自立とは、依存を増やすこと

2018年12月27日 21時33分18秒 | 社会・文化・政治・経済

希望は、絶望を分かち合うこと

新生児仮死の後遺症により脳性まひの障害を持つ熊谷晋一郎さん。“
健常な動き”を身につけるため、物心つく前から厳しいリハビリを受けました。
しかしそれは、彼にとって「身体に合わない規範を押し付けられる」という体験でした。成長とともにリハビリをやめ、自分らしいあり方を模索。
大学進学をきっかけに親元を離れて一人暮らしを始め、試行錯誤しながら自立生活を確立していきました。
医学部を卒業後、小児科医となった熊谷さんに、障害を持って生きていくことについてお聞きしました。

子どもの頃のリハビリは壮絶だったそうですね。
 物心つく前から厳しいリハビリを受けていました。
私が幼かった頃は“心に介入するリハビリ”の全盛期。脳性まひは身体そのものではなく「脳」の問題であるということが、「心や人格」の問題に拡大解釈されていました。それで、リハビリがうまくいかないのは私自身の努力が足りないだからだと。
意志の問題だから天井なしに目標を設定され、延々と続く“ がんばり地獄”の状態。親やトレーナーに一挙手一投足を監視され、「心」を指導され続けました。
家ではもちろん、定期的に泊りがけのリハビリキャンプに参加するなど、“健常な動き”ができるようにと、自分の身体には合わない動きを強いられるリハビリ中心の生活でした。

 けれども、小学生まではリハビリに一日何時間もかけていたのが、成長とともに徐々に減っていき、高校生の頃には体をほぐす程度のストレッチだけで、リハビリキャンプにも通わなくなりました。当初、母は親心から「息子を苦労させたくない」「人並みの体にしてあげたい」という思いがとても強かった。
でも私が成長するにつれ、「この子は絵を描くのが好きらしい」「勉強している時の方が楽しそう」と、リハビリ以外の私の様子にも目を向けるようになりました。
それで「何が何でも健常者のようにしなきゃいけない」という思いは徐々に薄れていったんじゃないかなと思います。
“自立”とはどういうことでしょうか?
写真:熊谷晋一郎さん
 一般的に「自立」の反対語は「依存」だと勘違いされていますが、人間は物であったり人であったり、さまざまなものに依存しないと生きていけないんですよ。

 東日本大震災のとき、私は職場である5階の研究室から逃げ遅れてしまいました。なぜかというと簡単で、エレベーターが止まってしまったからです。
そのとき、逃げるということを可能にする“依存先”が、自分には少なかったことを知りました。エレベーターが止まっても、他の人は階段やはしごで逃げられます。
5階から逃げるという行為に対して三つも依存先があります。
ところが私にはエレベーターしかなかった。

 これが障害の本質だと思うんです。
つまり、“障害者”というのは、「依存先が限られてしまっている人たち」のこと。
健常者は何にも頼らずに自立していて、障害者はいろいろなものに頼らないと生きていけない人だと勘違いされている。
けれども真実は逆で、健常者はさまざまなものに依存できていて、障害者は限られたものにしか依存できていない。
依存先を増やして、一つひとつへの依存度を浅くすると、何にも依存してないかのように錯覚できます。

“健常者である”というのはまさにそういうことなのです。
世の中のほとんどのものが健常者向けにデザインされていて、その便利さに依存していることを忘れているわけです。

 実は膨大なものに依存しているのに、「私は何にも依存していない」と感じられる状態こそが、“自立”といわれる状態なのだろうと思います。
だから、自立を目指すなら、むしろ依存先を増やさないといけない。障害者の多くは親か施設しか頼るものがなく、依存先が集中している状態です。だから、障害者の自立生活運動は「依存先を親や施設以外に広げる運動」だと言い換えることができると思います。今にして思えば、私の一人暮らし体験は、親からの自立ではなくて、親以外に依存先を開拓するためでしたね。
小児科医師熊谷晋一郎さん

熊谷 晋一郎(1977年(昭和52年)- )は、日本の医師、科学者。専門は小児科学、当事者研究。博士(学術)(2014年、東京大学)。
東京大学先端科学技術研究センター准教授。山口県出身。
山口県新南陽市生まれ。
新生児仮死の後遺症で脳性麻痺となり、車椅子生活を送る。
小学校・中学校と普通学校で統合教育を経験し、山口県立徳山高等学校、東京大学医学部医学科を卒業。小児科医として病院勤務を経て2015年より現職。


互いの命をかけた友

2018年12月27日 20時41分03秒 | 社会・文化・政治・経済

親友となる友は、何人いただろうか?
趣味やスポーツを一緒に楽しんだ友。
目的を共有した<励ましの友>。
さらに<同志のつながり>。
<互いの命をかけた友>。
「走れメロス」のような友情。

走れメロス』(はしれメロス)は、太宰治短編小説

処刑されるのを承知の上で友情を守ったメロスが、人の心を信じられない王に信頼することの尊さを悟らせる物語。

あらすじ

純朴な羊飼いの青年メロス(Moerus)は、十六になる妹の結婚のために必要な品々を買い求めにシラクスの町を訪れたが、町の様子がひどく暗く落ち込んでいることを不審に思い、市民に何が起きているのかを問う。

そして、その原因である人間不信のために多くの人を処刑している暴君ディオニス王(ディオニュシオス1世)の話を聞き、激怒する。メロスは王の暗殺を決意して王城に侵入するが、あえなく衛兵に捕らえられ、王のもとに引き出された。

人間など私欲の塊だ、信じられぬ、と断言する王にメロスは、人を疑うのは恥ずべきだと真っ向から反論する。

当然処刑される事になるが、メロスはシラクスで石工をしている親友のセリヌンティウスを人質として王のもとにとどめおくのを条件に、妹の結婚式をとり行なうため3日後の日没までの猶予を願う。

王はメロスを信じず、死ぬために再び戻って来るはずはないと考えるが、セリヌンティウスを処刑して人を信じる事の馬鹿らしさを証明してやる、との思惑でそれを許した。

メロスは急いで村に帰り、誰にも真実を言わず妹の結婚式を急ぎ、夫を信じて誠心誠意尽くすように言い含め、式を無事に終えると3日目の朝まだき、王宮に向けて走り出した。

難なく夕刻までに到着するつもりが、川の氾濫による橋の流失や山賊の襲来など度重なる不運に出遭う。

濁流の川を懸命に泳ぎ切り、山賊を打ち倒して必死に駆けるが、無理を重ねたメロスはそのために心身ともに疲労困憊して倒れ込み、一度は王のもとに戻る事をあきらめかけた。

セリヌンティウスを裏切って逃げてやろうかとも思う。しかし近くの岩の隙間から湧き出てきた清水を飲み、疲労回復とともに義務遂行の希望が生まれ、再び走り出す。

人間不信の王を見返すために、自分を信じて疑わない友人の命を救うために、そして自分の命を捧げるために。

こうしてメロスは全力で、体力の限界まで達するほどに走り続け、日没直前、今まさにセリヌンティウスが磔にされようとするところに到着し、約束を果たす。

セリヌンティウスに、ただ1度だけ裏切ろうとした事を告げて詫び、セリヌンティウスも1度だけメロスを疑った事を告げて詫びた。

そして、彼らの真の友情を見た王は改心し、2人を釈放するのであった。



団塊世代の結婚適齢期

2018年12月27日 17時03分14秒 | 創作欄

「近所で結婚していないのは、お前だけだよ。肩身が狭いよ。結婚相手はお前には、まだ、いないのかい!」と徹は母親に言われていた。
見合いは、すでに6回もしていた。

医師の娘さんとの見合いもあった。

条件は、一人娘で、母親も居ないので、個人病院の近くのマンションに住み、娘は結婚後も看護婦として働くことであった。

そして、徹には「事務長になってほしい」と言うのだ。

「いいじゃないか。結婚しろよ」と病院経営研究所の川田所長。

だが、相手の方から断りがあり、見合いは成功しなかった。

見合いの日、午後9時まで娘と酒を飲んだ男に父親は「不快感」を抱いたそうだ。

初対面の二人は、<意気投合>したのだが・・・

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1970年、当時は団塊世代の結婚適齢期にあたろ、平均初婚は女性24・2歳。

男性26・9歳であった。
自然な出会いによう結婚の最盛期。
自然な出会いで結婚できないものは、親や職場の上司の紹介によって見合いで結婚していた。
「恋愛結婚でないのは恥ずかしい」とい意識も強かった。


生還

2018年12月27日 16時32分40秒 | 社会・文化・政治・経済
 
 事故概要

 1996年、ロブ・ホール率いるアドベンチャーコンサルタンツ隊、スコットフィッシャー率いるマウンテンマッドネス隊がそれぞれエベレストの山頂を目指していた。

 どちらも隊も「公募隊」と呼ばれるエベレストに登りたい個人が出資し、顧客としてガイドと登る隊であった。

 二つの隊は順調に高度順化を行い、最終キャンプまで辿り着く。

 一行は深夜12時最終キャンプを山頂に向けて発った。

 翌日の午後の2時までの登頂を最終ラインとしていたが、結果からすると間に合わないメンバーがいた。

 山頂に到達できなくても、午後2時になったら下山するべきだったが、メンバーの何人かは山頂を目指す。
ガイドも彼らを抑止せずに山頂に向かった。

 予定の時間を大幅に過ぎてしまったが、隊員は登頂し下山を開始。
 
 午後に5時頃から天候が荒れはじめた。
登頂が遅くなったメンバーはこの吹雪に巻き込まれることに。

何とか最終キャンプまで戻れた者もいたが、ガイドを含め8人が帰らぬ人となった。

 とこれが事故の概要である。
かなり細部を省いているので詳細が気になる人は→(ウィキペディア「1996年のエベレスト大量遭難」をご覧ください)

どうして起こったのか?

 以前の記事【エベレスト登山】商業登山・公募隊に潜む危険性。で指摘しているが、これらの要因が重なり大惨事になったのではないだろうか。

・登山未熟者の参加、登山技術が一定でなかった。
もちろん体力もバラバラ

 山頂アタックでは最終キャンプを深夜に出発し、午前中に登頂、午後明るい間にキャンプ4に戻ってくるのが理想。

 しかしこの事故の記事を読むと、最終組みが山頂に到着したのは、なんと午後の3時過ぎである。

 遅いのはもちろんであるが、前日の12時から活動していたとして、山頂までに15時間費やしたことになる。
山は登るだけではない、下山の体力を考えねばならない。

 登るのに15時間、下りがいくら早いといっても10時間前後かかるとすれば、丸1日24時間の行動になる。
地上でも24時間歩き続けるのは大変だ、体力が削られていくデスゾーンで24時間の継続行動は疲労困憊になるだろう。

 ガイドが顧客の体力をしっかりと把握して、きっちりと下山の支持を出せばこの事故は防げた可能性もある。

 

・多額のガイド料を支払っているために、引くに引けなかった。

 ロブ・ホール率いる、アドベンチャー・コンサルタントの公募隊への参加料は6500ドル(1996年1ドル106円とすると約690万円)を支払っている。

 決して安い金額ではないので参加者はエベレストの頂への執着が強くなる。

 山頂が見えていれば、天候が荒れそうであっても「行きたい!」となってしまうはず。

・ガイドも多額のガイド料を支払われているので「できれば登頂させてあげたい」と考える。

 ガイドは多額のガイド料を受取るので「できれば登らせてあげたい」と思う。

 特にロブ・ホールの隊には前年度参加し登頂できずに、再チャレンジしたメンバーがいた。そのためロブ・ホールは彼を是非に山頂に連れて行きたかった。

 この辺りがガイドの判断を鈍らせてしまったようにも見える。

・ガイドは登頂率が高くなれば、翌年の募集者が多くなる。

 公募隊は競争ではないが、同時期に登っていたスコット・フィッシャー率いる隊とを競合状態になっていたのではないか?

 どちらの隊がより多くの登頂者を生み出せるか?

 当然登頂率の高い公募隊に応募者は集まる。ガイドは一人でも多くの参加者を山頂を踏ませたい。これは公募登山の業ともいえる。

・荒れた天候

 体力がなくて遅くなった者がいても、天候が荒れなければ全く事故が起こらなかった可能性もある。

 下山組は吹雪に巻き込まれ、ルートを見失ったためにキャンプ4まで200mのところで遭難した。天候が荒れずに、ルートを迷わなければ難なくキャンプ4に辿り着けただろう。


1996年のエベレスト大量遭難

2018年12月27日 16時17分21秒 | 社会・文化・政治・経済

今日、放映されたCSテレビで観て知る。
1996年のエベレスト大量遭難(英称;1996 Mount Everest disaster )は、1996年5月に起きたエベレスト登山史上有数の遭難事故の一つ。
5月10日に起きた嵐の影響で8人の登山家が死亡し、その前後も含めると春の登山シーズン中に12人が死亡した。
2014年4月18日に雪崩のため16人が死亡する事故 (en:2014 Mount Everest ice avalanche) が発生するまでは、エベレスト登山史上最悪の遭難事故とされていた。

背景
詳細は「公募隊」を参照
エベレスト登山は、1893年ごろから計画が立てられるようになり、1953年には世界で初めて登頂が行われた。このころは一部の冒険家や国家的プロジェクトによる冒険であったが、バリエーションルートなどの困難な攻略が一巡すると経験を積んだ登山家の攻略対象ではなくなり商業化が進むことになった。
特に1985年に実業家ディック・バスがガイドによる全面サポートを受けた登頂に成功し、その過程を記した「セブン・サミット」を出版すると富豪や高所得者による七大陸最高峰の人気が沸騰。1990年代半ばには公募隊による登山が主流となり、アマチュア登山家であっても必要な費用を負担すれば容易にエベレスト登山に参加できるようになった。
あらかじめシェルパやガイドによるルート工作や荷揚げが行われるため、本来なら必要であった登攀技術や経験を持たないまま入山する登山者が現れるとともに、ルートが狭い場所においては登山家が渋滞し、長時間待つようなことも増えた。
遭難に至る経緯
1996年、ニュージーランドのアドベンチャー・コンサルタンツ社は、1人65,000ドルでエベレスト営業公募隊を募集した。探検家のロブ・ホールが引率して、世界中のアマチュア登山家と共に5月10日に登頂を果たすというツアーで、いわゆる商業登山隊(ガイド3名・顧客9名)であった。
日本人の難波康子も参加した。
他にもスコット・フィッシャー (Scott Fischer ) が引率するマウンテン・マッドネス社公募隊も行動を共にすることになった。
参加者の中には、本来登山には必要ない大量の資材を持ち込んだり、不適切な性交渉を行う参加者がおり、ガイドやシェルパの負担は小さくなかった。
荷揚げの時点でマウンテン・マッドネス社の主力シェルパ、ナワン・トプチェが高所性肺水腫によって重体となり、この処理にシェルパ頭のロブサンが当たったため負担はさらに増加した。
スコット・フィッシャーの隊には、サブガイドとしてロシア人のアナトリ・ブクレーエフ (Anatoli Boukreev) が初参加した。
ブクレーエフはガイドとして十分な仕事をせず[注釈 2]、隊長のスコット・フィッシャー自ら体調不良者をベースキャンプに送り返す等の労働に従事することになり、登頂前すでにスコット・フィッシャーは疲労困憊となっていた。
また、顧客の一人レーネ・ギャメルガードが数度にわたり無酸素登頂を要請したが、これを撥ねつけたため険悪な空気が醸成されていた。
技術、体力ともに稚拙なメンバーの牽引に人手を割かれたことで予定していた山頂までのルート工作が完成しておらず、山頂に向かった人間は予定外の待機や作業によって酸素、体力とも大幅に消耗していた。
また、渋滞を避けるために登頂日を分ける事前の取り決めに非協力的な態度を取った南アフリカ隊や、一旦合意しておきながら翻意する台湾隊もおり混乱が始まっていた。
難波は登山技術と英会話能力に幾分か問題があったようだが、5月10日にサウスコルルートからアタックし登頂に成功した。
これによって同じルートで登頂に成功した田部井淳子に続き、難波は日本人女性で2人目のエベレスト登頂者、及び七大陸最高峰の登頂者となった。
しかし、登頂を果たした時間は、引き返す約束の14時を1時間過ぎた15時であった。後述の通り、難波は生きて下山することは叶わなかったため、「登頂とは生きて帰ってこそ意味がある行為」という考えをもとにすれば、難波のエベレスト登頂は失敗に終わった。
引き返す約束の14時を過ぎて、ロブ・ホールとともに16時30分に登頂したメンバーも2名いたが、2名とも遭難死している。
頂上近くはルートが限られ、他の台湾の公募隊なども加わり、絶壁を越えるような難所では渋滞が発生し時間を浪費した。
隊長のスコット・フィッシャーは自己責任を強調し、14時というリミットには寛容であった。
一方、ロブ・ホールは頂上が前に見えていても14時になったら引き返すように参加者に強く指導していた。

 


ウィーク・タイズ(弱い結びつき)

2018年12月27日 15時18分46秒 | 社会・文化・政治・経済

アメリカの社会学者マーク・グラノヴェッターが提唱した概念。
身近な濃い人間関係より、弱く緩やかな結びつきが、自身にたな価値をもたらすと考えるこのである。

緩いつながり ウィーク・タイズでメンタル不調防げ

友人が勤める会社では『メンター制度』が導入されているそうで、メンターとの会話が仕事や人間関係などの悩みにヒントをもたらしてくれているという。
自社にはメンター制度はないが、メンターのような相談相手を持つにはどうしたらいいだろうか」。
これは、製造業の開発職にあるOさんという方からの相談です。
メンター制度のメリットやメンターの持ち方について、帝京平成大学現代ライフ学部教授の渡部卓さんに伺いました。

◇  ◇  ◇

「メンター制度」を導入する企業が多くなってきました。
厚生労働省でもポジティブ・アクション(女性社員の活躍推進)の一環として「メンター制度導入・ロールモデル普及マニュアル」を作成したり、魅力ある職場づくりを支援する「職場定着支援助成金」の受給条件の1つにメンター制度の導入を加えたりといった動きが進んでいます。

先のマニュアルによると、メンター制度とは、「経験豊かな先輩社員(メンター)が面談(メンタリング)による双方向の対話を通じて、後輩社員(メンティ)のキャリア形成上の課題解決や悩みの解消を援助し、個人の成長をサポートする役割を果たす制度」とされています。

メンター制度はメンティのモチベーションの向上やメンタル面のサポートにつながるだけでなく、メンティへの支援を通じて、メンター自身がマネジメントスキルを学んだり、自身のキャリア形成を見つめたりする機会になるなど、双方向にメリットがあります。
メンターとメンティの組み合わせや相性など考慮すべき点もありますが、社内でメンター制度がある場合は、活用するといいでしょう。

■メンターはできれば社外で見つけよう

自社にメンター制度がない場合は、自分が尊敬できる先輩と、月に1度など定期的にランチをしたり、面談の場を設けたりして、ワーク、ライフ、ソーシャルにまつわる雑談で自由に意見を交わしながら、信頼関係を築いていくといいでしょう。
その際、自分と同じ部署の先輩ではなく、他部署や他部門の人など、普段の仕事とは関わりの薄い人の方が、気兼ねなく話せますし、視野を広げることもできます。
もっと言えば、同じ会社の人では社内の価値観にとらわれてしまうこともあるので、できれば社外に目を向けてほしいと思います。

例えば、自分とは違う業界で活躍している学生時代の先輩や、転職した先輩などと定期的に会ってみるのもいいですし、互いの学びを目的とした異業種交流会や趣味のサークルやイベントなどで知り合った人の中から、尊敬できる、信頼できると思える人を見つけて、相談相手になってもらうのもいいでしょう。

自分の興味や関心に近い学会に参加してみるのもお勧めです。学会というと一般の人には敷居が高いと思われがちですが、学会が主催するセミナーなどに参加してみると、自分の興味のある分野で尊敬できる人と出会うチャンスに恵まれるかもしれません


「華」が必要だ

2018年12月27日 12時01分16秒 | 社会・文化・政治・経済

<才能、運、努力。その三つがってもなれない(小説家に)>
<本物の作家になるには「華」が必要だ>やなせたかし

とにかく本物の作家にならないといけないといことで、脇目も振らずやってきました。

でもね。本は売れないし、原稿は没になるし、小説家としてダメなわけですよ。

苦労しました。そうしたら「エンキョリレンアイ」がヒット。

ようやく「華」がやってきました。

小手鞠るい(こでまり るい、1956年3月17日 - )は、日本の小説家、詩人、エッセイスト。

1982年に刊行された詩集『愛する人にうたいたい』(川滝かおり名義)で、詩人として出発。

1995年に刊行された『玉手箱』で、小説家として再出発。
『欲しいのは、あなただけ』『エンキョリレンアイ』シリーズ三部作、『愛を海に還して』『空と海のであう場所』『別れのあと』『ロング・ウェイ』などの恋愛小説作品で人気を博する。絵本の原作、エッセイ、児童書なども手がけている。
代表作は『誰もいない』『九死一生』『美しい心臓』『アップルソング』など。


出版物販売ピークの半分

2018年12月27日 11時46分09秒 | 社会・文化・政治・経済

売り上げが最高だったのは1996年の約2兆6564億円だった。

2018年の推定販売金額は1兆2860億円。
一方、紙の漫画の単行本の売り上げが、6月ごろから回復。
「娯楽の中心がインターネットなどのデジタルに移ったことが大きい」と出版界に詳しいライターの永江朗さんが市場規模の半減について分析。