希望は、絶望を分かち合うこと
新生児仮死の後遺症により脳性まひの障害を持つ熊谷晋一郎さん。“
健常な動き”を身につけるため、物心つく前から厳しいリハビリを受けました。
しかしそれは、彼にとって「身体に合わない規範を押し付けられる」という体験でした。成長とともにリハビリをやめ、自分らしいあり方を模索。
大学進学をきっかけに親元を離れて一人暮らしを始め、試行錯誤しながら自立生活を確立していきました。
医学部を卒業後、小児科医となった熊谷さんに、障害を持って生きていくことについてお聞きしました。
子どもの頃のリハビリは壮絶だったそうですね。
物心つく前から厳しいリハビリを受けていました。
私が幼かった頃は“心に介入するリハビリ”の全盛期。脳性まひは身体そのものではなく「脳」の問題であるということが、「心や人格」の問題に拡大解釈されていました。それで、リハビリがうまくいかないのは私自身の努力が足りないだからだと。
意志の問題だから天井なしに目標を設定され、延々と続く“ がんばり地獄”の状態。親やトレーナーに一挙手一投足を監視され、「心」を指導され続けました。
家ではもちろん、定期的に泊りがけのリハビリキャンプに参加するなど、“健常な動き”ができるようにと、自分の身体には合わない動きを強いられるリハビリ中心の生活でした。
けれども、小学生まではリハビリに一日何時間もかけていたのが、成長とともに徐々に減っていき、高校生の頃には体をほぐす程度のストレッチだけで、リハビリキャンプにも通わなくなりました。当初、母は親心から「息子を苦労させたくない」「人並みの体にしてあげたい」という思いがとても強かった。
でも私が成長するにつれ、「この子は絵を描くのが好きらしい」「勉強している時の方が楽しそう」と、リハビリ以外の私の様子にも目を向けるようになりました。
それで「何が何でも健常者のようにしなきゃいけない」という思いは徐々に薄れていったんじゃないかなと思います。
“自立”とはどういうことでしょうか?
写真:熊谷晋一郎さん
一般的に「自立」の反対語は「依存」だと勘違いされていますが、人間は物であったり人であったり、さまざまなものに依存しないと生きていけないんですよ。
東日本大震災のとき、私は職場である5階の研究室から逃げ遅れてしまいました。なぜかというと簡単で、エレベーターが止まってしまったからです。
そのとき、逃げるということを可能にする“依存先”が、自分には少なかったことを知りました。エレベーターが止まっても、他の人は階段やはしごで逃げられます。
5階から逃げるという行為に対して三つも依存先があります。
ところが私にはエレベーターしかなかった。
これが障害の本質だと思うんです。
つまり、“障害者”というのは、「依存先が限られてしまっている人たち」のこと。
健常者は何にも頼らずに自立していて、障害者はいろいろなものに頼らないと生きていけない人だと勘違いされている。
けれども真実は逆で、健常者はさまざまなものに依存できていて、障害者は限られたものにしか依存できていない。
依存先を増やして、一つひとつへの依存度を浅くすると、何にも依存してないかのように錯覚できます。
“健常者である”というのはまさにそういうことなのです。
世の中のほとんどのものが健常者向けにデザインされていて、その便利さに依存していることを忘れているわけです。
実は膨大なものに依存しているのに、「私は何にも依存していない」と感じられる状態こそが、“自立”といわれる状態なのだろうと思います。
だから、自立を目指すなら、むしろ依存先を増やさないといけない。障害者の多くは親か施設しか頼るものがなく、依存先が集中している状態です。だから、障害者の自立生活運動は「依存先を親や施設以外に広げる運動」だと言い換えることができると思います。今にして思えば、私の一人暮らし体験は、親からの自立ではなくて、親以外に依存先を開拓するためでしたね。
小児科医師熊谷晋一郎さん
熊谷 晋一郎(1977年(昭和52年)- )は、日本の医師、科学者。専門は小児科学、当事者研究。博士(学術)(2014年、東京大学)。
東京大学先端科学技術研究センター准教授。山口県出身。
山口県新南陽市生まれ。
新生児仮死の後遺症で脳性麻痺となり、車椅子生活を送る。
小学校・中学校と普通学校で統合教育を経験し、山口県立徳山高等学校、東京大学医学部医学科を卒業。小児科医として病院勤務を経て2015年より現職。