今年、最後の地区会合が中田さん宅で開かれた。
参加したのは、男性のみ7人。
会合後は食事会となる。
これは年1回のこと。
おでんと、四川料理。
これは元東京新橋の中華料理店で働いていた富田さんが作ったものだ。
みなさん毎年、楽しみしている。
4人の方が車で来たので、日本酒を飲んだのは、3人。
おいしい料理を味わいながら楽しく歓談した。
どうかしている。
お金を引き出すとしたら、3度も暗証を間違える。
窓口に行くと身分証明書の提示を求められる。
リックに入っているはずの健康保険証がない。
仕方なく家人にあずけているマイナンバーカードを取手駅前の郵便局まで持ってきてもらう。
後で自宅で探したが、健康保険証はどこにもない。
再発行の必要性があるようだ。
知人の家の中から犬の鳴き声が聞こえてきた。
「あれ、岩田さんは犬を飼っていただろうか?」と足を止めた。
介護が必要な立場となり、娘さんが時々来ていた。
その後、介護施設に入る。
昨日、メールで岩田さんが12月9日に亡くなり、家族葬をしたことを知る。
また、堀田さんが今朝、救急車で運ばれたことを中田さんから聞く。
癌で闘病中であり、安否を気にかけていた。
「ポストに新聞が溜っていないか」と今朝(午前5時30分ころ)も確認した。
当方は朝の散歩で、一人住まいの高齢者たちの見回りをしているのだが、新聞は溜っていなかった。
救急車で運ばれたのは、午前7時ころであったそうだ。
いずれにしても新聞は是非、購読すべきだ。
また、近隣との交流も不可欠。
堀田さんは隣の方に痛みと苦しみを訴えたそうだ。
買い物も隣の人に頼んでいるのだ。
今年、最後の敢闘会へ、中田さんの車に乗せていただき行ってきた。
月刊誌の巻頭の朗読(二人)の後に、歌の合唱。
ついて、ビデオを鑑賞。
内容は、偶然にも吉田松陰について、このあとの自由発言で初めに使命されたので、当方も吉田松陰についてしゃべる。
ついて、米田さん、佐々田さん、河合さん、米川さんなどが活動報告をする。
春川本部会長が来年の抱負、方向性などを語る。
また、天川圏会長が敢闘会の活動の成果について語る。
それは、みなさんの地域活動の貢献度によるものだった。
終了後に、健康体操(太極拳)。
ビジネスの世界には「地位が人を作る」という言葉があります。
”ある人物をそれなりの役職に就けることで、その人物が実力を発揮する”という意味を持つ言葉です。
この言葉の本質は、ある人物に地位(例えば役職)を与えることで、彼もしくは彼女に責任感やリーダーシップが芽生え、その結果として本来持つ能力以上の力が発揮されるだろうという前向きな期待であり、ある意味、性善説に基づいた考え方です。
人格的に優れている人材に対し、それなりの地位を与えることで「地位が人を作る」効果が生じるのはもちろんですが、人格的に劣っている人材に対しても、地位を与えることは有効だとされています。
いわゆる、専門家、評論家、解説者など。
歴史にもしも、はないのですが、もう少し長く生きていたら、あるいは、正当に評価していたらノーベル賞を授与された人も少なくないと思うのです。
当然、歴史の上ではその後の評価に大きな影響はあったはず。
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商品の説明
内容紹介
日本変革の原動力となった魂の教育者の生涯
高杉晋作、山県有朋、伊藤博文…幕末、維新の英傑が巣立った松下村塾。吉田松陰は、学ぶことにおいては、師も弟子も対等な立場で、共に育つ、という思想を貫徹した。無垢な人間像を感動的に描く。
内容(「BOOK」データベースより)
外国の実情を知ろうと、アメリカ密航を企て、失敗した吉田松陰は萩の獄に幽閉された。しかし、出獄後は小さな私塾「松下村塾」で「誰でも持っている長所を引き出すのが教育である」という信念の下、高杉晋作、山県有朋、伊藤博文など、わずか2年半で幕末、維新をリードした俊傑を生み出した。「魂の教育者」松陰の、信念に基づく思想と教育観を感動的に描く長編。
CSテレビで吉田松陰の特集を観る。
松下村塾はわずか1年。
そこから、明治草創期の要人を輩出したことに、衝撃とも言える驚きがある。
彼らは江戸時代にあって、村の地位・立場もない庶民の若者たち。
しかも、彼らに松下村塾で吉田松陰が教えたのはわずか1年。
1年の教育で与えた影響の深さ、影響の大きな力は何であったのか?
テレビはその答えを導き出した。
教育とは何か?
その命題である。
人の心は、師匠のレベルと、その志の高さに大きく影響される。
つまり、吉田松陰と同じレベルの師匠が日本の全国各地にいたら、明治政府を動かした逸材がそれぞれの各地に誕生したことになるはず。
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吉田 松陰(よしだ しょういん)は、日本の武士(長州藩士)、思想家、教育者。山鹿流兵学師範。一般的に明治維新の精神的指導者・理論者・倒幕論者として知られる。私塾「松下村塾」で、後の明治維新で重要な働きをする多くの若者に思想的影響を与えた。
叔父の玉木文之進が開いた松下村塾で指導を受けた。
9歳のときに明倫館の兵学師範に就任。
11歳のとき、藩主・毛利慶親への御前講義の出来栄えが見事であったことにより、その才能が認められた。
13歳のときに長州軍を率い西洋艦隊撃滅演習を実施。1
5歳で山田亦介より長沼流兵学の講義を受け、山鹿流、長沼流の江戸時代の兵学の双璧を収めることとなった。
アヘン戦争で清が西洋列強に大敗したことを知って山鹿流兵学が時代遅れになったことを痛感すると、西洋兵学を学ぶために嘉永3年(1850年)に九州に遊学する。
ついで、江戸に出て佐久間象山、安積艮斎に師事する。
嘉永6年(1853年)、ペリーが浦賀に来航すると、師の佐久間象山と黒船を遠望観察し、西洋の先進文明に心を打たれた。
安政4年(1857年)に叔父が主宰していた松下村塾の名を引き継ぎ、杉家の敷地に松下村塾を開塾する。この松下村塾において松陰は久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、山縣有朋、吉田稔麿、入江九一、前原一誠、品川弥二郎、山田顕義、野村靖、渡辺蒿蔵、河北義次郎などの面々を教育していった[注 4]。 なお、松陰の松下村塾は一方的に師匠が弟子に教えるものではなく、松陰が弟子と一緒に意見を交わしたり、文学だけでなく登山や水泳なども行なうという「生きた学問」だったといわれる。
没年: 安政6年10月27日(1859年11月21日)
満29歳没
思想: 尊王攘夷
活動: 倒幕