社会力を育てる

2018年12月07日 21時42分22秒 | 社会・文化・政治・経済
 
 
 

――新しい「学び」の構想 


銀盤の華、「億」の費用…経済学(育成編)

2018年12月07日 21時28分55秒 | 社会・文化・政治・経済

「習い事」から競技へ

フィギュアスケートは、冬季五輪の花形競技。本格的に取り組むとなると、お金がかかるイメージが強い。

五輪を目指すには、一体いくらかかるのか。
5歳で始め、20歳で五輪出場——という想定で関係者への取材を基に試算してみた。

 趣味で楽しむ程度なら、普通の習い事と同じ感覚で続けられる。
靴はブレード(刃)とセットで約1万円から。あとは帽子と手袋があればOK。
初心者向けスケート教室の月謝は、週1回で約5000〜8000円程度だ。

 ところが、競技選手になるには、クラブに登録して、日本スケート連盟のバッジテストを受けなければならない。

靴も、ジャンプやスピンに耐えるものが必要で、値段は1足約12万円からと一気にはね上がる。

成長期の小中学生だったら年に2足は用意したい。

 上達に欠かせない個人レッスン代(30分2500〜5000円)やリンクの貸し切り代(1時間2万〜5万円)に加え、遠征費や衣装代、振り付け代(1曲20万〜250万円)もかさむ。
コーチの交通費や宿泊費も選手が出す。
日本スケート連盟の強化選手に指定されれば、選手本人とコーチ1人分の遠征費などが支給されるが、トレーナーや親が付き添う場合は自己負担だ。

衣装代「100万近く」も

道具や衣装の値段はピンからキリまで。例えば衣装は、既製品なら数万円で済むが、有名デザイナーに頼むと100万円近くかかることも。
負担を減らすため、トリノ五輪女子金メダリストの荒川静香さんはかつて、母親が手作りした衣装を着ていた。
浅田真央(中京大)は、アルベールビル五輪女子銀メダリストで、クラブの先輩だった伊藤みどりさんのお下がりを着て試合に出たこともある。

 もちろん、すべてが自己負担ではない。
実績を積んでいけば、日本オリンピック委員会(JOC)や連盟の強化費、試合の賞金、スポンサーの支援などが受けられるようになる。
最近は、中京大や関大などの大学がリンクを所有し、練習場の使用料の負担は軽くなった。

それでも、経済的な理由で競技を続けられなくなり、卒業と同時に引退する選手も多い。伊藤さんや高橋大輔(関大大学院)のように、有望選手をコーチが自宅に引き取り、面倒を見るケースもある。

 ざっと見積もって、16年間の総額は1億円超。
スポンサーがつくような選手は、浅田や高橋ら一握り。アルバイトをしながら競技を続ける選手もいる。華やかに見える世界だが、多くの人々の支えがあってこそ、選手は氷上で輝けるのだ。

資金、毎年「ダメかも」…村主、支援募り現役こだわる

 2度の五輪に出場し、今もカナダを拠点に競技を続ける村主すぐり章枝ふみえ(33)(Kappa)に、トップ選手の台所事情と本音を聞いた。

 村主は以前、記者会見を開き、1年間の活動費が約2000万円かかると支援を訴えたことがあった。内訳は、リンクの貸し切り代やレッスン代、衣装代、航空運賃など多岐にわたる。

 村主が「譲れない費目」として挙げるのは、靴の調整代だ。「メーカーから提供される選手もいるけれど、そのままでは使えない。エッジや形状など、足にフィットさせる調整に、どの選手も苦労する」。靴やエッジの仕上がりは演技の生命線だ。村主は3年ほど前、エッジの研磨機(米国製)を日本にいる職人と約30万円で共同購入し、日本でも繊細な調整をできるようにした。

 負担感が大きいのは、海外渡航費。「主催者側から支給される大会もあるけれど、国際大会となるとコーチやマッサージ師、振り付けの先生の渡航費や日当などを選手が負担する。レベルが上がるとチームの人数も増える」と説明する。

 村主は近年、支援企業を募りながら現役を続けてきた。「毎年、資金面で『もう駄目かも』っていう波が来る。それでも多くのサポートで、何とかつながっている」と笑いながら、「今はフィギュアが『見るスポーツ』になっている。皆さんに『(自分も)やってみよう』と思ってもらえるように活動したい」と話す。リンクなどの環境整備には「何かのきっかけが必要。五輪がキーになる」と、日本選手団の活躍を願っている。

(2014年2月15日11時00分 読売新聞)


時代にどう向き合って生きていくのか

2018年12月07日 21時07分08秒 | 社会・文化・政治・経済

時代にどう向き合って生きていくのか

加藤周一

「現代日本人の平均に近い一人の人間がどういう条件の下にでき上ったか、例を自分にとって語ろう」と著者はいう。
しかし、ここには羊の歳に生れ、戦争とファシズムの荒れ狂う風土の中で、自立した精神を持ち、時世に埋没することなく生き続けた、決して平均でない力強い一個性の形成を見出すことができ

第61回紀伊國屋サザンセミナー「加藤周一とともに― ―いま、『日本文学史序説』を語る」

鼎談 加藤周一が考えつづけてきたこと

 

大江健三郎 作家


小森陽一 東京大学大学院教授


成田龍一 日本女子大学教授



 加藤周一さんの一周忌にあたり、第61回紀伊國屋サザンセミナー「加藤周一とともに――いま、『日本文学史序説』を語る」が開かれ、大江健三郎さんの基調講演と、小森陽一さん・成田龍一さんを交えた鼎談が行われました。(二〇〇九年十二月十四日)

大江 この人は自分の時代の大きい見事な人だと思ってきた方の訃報に接して、若い時は悲しむだけだった。それが年をとってきて私が経験するのは、驚きに打たれて、ほとんど恐怖するということです。わずかな数の友人や家族とその人のことを話す。「新約聖書・ルカ書」の終り近いところにある通り、「暗い憂鬱な顔をして」。あるいは一人「暗い憂鬱な顔をして」その人のことを思っている。
 ところが時が経つと、あのような人に会え、お話を聞くことができたことを、「あの人の言葉を聞く間、我々の心は燃え立ったではないか」(これも「ルカ書」の最後に出てくる言葉です)と考える。
 加藤周一さんが亡くなられたときに経験したのは、まさにこの通りでした。
 私は新聞に加藤さんへの追悼文のようなものを書きました。そこで加藤さんを「大知識人」と呼んだことが、真面目な雑誌で批判された。それをアメリカのやはり古い友人にグチる手紙を書いていて、さて「大知識人」にあたる英語があるのだろうかと考えました。辞書の例文を見るとsome important figures in European intellectual lifeというのがあった。「大知識人」という表現は単独で存在するのではなく、たとえばヨーロッパの知識人の中に、あるとても重要な人々がいて、その一人が彼だ、というような言い方をするらしい。
 そこで私は日本にインテリジェントな人たちの生活というものがあるだろうかと考え、あるとしたら、そこで大切な人物とはだれだろうか、と考え進んで、確実に、加藤さんは日本にありえたインテレクチャルライフのなかのもっとも大切な一人だと思いました。
 そうした知識人のことは、『日本文学史序説』に読み取ることができます。


日本最初の知識人――紀貫之と菅原道真
大江 この本で「知識人」という言葉が初めて使われるのは八世紀の山上憶良についてです。大陸文学の教養を持った憶良型の知識人官僚は、しかし単独で、孤立していた。百年たち、そういう人がようやく群を成して現れ始めた。これが九世紀の社会的な特徴の一つだと分析されています。
 そのようにして現れてきた知識人に二つの型がある。一つは、藤原氏の一派が権力を独占したために、政治的に没落した貴族のなかから現れた知識人。政治的権力の中心から遠ざけられた紀氏からの、代表的な人が紀貫之だというのです。もう一つは、上流貴族ではなく、比較的下級の儒家から出て、官僚として高位に昇った人物で、祖父の代からの儒者で右大臣となった菅原道真がその典型、と書かれています。
 紀貫之は、「万葉集」以後の秀れた歌を全日本の規模で「古今集」に編纂した、きわめて知的な人。「土佐日記」という旅行記も書きました。
 八~九世紀の僧、慈覚大師円仁のことも、加藤さんは最初の優れた知識人たちの一人としますが、円仁が書いた「入唐求法巡礼行記」という旅行記には、旅で遭った民衆の苦しい人生が描かれている。しかし紀貫之は、実際の生活のことは書いていない。漢文で書く円仁には、そういうリアリズムが可能だったけれども、紀貫之は、貴族が集まって歌をつくる会合を主宰し、その一人としての旅行記を書けても、民衆の生活を見極めて書くということはなかった。それは日本語と中国語との言語の違いでもあるし、だいたい日本のインテリは、まずリアリズムでないところから出てきたのだ、と加藤さんはいいます。
 一方、菅原道真は中国語で優れた詩をつくったわけですが、つまりは彼の中国語の作品を鑑賞し、理解することのできる知識人グループが既にできていたのだという。それは、紀貫之の日本語の歌を受け止めるグループと同じように、九世紀初めのインテリ集団の出現を意味しています。
 そこには共通点も相違点もあると加藤さんはいう。「月は鏡のように澄んでいるが、罪の無実を明かしてはくれない、風は刀のように鋭いが、かなしみを破らない、見るもの聞くものみじめであり、此の秋はただわが身の秋となった」、こういう意味の漢詩を、菅原道真は自分の経験に即してつくり出した。他方、紀貫之が「古今集」に択んだ歌には、「月みればちぢにものこそかなしけれ わが身ひとつの秋にはあらねど」(大江千里)というのがある。
 状況は対照的です。一方は、政治的に追い詰められて地方に流されたインテリがつくった歌。他方は、宮廷の歌人が歌合で詠ったもの。中国語と日本語という違いもある。にもかかわらず、同時代の詩的表現に明らかに相通うところがあります。
 八世紀までは、たとえば「懐風藻」の漢詩と「万葉集」の日本語の歌とを比べても、こうした共通な感情、共通の表現はなかった。ところが九世紀を経て十世紀初めになると、宮廷歌人の大江千里と、追い詰められた官僚で漢詩を書く菅原道真とのあいだに、同時代の人間としての同じ内面が感じられる。こういう作品をつくる者らが知識人であり、一つの時代に、違った教養や職業の立場を持ちながら、ある文化的なものを共有できるということが知識人の条件であると、加藤さんは示しているわけです。

百年前の知識人――石川啄木
大江
 では近代に特有の知識人とはだれか。

子規、露伴、漱石、鴎外らも、明治維新、日清・日露戦争という時代の刻印を大きく受けた知識人たちですが、加藤さんが重要視するのはその次の世代、維新から二つの戦争までの時代に生まれ青年になって、不安かつ不幸な時代状況をもろに引き受けた文学者、端的に言えば石川啄木です。
 一八八五年に生まれて一九一二年に死ぬ石川啄木は、日清戦争に至る社会の変動を知っている。そして二十代初めに文学者として活動し始めるとたちまち、大きな時代の壁にぶつかってしまった。日露戦争後から十月革命前という、一九一〇年前後の時代の特徴を、もっとも明瞭に書いたのが石川啄木だと加藤さんは考えています。
 今から百年ほど前の一九〇七、〇八年には、大学を卒業しても就職がないという、現在の日本と同じようなことが起きていた。石川啄木は、そのことを批判して、「時代閉塞の現状」を書きました。時代が閉じていて若い人が希望を持てない。しかも一九〇五年に日露戦争が終わって新しい経済状況になり、国際関係が進展して、日本では、国家自体が社会を閉じさせるまでの大きな権力をコントロールするようになった。しかし、その制御のまま若者は閉じてはいけない、そこを自由に突き破っていく力を、言葉を、行動を起こさなければいけない、と啄木は書いたわけです。
 若者の心をなぐさめる美しい歌をつくりながら、もう一方で大逆事件の幸徳秋水に、すなわち「テロリスト」に共感するものが自分のなかにあると歌うような、そういう知識人の文学者がここで現れた。これが加藤さんの着眼点です。
 新聞社にいた啄木は、幸徳秋水が獄中から弁護士に書いた手紙を入手して書き写します。クロポトキンの本を引用しつつ、自分たちアナーキストは天皇家を攻撃しようとしたものではない、と書いた手紙です。啄木はそこに自分の感想を書き加え、クロポトキンの英語の文章も写しています。
 外国語を勉強して新しい思想を学ばなければいけないと考えていた、当時の生真面目で不安な青年に、加藤さんは大きな関心を寄せています。啄木は時代の病である肺結核になって、貧しさから死に、家族も滅びてしまう。しかし、違う社会状況であったならばどうなっていたか。
 その百年前、ハインリッヒ・ハイネは、同じような閉塞状況のプロシアから逃げ出し得た。ヨーロッパ文化の中心地パリで亡命生活をしつつ、啄木と同じように美しい詩をつくり、激しい政治的言論を展開するジャーナリストとなりました。
 もしも充分なお金があって、満足な教育を受け、きちんとした生活ができ、日本が「孤立した島国」でなくて外国に亡命できるような状況だったら、啄木は日本のハイネとして、全く新しい文化状況をつくっただろう、そうした文学者が確実に誕生したはず、と加藤さんは想像します。
 啄木が苦しんだ時代が、つい百年前のことにすぎないのを、いまの若いみなさんに考えていただきたいと思います。百年前のことが、いま再現しつつあるのです。
 啄木から百年後の現在、新しい閉塞状態がある。そのちょうど中間の時期が一九四五年頃です。戦争に敗けた後につくり上げられた日本には、新しい文化への動きがありました。時代閉塞を打ち破るような可能性があの時代にはあったのだというのが、加藤さんが証言していられることです。
 外国語を読み、外国人と議論し、協同の仕事ができる人を、加藤さんは高く評価されました。自分の研究をし、海外での経験も積んで、普遍性を持ったところで世界的に活動できる人こそが知識人なのだと。だから若い人たちは外国に行ってきちんと議論できる者になる必要がある、少なくともそれが知識人となるための第一歩なのだと、自らの人生でそれを証明されました。
 かれの原則の一つに、文学作品を高く評価するという態度があります。一人の女性歌人が詠んだ歌、一人の農村の老俳人がつくった俳句を、つねに丹念に読み解いていく。近松門左衛門の浄瑠璃についても、井原西鶴の小説についてもそうです。そういう文学作品には、同時代を生きた人たちの共有する感情があり、それを読み取ることが時代を読み取ること、社会を読み取ること、日本語の実質を読み取ることだ、という確信を具体的に示されました。
『日本文学史序説』について、有名な外国人の文学研究者が「優れた作品だが文化史であって文学史とは言えないのではないか」と批判しました。しかし、それは間違っている。加藤さんのように一つ一つの作品を文学的なテキストとして深く読み取る文化史家・文学史家はいなかった。具体的な読みの上に立った、日本社会、日本文化、日本の歴史についての結論が、この本にはあらゆるページに満ちている。知識人とはどういう条件を持つ者なのか、加藤さんは厳格にかつ寛大に様ざまなタイプを取り上げ、かれらの作品をこのように重んじているのです。

「日本」「文学」「歴史」をどう捉えるか
小森 『日本文学史序説』は、大江さんのお話のように、日本史であると同時に文学史です。政治と文学は対立項ではなく、まさに、最も政治的であることが最も文学的であり、最も文学的であることが最も政治的である。そのように生きた人たちの表現を深く読み取るという、この本の大事な方法論が明らかになってきました。

成田 『日本文学史序説』では、文学という形で構えをつくるけれども、同時に政治の問題を考えている。そして、文学作品を定義しているのは時代時代の状況です。いま「日本」も「文学」も「歴史」も、ある固定的な枠組みで捉えられていますが、加藤さんはその枠組みを規定するものを再検討した。そしてその固定化をつくりあげたのが、近代化の過程における国学と西洋だと考えていました。国学と西洋によって切り詰められた「日本」「文学」「歴史」を書き換えようとしたのだと思います。

大江 「国学と西洋によって」と言い切るのは単純化しすぎではないでしょうか。
 近世の始め、徳川政府が、日本が国家としてやっていくための思想としたのが儒学でした。国家の思想としての儒学を修める、権力を持った学者たちがいたわけです。
 しかしその儒学にも、時代に沿って変化が生じてきます。例えば、朱子学が文科省の指導要領みたいなものとすれば、それに対して、荻生徂徠のように違った古典の読み取りを考える人がいた。加藤さんは武士の陽明学と捉えています。それは政府の思想とはまた別の影響を知識人たちに与え、日本の思想を揺り動かした。
 一方で民衆のあいだには、近世後半別の陽明学が現れた。農民の現実感覚に即した新しい陽明学で、二宮尊徳、安藤昌益、大塩平八郎などの思想です。石田梅岩の心学などは六十数カ所に学校ができるほどの常民の学問の流れとなりました。
 そういう二つ、あるいは三つの中国の学問があり、対するものとして国学が現れ、国学者、たとえば本居宣長らの大きな仕事があった。したがって、国学ということを考える場合、日本の複数の儒学、複数の漢学がどのように政府と民衆を刺激したかを考えなければなりません。
 また、蘭学を学んだ人もいれば、それをもっとアメリカの学問に近づけた福澤諭吉のような人もいる、緒方洪庵のように医学を行った人もいる。彼らがこぞって明治維新に至る学問のさまざまな流れをつくったのであって、そうした多様な動きがあったのを、「国学と西洋」と単純化することはできないのではないかと思います。
 加藤さんは、歴史を考えるうえで文学作品が第一資料として有効だと固く信じていました。歴史のなかに生きた人間の証拠として文学作品を読み解き、その視点から、江戸時代から明治維新に至る展開をうまく広く、魅力的に捉えている。あわせて富永仲基のように、漢学をしつつ、大坂の商人のための学問所で学び、そこでも反逆して困難な人生を歩んだ革命的な学者に、強い関心を寄せられました。
 しかし維新後、日清・日露戦争に至ると、国家そのものが一つのはっきりした思想と実践力を持ち始める。一九一〇年に大逆事件と日韓併合が起こります。加藤さんの分析では、日韓併合はアジアにおける日本の侵略的膨張の時代の象徴です。その前に、国内の安全確保のために大逆事件をでっち上げ、日本を天皇の国家として確実に捉え直した。そして米騒動が一九一八年、治安維持法制定が二五年。すなわち一九一〇年からの十年間に日本とアジアとの関係、国内の体制、天皇制の力、民衆の表現の自由の様相が、はっきりと変わったのです。
 この時代、文学も明らかに変わった。この時代の変化を加藤さんがどう捉えたかを考えるべきでしょう。

成田 『日本文学史序説』では、時代は世紀割りで考えられています。明治維新後が近代だという形で歴史を切断するのではなく、複数の儒学なり漢学なり国学なりがあり、一方で西洋からさまざまな概念や影響が入ってきて、そのなかから明治維新に向かう力が出てくる。明治維新を、十九世紀という時代のなかでの営みとして捉える。そのように歴史を把握する構想力を、加藤さんは『日本文学史序説』で示しています。
 そこには、歴史の断絶説をとっていた従来の文学史の叙述、あるいは歴史学研究に対する厳しい批判が含まれています。
 歴史の連続説をとることによって何が見えてくるか。それが日露戦争後の社会、つまり二十世紀とは「日本」「文学」「歴史」にとって何だったのかという問題です。日本の二十世紀は日露戦争とともに明けたわけですが、その日露戦争の結果、国内の治安強化と、対外的な進出、すなわちまさに二十世紀の特徴というものが出てくる。
 また、十九世紀、二十世紀と世紀で捉えた瞬間に、基準が一気に世界的なものになる。そのときイギリスは、アメリカは、何をしていたのか。中国は、あるいは東アジアの状況はどうだったか。そういう問題が見えてきます。

小森 世界史との対応関係のなかで日本史をきちんと読み直すことを可能にした、つまりいままでの、日本をめぐる歴史認識のあり方全体を組み替えたといえるわけです。

一九四五年の体験を核に
小森 石田梅岩のお話が出ましたが、梅岩は、町人に対して現世を生き抜く方法を提示する一方で、彼自身の自然観や宇宙観は全くそれとは違い、根源的にヘーゲル的でさえあった。つまり、一人の思想家の営みのなかに極めて異質な、果たしてなぜこれが一人の人間の中に同居しているのかと思われるような特質を読み取り、見抜いていくというスリリングなところが『日本文学史序説』にはあります。こうした加藤さんの着眼点はどこから来るのでしょう。

大江 加藤さんの視点の根には明らかに一九四五年の経験があります。
 小森さんと成田さんが編まれた『言葉と戦車を見すえて』はじつにすばらしい本ですが、その軸のひとつ「言葉と戦車」は、チェコスロバキアの危機に際して書かれました。一九六八~六九年、言論の自由のない社会主義国チェコの国民が、民主主義としての社会主義をつくろうとした運動を成功させた。悲劇がそれに続いた。直前にプラハを訪れ、その後をウィーンで見ながら、加藤さんは何を考えていたか。
 プラハの街から、思いを遠く故国に寄せなかったわけではない。しかしその故国は、一九六八年夏の東京ではなく、四五年秋の東京であった。そこにも検閲があり、いろいろな不自由もあった。しかしあのときは新聞・放送の大衆報道機関を通じて、政治体制の根本的な変革を公然と論じることもできた。四五年秋には、日本の古代史の事実を(これは天皇制を含みますが)、初めて公然と語ることもできた。希望や計画や、胸にたまる思い、新しいと信じる考えにあふれていた、と加藤さんは書きました。
 新しい歴史の出発点として一九四五年を考え、そこから六八年に至り、もう一度日本文学、日本近・現代史、日本全体の歴史、さらにはアジアの歴史を考え直してみる。そのきっかけがチェコで生じた。そこで一九四五年の経験を思い出し、それに励まされる、と加藤さんは書きました。つまり一人の人間・加藤周一が考えたことを中心に、世界の小さな国の小さな街プラハと、東洋の小さな国の小さな街東京を結ぼうではないか、社会主義の未来についてもう一つ別の意見を出そうではないか、と。
 加藤さんは、東京での一九四五年の希望に、真剣に向き合い続けた人です。チェコで新しい運動が起これば、強い共感を寄せながら、日本のことも考える、こういう人を誇らしい日本人、世界的な人、本当の知識人だと思います。私はその人を記憶し続けたい。新しい加藤周一が次つぎ現れる、まず若い加藤周一読者が十万人生じるのが、私の希望です。

小森 いまのお話には、非常に感慨深いものがあります。私は一九六五年までプラハのソ連大使館付属八年制学校に通い、日本に帰国後あの事件が起きました。ソ連の教育を受けチェコの友達と遊んでいたわけですから、私の半分が、もう半分に戦車を乗り入れ侵略したような状態だったのです。
 そのときの自分の分裂をどう考えたらいいのか。十五歳の私は初めて自分でお金を出して、岩波書店の『世界』という雑誌を買って読みました。そして「言葉と戦車のように考えれば、自分はこの分裂から立ち直れる」という手引をいただいた。
 のちにご一緒した北京での講演で加藤さんは、医師だった自分の空襲体験、血液学の専門家として原爆の被害の調査に行かされた経験、そういう状況のなかで、意識的に文学者になることを選択しようと思ったと、中国の学生たちに語っていました。
 加藤さんは、戦争に協力したり、それに乗っかっていったりした知識人を非常に厳しく批判しました。その一つが、『言葉と戦車を見すえて』に収録した「知識人の任務」という文章だと思います。
大江 戦争中、日本に言論の自由は何もなかった。そして敗けた。加藤さんは四七年に、人民のなかに入って戦争中のような間違いを起こさないように行動するのが我々知識人の仕事だ、と書きました。それが、「渡辺一夫先生に捧げる」という献辞がある、「知識人の任務」です。
成田 『言葉と戦車を見すえて』は、「言葉と戦車」を軸に、加藤さんの生涯にわたる持論を「知識人論」として整理してみようという意図で編んだものです。加藤さんが問題にしつづけたのは、やはり知識人についてであったと思います。知識人の責任とは何か、知識人として生きるとはいかなることなのか。加藤さんの知識人の責任論は、はっきりと戦争体験に根ざしています。
 さらに、「高みの見物」という文章のなかで、知識人たるもの分析をし、正確な認識を持つのは当然であるが、しかしそれが高みの見物であってはいけない、実践的に役立つ知識というものを考えなければいけないのだ、ということを書いています。
 加藤さんの文章は、分析と実践という二重の複眼的な視線で読む必要があります。『日本文学史序説』も日本文学史でありつつ、加藤さんの実践としても捉えることができる。そうした複眼的な懐の深さがますます必要な時代です。単線的に二者択一で考えていては、凄まじく変化しているこの世界の状況に対応できない。そのことを加藤さんの仕事から学ぶべきでしょう。

小森 大江さん、実は『日本文学史序説』の最後は大江さんで終わっているんですね。

大江 私が読んだのは、最初の版で、そこに私は出ない、出るのは文庫版(笑)。まず私や井上ひさしは指針をあたえられた。私は、渡辺一夫という、一九四五年にはっきり出直すことを決心した知識人を裏切るまい、その渡辺さんをまっすぐ継がれる加藤周一の考え方に結びつきたいと考えて、文学をやってきました。
 加藤さんは「知識人の任務」で、大きな戦争に反対を表明せず、敗北までついて行った無力な日本の知識人を救い直す道はあるかと考える。そして、人民のなかに己を投じ、人民とともに再び立ち上がるほかに道があり得るだろうかと問いかけています。こういう若い、激しい書き方は、加藤さんの仕事全体の流れを見ると、あるいは少し馴染まないかもしれません。
 しかし人間は、非常に調子の高い言葉で語るときもあるし、深く沈み込んで、それこそ「暗鬱な顔」で考えるときもある。その両者を一貫することをねがって、まともな人間は生きていく。
 加藤さんは、八十代になって「九条の会」をつくる中心となり力を注がれた。私も加藤さんと一緒に働けた。加藤さんの文章を読み、直接に話を聞いて心が燃え立ったことを、私は伝えつづけるでしょう。


羊の歌―わが回想

2018年12月07日 20時55分40秒 | 社会・文化・政治・経済
 

加藤周一はいかにして「加藤周一」となったか

2018年12月07日 20時28分43秒 | 社会・文化・政治・経済

 鷲巣 力著
商品の説明

内容紹介

加藤周一はいかにして「加藤周一」となったか――『羊の歌』を読みなおす

文学や絵画や音楽、それぞれを深く知る人はいても、それらを通じ、しかも、政治的・社会的な問題と関連させて論じることができる人は、現在の日本に、ほとんどいません。

『羊の歌』は、戦中戦後を生きる自己の半生を冷静に見つめた知識人の記録として長く読み継がれてきた。

だがこの回想記にあって、意図的に伏せられた事実は少なくない。

加藤の言葉に真摯に向き合いながらも、不言と虚構を明るみに出し、近親者の証言からその意図を探る。知の巨人の出発点は、語られない出来事のうちにあった。

内容(「BOOK」データベースより)

『羊の歌』は、合理的な解釈や明晰な分析に定評があり、戦後日本を代表する知識人の半生記として読み継がれてきた。

その言葉を見なおしてみようと、厖大なノートや著作を繰り、近親者などからの証言を求めた。

秩序に対する美意識、父母との関係、孤独、高みの見物、戦争体験、日本文化史研究の契機…、今、ここに新しい加藤像が立ち現れる。

たとえば、母に勧められた最初の結婚、戦争の始まった日に文楽を見たかどうかかという謎、そして愛した女性に数多ささげた相聞歌のエロス・・・。

これらに、おそらく『羊の歌』を教科書に加藤を理解していた人は衝撃を受けるであろう。
 未発表資料も使われているが、そこだけで読むべき本ではない。

要するに暴露本ではないのだ。

著者の主張を論証するに必要な限りでしか未発表資料を使っていない。

だから重要な伝記的事実でも飛ばしているところもある。そして、遺された膨大なノートから、加藤の複雑な本質が、終章に向かって積み重ねられ明らかにされていくところが、この本の真骨頂である。著者のいう「「理」の人にして「情」の人」という。

--------------------------------------

加藤周一
加藤 周一1919年(大正8年)9月19日 - 2008年(平成20年)12月5日)は、日本の評論家。医学博士(専門は内科学、血液学)。
上智大学教授、イェール大学講師、ブラウン大学講師、ベルリン自由大学およびミュンヘン大学客員教授、ブリティッシュコロンビア大学教授、立命館大学国際関係学部客員教授、立命館大学国際平和ミュージアム館長などを歴任。
哲学者の鶴見俊輔、作家の大江健三郎らと結成した「九条の会」の呼びかけ人。
妻は評論家・翻訳家の矢島翠。岩村清一海軍中将は大叔父。
東京府立一中(現・東京都立日比谷高等学校)、旧制第一高等学校理科乙類(現・東京大学教養学部)を経て東京帝国大学医学部に進学。
幼少期より日本の古典語及び漢文に親しみ、高等学校では英語とドイツ語を学び、大学時代にはフランス語とラテン語を学んだ。
1943年に東京帝国大学医学部を繰り上げ卒業、東京帝国大学医学部附属医院(現在の東京大学医学部附属病院)に配属される。
日本の敗戦直後、日米原子爆弾影響合同調査団の一員として被爆の実態調査のために広島。に赴き原爆の被害を実際に見聞している。
この終戦前後に、作家の堀辰雄の主治医となっていた。1946年5月30日、最初の結婚をした。
雑種文化論は、日本文化に対する問題提起として大きな議論を呼び、1958年に医業を廃し、以後評論家として独立した。


<script type="mce-mce-"text/javascript"">// "}">この画像を表示
 
 

加藤周一はいかにして「加藤周一」となったか――『羊の歌』を読みなおす 単行本 – 2018/10/6

 
 

商品の説明

内容紹介

『羊の歌』は、戦中戦後を生きる自己の半生を冷静に見つめた知識人の記録として長く読み継がれてきた。

だがこの回想記にあって、意図的に伏せられた事実は少なくない。

加藤の言葉に真摯に向き合いながらも、不言と虚構を明るみに出し、近親者の証言からその意図を探る。知の巨人の出発点は、語られない出来事のうちにあった。

内容(「BOOK」データベースより)

『羊の歌』は、合理的な解釈や明晰な分析に定評があり、戦後日本を代表する知識人の半生記として読み継がれてきた。

その言葉を見なおしてみようと、厖大なノートや著作を繰り、近親者などからの証言を求めた。

秩序に対する美意識、父母との関係、孤独、高みの見物、戦争体験、日本文化史研究の契機…、今、ここに新しい加藤像が立ち現れる。

商品の説明をすべて表示する
// ]]></script>

日本人がなぜ、共産主義を支持するのか?

2018年12月07日 15時46分38秒 | 社会・文化・政治・経済

共産党が信用できないわけ①――なぜ公安当局は監視するのか

ライター
松田 明

民主党政権下でも調査対象

 公安調査庁が毎年発表するリポート『内外情勢の回顧と展望』。北朝鮮や中東情勢、テロ組織など日本にとって懸念される国際諸情勢とともに、国内の〝諸団体〟についても報告が記載されている。
 そこに毎回、「オウム真理教」「過激派」「右翼団体」などと名を連ねて登場するのが「共産党」だ。
 これはなにも安倍政権下だからではない。1952年に破壊活動防止法が制定されて以来、民主党政権時代も含め、日本共産党は常に〝調査対象団体〟であり続けてきた。
 政党はさまざまあるのに、なぜ公安当局が日本共産党に目を光らせ続けるのか。
 その理由は、日本共産党が ①日本の社会主義・共産主義化をめざして「革命」を起こすことを綱領に掲げている政党であり、②しかもそれは〝敵の出方によっては〟「暴力革命」も辞さずという思想であり、③実際にいくつもの「武装闘争」事件を起こしてきた集団だからだ。

共産主義が生んだ悲劇

 今年(2017年)は武装蜂起によるロシア革命からちょうど100年。だが、世界の半分の盟主とまでなったソ連は1991年に崩壊。秘密警察による恐怖政治に縛られてきた東欧諸国でも、次々に共産党一党独裁体制が崩れ民主化が広がった。
 理想の世界を夢見た壮大な実験に思われた共産主義革命だったが、20世紀の歴史が見せた現実は、密告と粛清の恐怖政治、激しいインフレと物資不足の悲惨な社会だった。
 1997年に世界的ベストセラーになった『共産主義黒書』は、スターリンによる粛清など、世界中で共産党国家が自国の人間を粛清してきた数を、およそ1億人と見積もっている。
 歴史家で徳島文理大学教授の八幡和郎氏は、こう指摘する。

 共産主義国の暮らしはどこでも悲惨です。それはひとえに、はじめに理想ありきで社会の現実を見つめず、人間をしばりつけようとする点にあるのです。(『第三文明』2017年1月号)

共産党の武装闘争路線

 ソフト路線への戦術転換で、いかにも弱者にやさしく、政権を厳しく批判する「正義の味方」のようにふるまう日本共産党だが、その素顔は今も「共産主義国家」をめざす政党だ。
 2004年1月に改訂された現在の日本共産党綱領には、

 日本の社会発展の次の段階では、資本主義を乗り越え、社会主義・共産主義の社会への前進をはかる社会主義的変革が、課題となる。これまでの世界では、資本主義時代の高度な経済的・社会的な達成を踏まえて、社会主義的変革に本格的に取り組んだ経験はなかった。発達した資本主義の国での社会主義・共産主義への前進をめざす取り組みは、二一世紀の新しい世界史的な課題である。

と、はっきり書かれてある。
 しかも、その革命という目的達成のためであれば、デマであれテロであれ手段を選ばずとしてきた独善的な体質に最大の問題がある。
 1951年、日本共産党は、この党の憲法ともいうべき綱領で、

 われわれは武装の準備と行動を開始しなければならない。

と〝武装闘争路線〟を決定。
 翌52年には、札幌市警警備課長を路上で射殺した「白鳥事件」、皇居前広場で暴徒化した群衆が騒乱を起こした「血のメーデー事件」、名古屋で火炎瓶を持った数百人が暴徒と化した「大須事件」などを引き起こした。
 これによって同年7月に破壊活動防止法が制定され、以来、日本共産党は監視対象となったのだ。

「暴力革命の方針を堅持」

 こうした共産党の異常な暴力革命路線は世論の拒絶反応を招き、52年10月の総選挙では全候補が落選し、全議席を失っている。
 55年になって、この武装闘争路線について、

 誤りのうちもっとも大きなものは極左冒険主義である。(第6回全国協議会)

と自己批判して見せたものの、58年の第7回党大会で「51年綱領」を廃止する際には、

 一つの重要な歴史的な役割を果たした。

と開き直る評価を与え、本音を見せた。
 その後も1970年の第11回党大会で、自分たちのめざす「革命」が平和的となるか非平和的となるかは〝敵の出方〟次第だとするなど、暴力革命を選択肢とする態度を否定していない。
 2004年9月に警察庁が刊行しネット公開もされている『焦点269号 警備警察50年』には、「暴力革命の方針を堅持する日本共産党」と題する項目を設けて、今も共産党がそうした暴力的な革命路線を捨てきっていないという見解を示している。

 昨年、話題になった『日本共産党研究――絶対に誤りを認めない政党』(産経新聞政治部著)の筆者の1人である政治部記者・酒井充氏は、刊行した動機について、こう語っている。

 人によっていろいろな主義や考え方があることは当然です。だからどの政党を支持するのかということも個人の自由であることは言うまでもありません。
 ただ、よく実態がわからないままに「自民党、公明党が嫌いだから」「安倍政権が嫌いだから」といった理由だけで共産党を支持する行動に対しては「本当にそれでいいのですか?」と警鐘を鳴らす必要性を感じたのです。(『第三文明』2016年8月号)


読書は学びにつながる

2018年12月07日 15時07分20秒 | 社会・文化・政治・経済

学力が低い子ほど、読書によるプラス効果は大きい。
日本の子どもたちの「読解力」が圧倒的に不足している。
AI(人工知能)に人間が負けない分野は、まさにこの読解力。
国語の勉強に出てくる「読解力」ですが、実は勉強に限ったものではありません。「読解 力」は子供だけではなく大人にとっても重要な力であり、日々磨かなければならないスキルです。
「読解力」とはどんな力なのか、どのようにして磨いていくのか見ていきましょう。
読解力は「あらゆる形の文章を読んで、意味を正しく理解する能力」
読解力を鍛えるためには「語彙力」「要約力」「思考力」の3つを伸ばそう
語彙力が高い人はコミュニケーション能力も高く、仕事もうまくいきやすい
仕事で求められる能力でも上位に入る「コミュニケーション能力」。
その土台になる、相手の意図を理解する力が「読解力」です。


12月6日(木)のつぶやき

2018年12月07日 03時19分24秒 | 医科・歯科・介護

攻撃性と症状

2018年12月07日 02時59分58秒 | 医科・歯科・介護

徳島文理大学研究紀要 第80号 平成22.907紀要037-050
人間の攻撃性の探究
―自他攻撃性尺度の作成―
谷本 泰子さん

形成や行動化との関連については,「攻撃的であることは悪しきこととして感じられており,攻撃性についての人々の自覚が妨げられているため,無意識の中にある攻撃性が,神経症,人格障害,抑うつ等の症状となって表れたり,気付かぬうちに行動となって現れることが多い」と指摘さている。
自傷行為,摂食障害,アルコール依存などのような自己破壊行為のように,攻撃性が
自己に向けられる場合にも,このような病理の背景に,抑うつ感や自責感が中核にあることが多いという。
例えば,抑うつ者の攻撃性の特徴として内面にある他責性を外面に表さず抑制することを挙げている。
要するに,表面的には自責的に振るまい,怒りを露わに表出することはないが,内面では不平や不満,失望を感じているということであり,これが症状の形成に大きく関連しているといえる。
また,攻撃性の方向については,「分離―個体化の過程における失敗によって,自己と非自己の境界の区別がつきにくい未熟さがあると,攻撃性が他者や自己に無差別に表現される」と述べている。
攻撃性が他者へ向けられることが抑制された場合に自己へと向かい,自傷行為や罪業感へ結びつくとして,自傷を「一時的に精神的な苦痛を緩和させ,その場を凌ぐ」防衛の手段である。
ゆえに人間の攻撃性とは,自己を守り維持する自我本能の一部であり,内外要因の影響をうけやすい心的エネルギーであると捉えることもできる。
このような視点から攻撃性を捉えることは,症状形成や行動化等の理解や対応を深めるだけでなく,自分自身の在り方や生き方を模索していくために有意義かつ重要であると考えられる。
そこで本研究では,特に問題とされる破壊的な攻撃性に焦点をあて,これを「無意識レベルで生じた情動が,破壊的に発動し自他に方向付けられる行動および感情」と定義し,攻撃性の在り方を捉えることとする。

徳島文理大学研究紀要 第80号 平成22.907紀要037-050
人間の攻撃性の探究
―自他攻撃性尺度の作成―
谷  本  泰  子*


なぜ人は匿名だと攻撃的になるか?

2018年12月07日 02時41分38秒 | 医科・歯科・介護

2018年06月26日(火)一般教養 

ルシディチュードについて

ルシディチュード―灯台教養学部へようこそ。

このサイトは、一般教養を学べる無料オンラインサイトです。


ネット上での誹謗・中傷、攻撃、脅迫が一つの社会問題になっています。

なぜネット上で人は攻撃的になるのでしょうか?

一つには、注目を浴びるため。

過激な発言は人の注意をひきます。それにより自我が満たされることもありますが、それ以上にアフィリエイトはじめ炎上商法が一つの手段になっているためと言えるでしょう。

今日は、もう一つの要素である”匿名性”について考えていきます。

匿名性だからこそ発達してきたともいわれるインターネットの世界。

本当に匿名性が人々の攻撃性を増すのでしょか?

ルシディチュード―灯台教養学部匿名性の実験

匿名の状態に置かれた人がどのような反応を示すのか、さまざまな科学的実験がこれまでされてきました。

現段階の結論としては、総じて匿名性は攻撃性を高める、というものです。

 社会心理学者Philip Zimbardo (1970, 2002)は次のような実験をしました。

ニューヨーク大学の女子学生に、一部の学生はそのまま、一部の学生はみんな同じKKK*のメンバーのような白いコートとフードをかぶせました。

学生たちに他者に電気ショックを与えるようにという指示を出すと、結果は扮装していなく大きなネームタグを胸につけた生徒よりも、扮装した生徒の方が約2倍長く電気ショックを与えたということです。

ライトを暗くしたり、サングラスをつけたりさせただけで、人びとに匿名性の感覚が生まれ、喜んでだましたり利己的な態度をとるようになりました。

*KKK(クー・クラックス・クラン)・・・アメリカの白人至上主義団体。

白装束で頭部全体を覆う三角白頭巾が彼らの制服で、主義に従い人種差別や性差別の暴力的な事件やパフォーマンスを繰り返した。

19世紀に誕生し、20世紀に最盛期を迎え、現在は勢力は弱まっているものの存続している。

自分の個人的なアイデンティティが明確にならない状態だと攻撃性や無責任性が増すというのは、大人だけでなく子どもたちにも見られます。

ハローウィンで、シアトルの1352人の子どもたちのトリック・オア・トリートを観察した科学者がいいます。

子どもが町中を分散して27の家の1軒を訪ねるとき、一人であろうがグループであろうが、実験者は彼らを温かく迎え、「アメを1つとってね」と言い、キャンディーをそのまま子どもたちに渡してしばらく彼らだけにして放っておくのです。

この状態を隠れている観察者が記録したところ、グループで家を訪ねた子どもたちは、1人きりで家を訪ねた子どもたちより、2倍の確率で余計にキャンディーをとりました。

また、名前と住所を尋ねられた子どもは、匿名にされたままの子どもに比べ、違反が半分以下となりました。

違反率は、状況によって劇的に異なります。グループへ没入し、匿名になることで没個人化がおこると、ほとんどの子どもは余分にキャンディーをとったということです。

キャンディをたくさんとるくらい大したことはないと思いますが、誰かと一緒にいるかそうでないか、自分のアイデンティティが明確になっているかそうでないかで子どものうちから態度が変わるというのは非常に興味深いものがあります。

 

しかし、匿名性が攻撃性をやわらげたという実験もあります。

Robert Johnson, Lesile Downing (1979)は、他者が受けるべき電気ショックがどれだけのものにするかを決める前に、ジョージア大学の女子学生たちに看護士の制服を着せました。

一部の学生には名前がはっきり提示されるネームタグをつけます。

この結果、名前がはっきり提示されていることで個人的アイデンティティーが強調されている状態におかれた生徒よりも、同じ制服を着て身体的匿名性が高まっているであろう看護師の服装をした生徒たちのほうが、ショックを与える際に攻撃性が減少したのです。

看護師の制服を着用したことで、病人の看病をするやさしい看護師といった多くの人が抱いている通念ともいえる看護師という社会的アイデンティティーが攻撃性を弱めたと考えられています。

 

ただ、やはり匿名性、没個人化が攻撃性を増すことの方が一般的だといえます。

人類学の研究からも、没個人化の兵士の文化は敵に残忍な仕打ちをする文化であったことが明らかになっています。

Andrew Silke (2003)の研究では、北アイルランドで起きた暴力的攻撃500のうち206は、マスクやフードをかぶり、他の顔の変装をした攻撃者による実行されたそうです。

変装していない攻撃者に比べ、匿名性の高い攻撃者はより深刻な傷を負わせ、より多くの人びとを攻撃し、より破壊行為にコミットした、という結論付けになっています。

ナチスドイツがユダヤ人を虐殺する際、最初は銃で一人ずつ実行していましたが、耐えられなくなり士気が下がるドイツ兵の様子を見て、ヒムラーがガス室を考案したといわれています。

虐殺されるユダヤ人にとっても、虐殺するドイツ兵にとっても、匿名性は格段に高まり、状態は平常化していったと分析している学者もいます。

 

Tom Postmes とRussell Spears (1998)の没個性化の60の実験の分析によると、匿名になることは自覚がよりなくなり、グループへの意識を高め、状況において提出されるきっかけ(KKKのようにネガティブなものにせよ、看護婦のようにポジティブにせよ)により反応しやすくなると結論しています。

 

これらの実験は、ある一定の設定された環境下で見られる一部の人々の反応から結論を導いていますが、わたしたち一般にいえる反応ではないでしょうか。

一人ひとりが匿名性が攻撃性を増すという一般的傾向を学び、自覚することがとても大切です。

いじめやネット上での攻撃といった殺伐とした社会的現象の解決にもつながる一歩となるでしょう。

そして同時に、一人ひとりがどんな時も周りに流されるだけでなく、自分の頭で考える力を育てていくことが重要です。

 

 
 

 


ネットはなぜ攻撃的になるのか?

2018年12月07日 02時35分11秒 | 社会・文化・政治・経済

ネットではなぜ激しい争いが起こるか
掲示板荒らし、ネット上の非難中傷

 小林 正幸 ダイヤモンド社『攻撃と暴力―なぜ人は傷つけるのか (丸善ライブラリー) ...

<iframe frameborder="0" marginwidth="0" marginheight="0" scrolling="no" width="728" height="15"></iframe>


ネット上の激しい言葉

 インターネットの掲示板やチャット上でのトラブルは、日常茶飯事である。

 楽しく運営されていた掲示板やチャットが、悪意のある「荒らし」や偶発的な感情的衝突によって、激しい非難や人格攻撃の言葉が飛び交い、すっかり荒れ果ててしまうのは、よくあることである。
 私も、ホームページで犯罪者の心理などを語ると、「被害者の気持ちも考えろ!!!!!!!!!」とか、「お前の家族も同じ目にあってみろ!」など、激しい非難を受けることがある。
 私のネット上の発言に対して、こちらが恐縮してしまうほどの賞賛を下さる方がいる一方で、「お粗末だ」、「くだらない」、といった評価を受けることもある。
 個人的経験としては、面と向かっては言われたことがないような言葉を受けることが、ネット上では珍しくない。
 ネット上のトラブルは、ときには名誉毀損罪、侮辱罪など、法的問題に発展することもある。

(名誉毀損罪:他人の名誉を傷つけ、損害をあたえること。たとえ事実の指摘であっても公共性がなければ犯罪となる。)

(侮辱罪:個人的に言うだけなら単なる悪口でも、ネット上など公の場では犯罪性が出てくる)

 またネット上のコミュニケーションで激しく傷ついた人の中には、外出できないなど神経症的な症状があらわれてしまうこともある。
 バスジャック事件を起こした17歳の少年も、掲示板で傷つき、怒りを爆発させた一人である。

激しい表現の理由:匿名性

 ネットで激しい表現を使う人みんなが、現実世界でも乱暴なわけではない。ネットは人を攻撃的にする面をもっている。それはなぜか。
 まず、ネット上の「匿名性」がある。

心理学の実験によれば、人は自分の名前が知られず、罰を受けないときには、乱暴になりやすい。

 現実生活では、刑罰を受けるかもしれないし、殴られるかもしれない、仕返しされるかもしれないと人は恐れる。だが、ネットでは匿名性というヨロイを着ることができる。

文字だけの世界

 また文字だけのやり取りは、情緒よりも理論が協調されやすい。

相手の発言の隅々まで見て、反論したくなる。反論された人はさらに再反論したくなる。

 人が実際に会って会話するときには、相手の話に相づちを打ち、うなずくことが多い。

これは、必ずしも相手の意見に賛成という意味でなくても、会話の中ではつい「うん、うん」と話をきいてしまう。

 この態度が、相手の感情を和らげる効果をもっている。文字の世界ではこのようなことはあまりない。
 文字の世界ということでは、手紙も同じだが、手紙はメールよりも手間と時間がかかる。その間に、次第に激しい感情も収まり、手紙を書き換えたり、結局投函しないこともある。

 メールは、その場で書き、そのまま送信ボタン一つで相手に送ってしまう。マスコミへの意見も、手紙よりもメールの方が激しい批判が多いようである。

悪意を感じてしまう

 そして人は、自分が見たいと思うものを見る。たとえば、悪意を持った相手からのメールは、悪意あるもののように感じてしまう。

 相手の気持ちを考えるためのヒントが少ないだけに、想像力が発揮される。

こうして悪循環が始まれば、憎しみが増し加わり、非難と皮肉だらけのメール攻撃がなされるのである。
 さて私の場合は、ショッキングなメールをもらった場合には返信までにしばらく時間を置くことにしてある。傷ついた心が時間と共に癒され、相手を論破してやろういう誘惑に勝てるようになるまで。
あるネチケット(ネット上のエチケット)に関するページには、次のようにあった。「面と向かっていえないようなことはネットでも言うのをやめよう。」

正義の味方?

 乱暴な攻撃をしている人を他人が見れば、その乱暴者を悪と見るだろう。しかし、多くの場合、その当人は自分を「善」だと思っている。
 いろいろな場面で悪人どころか、むしろ「正義の味方」として現れて、自分からみた悪人、不適切な人間、どう見ても間違った(と思い込んでいる)発言に対して、激しい攻撃をする人間がいる。
 もちろん、実際に正義の味方が悪人を懲らしめている場合もあるだろう。だが、自称「正義の味方」もたくさんいるかもしれない。
 さて、こんな正義の味方に見込まれてしまうと大変だ。異論、反論はもちろんのこと、賛成できる内容に対して出さえ、もっとこうすべき、もっとこういうページも作るべきと、次々と要求を押し付けてくる。
 こんな正義の正義の味方は、迷惑な話だが、本人に悪意がないのも事実出である。こちらに不十分な点があれば、争わずに謝ってしまうのも、賢明な方法だろう。

心が傷ついたとき

 相手がどのような人であれ、人間関係がこじれそうになったときに、「お詫び」はとてもよく効く薬になる。
 早い段階の謝罪が、その後の長いトラブルを防ぐだろう。
 ただし、謝ることができるためには、こちら側に心の余裕が必要だ。自分が愛されている、認められている、わかる人にはわかってもらえている、そんな余裕があって、はじめて、人に謝る事もできる。
 しかし、人から非難されたり、反論されたときに、相手の言葉とこちらの精神状態によるが、しばしば心が傷ついてしまうことがある。
 心が傷つけば、心を守りたくなる。(心理学的に言えば、「防衛的」になる)

必死になって、自分の正しさを主張したくなる(「正義の味方」の心理だ)。

 そして、文字のやり取りでは、相手の言葉のスミをつつくような言葉の応酬となって、ますます互いの心が傷つき、さらに激しいネット上の争いに発展することもあるだろう。
 争いを防ぐためには、相手の心をなだめるだけではなく、自分の心の癒しが必要なときもある。
 戦うべき相手は、口論の相手ではなく、自分自身の心かもしれない。

あおり運転の心理的メカニズム

2018年12月07日 02時24分47秒 | 医科・歯科・介護
藤井靖(明星大心理学部准教授、臨床心理士)
 クルマを運転する際の犯罪(道路交通法違反)は、ある意味で特殊である。
その理由の一つは「一部の物損事故、人身事故を除く多くの違反が、重大な被害に結びつかない確率が高い」という点である。
 
 同じ犯罪でも殺人や放火、窃盗、詐欺などは、そこには明確な被害者の存在がある。
しかし、スピード違反や一時停止違反、シートベルト装着義務違反、駐停車違反、追い越し・転回・後退禁止違反…これらは事故にならない限り、どれも直接的な被害者は存在しないことがほとんどである。
 
 そのため、仮に取り締まりに遭遇しても、「罪を犯した」という意識が他の犯罪に比べて相対的に低くなりやすい。
だから、反省したり自分を責めたりするどころか、「まさか見つかるとは思っていなかった」「運が悪かった」「なんで捕まえるんだ」「これぐらいならいいじゃないか」「誰も困らないじゃないか」などと警察官を恨めしく思ってしまうことも多いだろう。
 
 また、検挙される・されないに関わらず、厳密に言えば日常的に罪を犯している人が他の犯罪カテゴリーに比べて多いという点もある。例えば、見通しの良い幹線道路や高速道路で、制限速度をオーバーしたスピードでクルマの流れができていることは決して珍しいことではない。同じく取り締まりにあったときに、「みんなやっているじゃないか!
なんで自分だけが罰を受けるんだ」と怒りをあらわにする人は決して少なくないだろう。
さらには、それが違反だったということが、免許所持者の間で完全に知られているとは言い難い違反もある。
「高速道路で追い抜き車線を走行し続ける」「運転席・助手席のヘッドレストを取った状態で走る」「ライトを常にハイビームにしておく」「クラクションの乱用」…。
実はわが国では、これらが全て道路交通法違反であることが明示されている。
このように、
(1)直接的な被害者がいないことも多い
(2)日常的に多数の検挙されない違反者がいる
(3)違反と認識されていない行為もある、という特徴を持つ交通違反は、心理学的には「価値基準の混濁」が起こりやすい。
 
 「価値基準の混濁」とは、何がやってもよいことで、何がやってはいけないことかが明確に認識されづらく、その場の状況や判断、文脈によって、基準がコロコロ変わり一定しないことを指す。
例えば、同じ人間であっても、仕事で急いでいるときは、制限速度を上回るスピードを出していても罪の意識は薄い。
一方で、休みの日で急いでいないときなどは、一時停止や歩行者の存在、スピードメーターにも相対的に強く意識が働いており、順法精神が普段より保たれている場合もあるだろう。
その意味では、客観的には異常行動で、常軌を逸しているように見える「あおり運転」も、当の本人からすると「自分は早く行きたいのになんで前のクルマはこんなにトロいんだ」「なんで早くどかないんだ」「あおられて当然だ」と思い込んでしまう。その行為のただ中にいる際は、特に「悪いのは相手。私の行為はおかしなことではない」と自分を過度に正当化し、「危険性の判断」の優先度も低くなってしまっているのである。
 
 しかしながら無論、価値基準の混濁が生じているからといって、すべての人に「あおり運転」のような危険行為が伴うわけではない。
 
その一つの分岐点は、個人のストレスへの易反応性(反応しやすさ)である。
そもそも、運転している状態が、基本的には人間の心理・身体的にはストレスフル(多くの負担がかかる)である。
 
 言うまでもなく、運転中はさまざまなことに気を配る必要があるからだ。
 
まず前を見て、アクセルワークをして、前車との距離を調整し、かつルームミラーやサイドミラーで後ろや横を確認する。
さらにはスピードや標識を確認し、時には目的地までの道のりを考えたり、時間に間に合うかどうかのタイムマネジメントも意識しなければならない。
注意力には人それぞれのキャパシティーがある。
気を配るべき対象が多くなっている状態で、前のクルマが遅いといったさらなる心理的ストレスがかかると、脳の中で理性的かつ論理的で自制心を働かせる前頭前野の力は働きにくくなる場合がある。
 
 そのため、怒りなどの感情に率直な、衝動的な行動が出やすくなるのである。仕事で疲れていない朝は理性的に運転できても、疲労した帰りの運転は荒い、という場合も衝動性をコントロールしきれなくなっている脳の機能低下が疑われる。
また、ストレスがかかると、身体的には「緊急反応」という、ストレス事態に対して身体的な能力を一時的に向上させ、対抗しようとする状態が生じる。
具体的には、血圧や体温が上がり、心拍が早くなるなどの交感神経系の緊張と、アドレナリンの分泌が促進される。このことが、怒りの感情が生起しやすい身体的背景である。
 
 もう一つの分岐点は、欲求阻害状況への耐性である。つまり、自分の運転やクルマに対して求めるものや考えが、他者によって阻害されたときに、その状況にどれだけ耐えられるかということである。
もし耐性が低ければ、暴走、あおりといった危険行為につながりやすいと考えられる。

<iframe class="teads-resize"></iframe>
 
 
<iframe class="teads-resize"></iframe>
 
 
<iframe frameborder="0" scrolling="no"></iframe>

攻撃を行う行為者の内的要素

2018年12月07日 02時17分58秒 | 社会・文化・政治・経済

攻撃を行う行為者の内的要素である攻撃性とは何であろうか。
これまでの研究では,感情としての怒り,態度としての敵意,行動としての
攻撃と捉えられることが多く,攻撃的な思考や関心,感情,攻撃への意欲や願望など,行動や反応が生み出される内的な心理過程を指して用いられ
てきた。
攻撃性の分類も立場により様々であるが,それまで研究されてきた種々の理論を,内的衝動説,情動発散説,社会的機能説の 3 つの立場に大別している。
まず,内的衝動説とは,「攻撃行動を起こす心的エネルギーが個体内にあると仮定される立場」である。
この内発的なエネルギーは,攻撃本能あるいは攻撃衝動と呼ばれてる。
この立場の代表的な理論であるフロイトの攻撃本能説では,攻撃性は死の本能という根源的な衝動から派生したものだと考えられている。
自己破壊衝動である死の本能の外部転化が他者への攻撃衝動となるのであるが,これは自己を守るための必然的な行為であるとされている。
生物学的な視点からも,脳の攻撃中枢は他の生理的本能と同
じようなメカニズムで作動しているものであり,攻撃性は種族の維持と進化に貢献するものであると言われている。
自分が危害に曝されているという認知から生じる回避・防衛的な行為や,負のイメージを拒否し,自己の同一性を守ろうとする印象操作のための行為である場合が多く見られ,制裁・報復,強制,という意味合いを含んでいる場合もある。
ゆえに,不快な情動が攻撃に不可欠であるとはみなしていない。
この立場をとる研究者の多くは社会心理学者であり,代表的な社会的学習理論は,生じた葛藤を解決するために選択された手段が攻撃という危険なものであり,それが何度も繰り返されるうちに,問題解決のための効率的な方法として学習されていくというものである。個人内の認知過程が大きく関係していると言える。
いずれにしても,攻撃性の歪んだ発動は,問題行動として否定的に評価されることが多く,抑制されるべきものであると見なされやすい。
しかしながら,人間は誰しもが攻撃性や残忍さを心の奥に秘めているものであり,日常,意識しないレベルに抑えられ,生のまま表出されることが少ないだけなのである。


人間の攻撃性とは

2018年12月07日 02時05分24秒 | 社会・文化・政治・経済

人間にとっての攻撃とは,どのような事象を指すのであろうか。
攻撃に関する研究は心理学,人類学,生物学,動物行動学等,幅広い分野において行われており,曖昧で多義的な概念として扱われている。
心理学に限定しても,多領域から攻撃性研究がなされており,異なる視点からの定義,
測定方法が報告されている。
攻撃と聞くと,暴力,闘争,非難,中傷等,対象に向けて行われる行為が思い浮かべられ,反社会的なものとして否定的に捉えられる場合が多くある。
一例として,は攻撃を「他者に危害を加えようとする意図的行動」と定義。
「攻撃とは,他者が逃れたい,避けたいと思っているような不快刺激を,その人を傷つけ,損害をもたらすことを期待して加えることである」と定義している。