を飲んでから、タクシーに乗って帰って行く。
徒歩なら10分の自宅。
「おお、会長、今日は儲かったのか?」と武蔵さんが会長に声をかけると、「いや、今日もダメだ。3000円だけ残して今、酒飲んでいる」と目は伏し目がち。
輪子は武蔵さんから、田中屋で度々、御馳走になっている。
武蔵さんの末の娘さんが東京の大学病院で看護婦長をしていて、娘さんの同輩のように思い看護師の輪子を可愛がっている。
「輪ちゃん、お互い、トラ年だ。気が合うな。俺がもう少し若ければな」と冗談を言うが、本気ではない。
皮肉なもので、この日は日曜日なのに牛角は休みだった。
そこで、快気祝いが田中家へ変更。


改正入管法成立へ 多くの課題を残したまま

2018年12月10日 05時43分19秒 | 社会・文化・政治・経済

連載:社説
朝日新聞(社説)

外国人労働者の受け入れ拡大を図る出入国管理法改正案は、政府与党の強引な国会運営で成立する見通しとなった。

 少子高齢化に伴う人手不足が深刻化するなか、受け入れの必要性自体は多くの人が理解するところだ。だが円滑に進めていくには、文化や言葉の違いを超え、同じ社会でともに生きていく覚悟と準備が求められる。

 そこに向けて、議論を重ね、幅広い合意を形づくることが政治の役割だ。その地道な努力を放棄し、数の力で法案を押し通す。将来に禍根を残す振る舞いであり、到底認められない。

 ■思惑先行の果てに

 これまでも立法府を軽視してきた安倍政権だが、今回その体質をますますあらわにした。

 どんな業種に、どれくらいの数の外国人を受け入れるかは、制度の根幹だ。にもかかわらずそれらは法成立後に省令で決めるとし、質問されても「検討中」を繰り返した。

 ごまかしの説明も多かった。

 非専門職の就労に初めて門戸を開くのに、「従来の方針を変更するものではない」と言い張る。新設する在留資格「特定技能1号」で働く人の約半数、業種によっては100%が、現行の技能実習制度から移行するとの見込みを政府自らが示しながら、「二つの制度は全く別のものだ」と強弁を続ける。

 参院法務委員会での審議に臨む前には、安倍首相が「ややこしい質問」を受けなければならないと発言した。国会を愚弄(ぐろう)する象徴的な光景だった。

 なぜ生煮えの法案をつくり、拙速に成立をめざしたか。透けて見えるのは打算や思惑だ。

 来年の統一地方選と参院選に向けて、人手を確保したい産業界の支持を得たい。一方で、外国人の増加を警戒する政権の支持層もつなぎとめたい。その帰結が、政府が描く「単身で来日し、働き、やがていなくなってくれる労働者」像といえる。

 在留期間に上限がなく、家族も帯同できる「特定技能2号」の資格もある。だが定住に道を開くとの指摘を受けると、政府はその要件は厳しいものだと言い出し、規定はあるが実現性の薄いものになろうとしている。ご都合主義というほかない。

 ■無にされた教訓

 外国人政策は多くの国が失敗と試行を重ねてきた難題だ。

 ドイツは、戦後受け入れた出稼ぎ労働者が国を分断する一因になったと総括し、移民を認める方向にカジを切った。同じ社会の構成員として暮らしていくための支援に力を注ぐ。技能実習と似た制度が多くのトラブルを生んだ韓国は、これを廃止。04年に政府が前面に出て受け入れを調整する仕組みにし、やはり共生を重視する。

 こうした国々の経験から何を学んだのか。法案や国会審議からはついに見えなかった。

 逆にはっきりしたのは、新制度の土台である今の技能実習制度がもつ数々の問題点だ。

 実習生の多くが、最低賃金以下での長時間労働を強いられたり、暴力を振るわれたりし、中には中絶を迫られた例もある。野党による聞き取りや参考人質疑などを通じて、深刻な人権侵害状況が明らかになった。

 法務省は、実習生の調査を通じて内実を知りうる立場にありながら、是正に取り組まず、教訓をくむこともしなかった。それどころか、いい加減なデータを国会に提出し、審議を混乱させた。山下法相は、詳細を調査し来年3月までに実態を解明すると表明したが、順序が逆だ。

 技能実習制度を温存することは、もはや許されない。

 ■求められる抜本対応

 改正法案が成立しても、課題は山積みのままだ。

 新たに外国人労働者を受け入れる際に行われる技能試験などは全く形が見えない。生活していくうえで必須の日本語習得の支援など、受け入れ態勢づくりもこれからで、現場を抱える地方自治体には不安が広がる。

 これらの業務を担当させるため、法案は法務省入国管理局を格上げし「出入国在留管理庁」を新設するとしている。

 だが先の実習生調査への対応は、「管理・摘発」を任務としてきた組織が「支援・保護」の発想を持つ難しさを浮き彫りにした。ノウハウもなく、適切な担い手とは到底言えない。

 外国人問題に詳しい識者たちはかねて、政策を総合的・横断的に進めるために出入国管理法にかわる法律を制定し、「多文化共生庁」のような組織を設けるべきだと訴えてきた。将来を考えれば、今回のような弥縫(びほう)策ではなく、そうした抜本的な対応こそが必要だ。

 すでに大勢の外国人が日本で生活し、社会を支えている。だが一部の自治体や住民は別として、多くの人はその姿を直視せず、「わがこと」として考えてこなかった。国会審議はその現実もあぶり出した。

 共に生きる道を考える。それは、この社会に生きる一人ひとりにも課せられた役目である。

 


改正入管法が成立

2018年12月10日 05時37分17秒 | 医科・歯科・介護

「外国人材拡大」法、8日未明にも成立へ

読売新聞 12/7(金) 22:30配信
臨時国会最大の焦点だった出入国管理・難民認定法(入管難民法)改正案は、8日未明にも参院本会議で与党などの賛成多数により可決、成立する。外国人労働者の受け入れ拡大に大きくかじを切ることになる。2019年4月1日の施行予定で、政府は19年度から5年間に14業種で最大34万5150人の受け入れを見込む。

 参院法務委員会で8日午前0時半前、同法改正案が与党などの賛成により可決された。与党は、引き続き参院本会議での採決に臨む。

 同法改正案は、新たな在留資格「特定技能」の創設が柱だ。従来は医師や弁護士ら「高度な専門人材」に限定してきた就労目的の在留資格が、単純労働分野に広がる。熟練技能者として認定する「特定技能2号」については、様子見の業界が多く、制度開始から当面は事実上の凍結となる見通しだ。

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共生していくには、、外国人の人権を保障していく機会にしていかないといけない。


教育とは、最も強力な武器である。

2018年12月10日 05時20分18秒 | 社会・文化・政治・経済

ネルソン・マンデラの言葉

教育とは、世界を変えるために用いることができる、最も強力な武器である。

生まれたときから、肌の色や育ち、宗教で他人を憎む人などいない。
人は憎むことを学ぶのだ。もし憎しみを学べるのなら、愛を教えることもできる。
愛は、憎しみに比べ、より自然に人間の心にとどく。

私は学んだ。
勇気とは恐怖心の欠落ではなく、それに打ち勝つところにあるのだと。
勇者とは怖れを知らない人間ではなく、怖れを克服する人間のことなのだ。

エレノア・ルーズベルトの言葉

人生は生きることが大事なのです。
いつも好奇心を持ち続けることです。
どんな理由があっても決して人生に背を向けてはいけません。

人の生き方を一番よく表すのは、言葉ではありません。それは、その人の選択なのです。わたしたちの選択とは、つまるところ、わたしたちの責任なのです。

戦争が最高の解決策なんて、とんでもないわ。この前の戦争で勝った者は誰もいなかったし、この次の戦争だって、誰も勝ちはしないのよ。


世界人権宣言の起草委員長として語る。
「結局のところ、普遍的人権とはどこから始まるのでしょう。
それは、ごく身近な小さな場所で始まるのです」




12月9日(日)のつぶやき

2018年12月10日 03時20分15秒 | 医科・歯科・介護