世界は存在しない=世界に外部はない
茂木健一郎氏がどこかで言っていたように、軽薄な科学主義は確かに反対である。
科学主義の行きついたところにAIが人類を支配するという妄信がある。
科学絶対主義者は、非科学的なものを一切認めようとしないだろうが、マルクス・ガブリエルが言うように、科学者が対象としている<宇宙>や<自然>は極めて限定的なものでしかない。
<宇宙>という概念は、どれだけ巨視的なパースペクティブであっても、それは《世界》の総てではない。
<宇宙>を対象とする科学は、文学の作品の一語一句を捉えることはできないだろう。
日常生活の些細なあらゆる出来事、コミュニケーション、蓄積されている実践の知(=習慣)を捉えることはないだろう。
それは、<気候>という問題をやるにしても<生命>という問題をやるにしても<人類>という問題でも<世界史>ということでも同じことである。対象はどれだけ大きくても、それは一つのパースペクティブのすぎず、それ自体ですべての《世界》を捉えることはないということである。
それゆえに、<宇宙>は、《世界》よりはるかに小さい。
《世界》はもっと無限なる存在で、人間がその対象を完全に把握できないまでに広がっている。
ゆえに世界は存在しない。
あらゆるものは存在するが、《世界》だけが存在しない。
このガブリエルが言う《世界》とは、「無限」と置き換えてもよいし、「実体」と置き換えてもよい。
要はスピノザの実体と様態の関係である。様態は存在するあらゆるもの、あらゆる事実の総体だが、実体は数えられるものではない。つまり、一なるものでも「全体」でもない。
「総体」すなわち外部も超越的なものもありえない、閉じられた「無限」そのものである。スピノザはさらに属性において、延長と思惟を区別する。そしてこの属性は無限の属性がある。
ただ、人間には延長と思惟しかないのだと。
この思惟、人間の精神とはスピノザにおいては身体の観念とされる。
この「身体の観念としての精神」が、もしかしたら科学主義者には欠けているのではあるまいか。
この観念とは、《世界》=神の観念である。科学主義者は神なるものは排除する。
だが、スピノザが言う神とは、霊的なものや人格神のような類ではない。人間には考えも及びもしない、この世界を動かしている「力」そのものといってよい。
たとえば、どのように生命は動くかは、科学は説明できるが、なぜ生命たるものがあるのかは科学は説明できないだろう。
それは人間の及ぶ領域ではないからだ。それはこの《世界》=神が持つ力そのものであり、神の意図はどこまでいっても不明である。この「力」は、能産的自然であり、コナトゥスであり、世界の無限性を表現するものである。この神への観念、力への観念が、科学にはどこか欠けているのだ。
科学者は自分たちがそれを操れる範囲の世界だけを世界として捉えているようにさえみえる(合理主義)。
アインシュタインがかつて使った表現を借りれば、そのうち人間(合理主義者)は、「神々の嘲笑によって難破させられる」のだろう。
神の実在を巡っては、アインシュタインの「スピノザの神を信じる」という言明が有名だが、さすがはアインシュタインというべきである。
彼はたんに、科学主義を信仰する人間ではなかった。
天才は天才を知るし、何よりも《世界》を知るのである。
たとえば、科学は神話を否定するだろうか。
神話の内容はとても非科学的だと排除するだろうか。
しかし神話はその時代における人間の叡智であり、世界的に起きた出来事、惨劇、人間のやっていいこと悪いことのような倫理観、生存のための智慧を物語として伝えるのであり、神話を作る力、物語を産む力は人間の知性に他ならない。
スピノザは聖書自体を否定したわけではない。
聖書が人間の叡智であることも認めている。
だが、それを哲学=科学と、信仰については明確に分けなければならないとしたのである。
理解が出来ない
本書の内容が愚かなのか斬新なのかが、私には分かりませんでした。
既に私自身が認知して当たり前に捉えているようなことにも感じるのですが、それをなかなか難解な文章で書き連ねてあるので、そうでもないのかなって気にさせられます。
思い出して何か書けと言われても何一つ書きたいことも内容も出てこない。
難しかった。。。
私のような素人には難しいほんでした(笑)
マルクスガブリエルが説く新しい実在論とは!
新しい哲学の原則
世界が存在しないという原則には、それ以外の全てのものは存在しているということが含意されている。
世界は別として、*あらゆるものが存在することになる。
*あらゆるもの
惑星、夢、進化、水洗トイレ、脱毛症、希望、素粒子、月面に住む一角獣等
▪️新しい実在論(ガブリエルの提案)
ポストモダン以降、初めて出来た新しい哲学
今迄の哲学
▪️形而上学
この世界全体についての理論を展開しようとする試み
世界がどのように存在しているか
ここでは私達人間が抹消されている。
例)佐藤さんが静岡にいて富士山を見ている
丁度その時に、私達(この話をしている私とそれを読んでいるあなた)は山梨にいて同じ富士山を見ているとする。このシナリオに存在しているのは、富士山、佐藤さんから見られている富士山、、私達から見られている富士山ということになる。
形而上学の主張によれば、このシナリオに存在している現実の対象は、たった一つだけである。すなわち、富士山。富士山は一方で静岡から、他方で山梨から見られているが、これは全くの偶然であって、富士山にとってはほとんどどうでもよいことである。
これが形而上学である。
▪️構築主義(イマヌエル•カント)
およそ事実それ自体など存在しない。
私達が、一切の事実を構築している。
上記のシナリオには三つの対象が存在している。
佐藤さんにとっての富士山、私にとっての富士山、あなたにとっての富士山である。
これらの背後に、現実の対象など存在していない。
▪️マルクスガブリエルが説く新しい実在論と
は
このシナリオには、少なくとも以下の四つの対象が存在している。
1.富士山
2.静岡から見られている富士山
3.山梨から見られている富士山(あなたの視点)
4.山梨から見られている富士山(私の視点)
なぜ新しい実在論が最良の選択肢なのかは、簡単に理解できる。
富士山が現在の所日本に属する地表面の特定の地点に位置している火山であるということ、これだけが事実なのではない。
論理哲学論考をベースに
明らかに、ヴィトゲンシュタイン「論理哲学論考」をベースに考察されている。
それを知られたくないのか、ガブリエルは最初の方で、物が存在していないのが真、として、ヴィトゲンシュタインの論考を否定しているが、そもそもこの考察自体に間違いである。
最初の段階でヴィトゲンシュタインが出て以降、出て来なくなるのは、ヴィトゲンシュタインをベースに考えられたのをあまり悟られたくなかったのだろう。
その点は、計算高く、少しイラッとさせられた。
それでも、色々考察させられ、多角的に物事を捉えている書ではある。
ポストモダンの実在論
形而上学および構成主義を超える新実在論,ということなのだが,通読すると何かしら既視感のようなものを感じる.
近年様々な哲学論者によって論じられてきた内容がまとめられているということなのだろうが,それがここまで平易に概括的に書き切られている点に本書の価値があると思う.
いかなるものも,何らかの意味の場に現象するがゆえに存在する.
すべてを包摂する意味の場が存在しえない以上,限りなく数多くの意味の場が存在するほかない.という論旨.
新しい世界
たとえこの世が幻想であったとしても人は正しく立ち回らなければならない。
映画「マトリクス」の世界で・・・
哲学的にそれほどインパクトがあるとは思えないが、それなりに読む価値はある。
「なぜ世界は存在しないのか」、は一応わかりました。
著者によると、
①「存在する」とは、あるものが「なんらかの意味の場において現象する」ということである。
②一方(やはり著者によれば)「世界」というのは、「あらゆるものを包括する全体」である。
③「あらゆるものを含む全体」が「なんらかの意味の場において現象する」ことはあり得ない(なぜなら、「あらゆるもの」という以上、その「場」そのものも「世界」に含まれているはずなので、世界がそれ自体が含む「場」において現象する、ということはあり得ないから)。
④よって「世界は存在しない」
以上証明終わり。。。
何か数学の「集合論」みたいな趣もありますがね笑 要するに、世界というのはあらゆるものを包括しているがゆえにあまりにも「大きすぎる」ので、意味のある形では認識し得ない。
よって事実上「無」(著者は「無以下」と言っていますが)であり、言い換えれば「存在しない」ということになる、わけであるようです。
ここで我々?のような「仏教文化」に親しんでいる者たちにとってすぐに思い至るのが、「そのような極大的に大きな世界というのが、まさに仏教で言うところの〈無〉なのではないか」ということですが、かなりの博学であるらしい著者は、少なくともこの本ではその点については一切触れていません。
仏教ではまさに「あらゆるものを包括するものとしての無」の認識に達するということが一つの目標?とされていると思いますが、著者のガブリエル氏はそれを「哲学的には無意味」としてあっさり切って捨てている、ということになるのでしょうか。。
以前、fb友のHさんから「あるフランスの哲学者?が、ヨーロッパでは今や仏教はあまり有意味なものとはされていないのが主流?と言っていた」という話をお聞きしましたが、ひょっとしたらそれとこの話はちょっと関連しているのかな、とも思いましたが。
で、「世界」が存在しないのなら一体何が存在するのか?
著者は自らの立場を「新しい存在論」と呼び、ポストモダン的な「一切は仮象である」というようなある種のニヒリズムを否定します。
著者によれば「存在しない」世界の中においては(なぜか)無数の「対象領域」が存在していて、その中のおいて現象しているものは「仮象」ではなく本当に「存在して」おり、我々は(その対象領域内において)その「存在自体」を把握することができる(ここが実在論)のだということ。
つまり、例えばある文脈において我々がリンゴを見るとき、その「見られている」ところのリンゴは間違いなく「存在」している。
しかしそれはあくまで文脈であるところの「対象領域」内における存在ということであって(この対象領域というのは、例えばリンゴを美的な方向から見ている、とか腹が減ったという方向から見ている、といったようなことだろうと思われますが)あらゆる対象領域を通じた最も広範な「リンゴそのもの」というのは存在しない。
なぜならそれは「世界」全体の中で現象するということだが、その「世界」が存在していないので「リンゴそのもの」もあり得ない、ということ。
更に進めて、著者は、小説のような全くのフィクションの中において登場してくるものすらその「対象領域」内において真に「存在する」のだ、ということも主張していきます。
要するに「あらゆるものを包括する世界」は存在しないが、その代わりに無数の「対象領域」は存在し、そして各対象領域(それがどんな突拍子もないものであれ)において様々なものが「本当に存在している」のだ、というのが「新しい実在論」、ということのようです。
しかし果たして「存在する」というのを「何らかの意味の場において」現象する、というところに限定してもいいのか?という疑問がありますね。
そうなると先に言ったように仏教的な思考などは全部「意味がない」ということになってしまいます。
確かに「無としての世界」をベースとして整然とした哲学体系を作っていくのは難しいとしても(西田幾多郎などはそういうことをやろうとしたのかもしれませんが、かつて「絶対矛盾の自己同一」という概念?を聞いた西欧哲学者は「意味がない」と一刀両断したそうです)認識ではなく、ある種の極限的意識状態としての「存在」というものの扱いを完全に放棄してしまっていいのか、というようには思います。
まあ哲学理論的には意味あるものとして語れない、ということであればわからなくはないが、「存在しない」とハッキリ言ってしまうとちょっと窮屈すぎるかな、という感じはしますね。
あと、結局「世界は存在しない」ということによって、哲学的にはどのような新しい「地平」が開けるのか、というのもちょっと疑問です。
著者によれば、それによって「意味の炸裂」が起こり、人生を前向きに(いい意味での)「喜劇」と捉えて明るく創造的に?生きることができる、というようなことを言っていますが、どうもそのあたりの「哲学的なインパクト」はちょっと弱いな、という感じはしました(著者はキャラ的にアメリカ文化のような明るい前向きなものが好みらしく、特にドイツ的な慇懃なペシミズムというのが嫌いなようです)
しかしどうして著者はここまで「世界は存在しない」ということを力説しなければいけないのか?
この本を読むとよくわかりますが、とにかく著者は「科学主義的一元論」というのが我慢ならないらしい。
つまりあらゆる現象は素粒子あるいは「ヒモ」の振動に無機的に還元され、我々の認識も全部「脳内ニューロン」の働きによって説明できる云々といった「世界」観を否定したい、という動機を強く感じますね。
要するに「世界は存在しない」、というよりは「科学的世界観」というのは一切を包括し得る本当の「世界」ではない、なぜなら「世界そのものが存在しない」のだから、ということが言いたいのではないかと感じました。
科学的「世界」というのも一つの「対象領域」にすぎず、それはゲーテの「ファウスト」が作り出している「対象領域」と同列なものなのである。
総じて言えば、前半は結構知的な緊張感があって面白かったが、「応用編」?の後半は単なる著者の好みが滔々と述べられている、という感じでやや退屈だったかな、という印象。
特に芸術論などについては「まだ若いな」という感じもしましたね笑
私自身の興味関心としては、私はまさに「あらゆるものを包括した全体」としての立場から創作しようとしているので、当然「それが存在しない」という著者の主張は受け入れられません。
(まあ「仏教文化圏」の一員として、ということでもありますが)。
実際、創作においては「あらゆるもの」をベースとした形で現実に何物かが「産まれてくる」という現象を実感しているので、それが「存在しない」と言われても、そうですか、というわけにはいきませんね。
もっともそれが果たして受け取る側にとって「有意味な形で」現象しているのかどうか、という点については色々と考えていくべきところがあるような気もします。
もっとも私は別にテツガクをやっているわけではないので、それが「認識」的に有意味なもの、でなくても別に構わないのですが、限りなく「あらゆるもの」(すなわち「世界」そのもの)の中において「広がり切った」形で存在しているものを書く(あるいは描く)ということの意味を再考するいいきっかけになった、とは思います。