元阪神・横田慎太郎さん死去、28歳 昨年3月に脳腫瘍が再々発 家族に見守られて旅立つ

2023年07月18日 22時34分18秒 | 野球

7/18(火) 20:00配信 >

阪神で14年から6年間プレーし19年に現役引退した横田慎太郎(よこた・しんたろう)さんが18日、死去した。 28歳。鹿児島県出身。 現役引退の原因にもなった脳腫瘍が昨年に再々発。治療を終えて今春から療養に入っていた。現役時代は持ち前の全力プレーでファンの心を揺さぶり、引退試合では“奇跡のバックホーム”で感動を呼んだ。近年は自身の経験を伝える講演活動に力を注ぐなど利他の心でセカンドキャリアも邁進。多くの人に勇気を与え、記憶にも刻まれた“背番号24”が静かに旅立った。 横田慎太郎は、いつまでも変わらない“全力疾走”で太く短い生涯を駆け抜けた。17年に発症し、引退後も脊髄に転移した脳腫瘍が再々発したのは昨年3月。今春には治療を終えて、療養に入っていた。  

息を引き取ったのは18日午前5時42分。

横田さんが愛し、尊敬し、支えられてきた父・真之さん、母・まなみさん、姉・真子さんの家族に見守られながら静かに旅立った。

療養期間中は毎日、両親が寝食をともにしてサポート。

真子さんも可能な限り時間をともにした。時には涙もあったが「最後は明るく送り出してあげたかったんです」(まなみさん)と笑顔を絶やすことなく、最後の時間を家族揃って過ごすことができた。  

短くて1週間、長くて2週間と余命宣告されたのは5月中旬。

母・まなみさんが「慎太郎は本当によく頑張ったと思います。生きたいという思いがあったんです。何度も良くなって、回復して。本当に頑張りました」と明かしたように「生きる」ということを最後まで諦めなかった。

は背番号24のプレースタイルそのもの。

月9日、28回目の誕生日を迎えられたことが何よりの証明になった。  

プロ6年間は一瞬の輝きと、長い苦闘で占められた。

13年ドラフト2位で鹿児島実から入団。

走攻守3拍子揃った大型外野手で次代の中軸候補として期待された。

を浴びたのは高卒3年目の16年。

当時の金本知憲監督がそのポテンシャルに着目し、春季キャンプの1軍メンバーに抜てき。

実戦でライバルを圧倒する結果を残し、2番・中堅で3月25日のDeNA戦の開幕スタメンに名を連ね、その試合でプロ初盗塁を記録。

2戦目にはプロ初安打もマークし、この年は1軍で38試合に出場した。  

だが、更なる飛躍を期した17年2月に頭痛の症状などを訴えて脳腫瘍が判明。

18時間にも及んだ計2度の手術など約半年の闘病を経験した。

同年9月に選手寮の虎風荘に戻って復帰を目指すことを宣言。ただ、視力低下という厳しい後遺症に苦しみ19年9月に現役引退を決断した。

引退試合となった同26日のウエスタン・リーグ、ソフトバンク戦では途中出場で中堅守備に入ると、二塁走者の本塁突入を阻止する“奇跡のバックホーム”でラストプレーを飾り、チームメート、ファンの感動を呼んだ。  野球を愛し、野球に生きた男。療養期間中には現役時代のチームメートの名前を口にすることが多くなったという。病魔におかされても、タイガースのユニホームを着て高校時代から憧れの場所だった甲子園でプレーした6年間は宝物の記憶としてずっと横田さんに残った。

引退後のセカンドキャリアは自身の経験を伝える講演活動に力を注いだ。

「苦しんでいる誰かの力になりたいんです。諦めなければ何かが起こるということを伝えたいんです。何か1つでも良いので目標を持っていればうまくいくと思う」。

そんな言葉を全国の人に投げかけ、多くの脳腫瘍患者、その家族に活力、勇気を与えてきた。

人生の第二章で野球とは違う生きがいを見つけたからこそ病状が悪化していた昨年も12月までリモートでの講演活動を継続。
右目が失明し、両手をついて階段を上り下りしてまでも会場に駆けつける時もあった。

引退後だけで2度の再発という過酷な現実を前にしても「利他の心」を失うことなく前進した。

「一緒に乗り越えましょう!」  昨年に入って講演の参加者にはそう呼びかけるようになったという。大好きだった野球、そして生きること…すべてを決して諦めなかった。だからこそ、最後は拍手を送りたい。横田慎太郎に「ありがとう」を込めて。  

(遠藤 礼)

 

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サマーナイトフェスティバル三連覇を果たした松浦悠士

2023年07月18日 22時19分52秒 | 未来予測研究会の掲示板

超一流選手ふたりの“サプライズ連係”が完璧に機能「レベルが違うとしか言いようがない」/函館競輪G2・決勝

配信

現役時代はKEIRINグランプリを3度制覇、トップ選手として名を馳せ、現在は評論家として活躍する競輪界のレジェンド・山田裕仁さんが函館競輪場で開催された「サマーナイトフェスティバル」を振り返ります。
 
◆2023年7月17日(月)函館12R 第19回サマーナイトフェスティバル(G2・最終日)S級決勝
 
※左から車番、選手名、期別、府県、年齢
脇本雄太(94期=福井・34歳)
松浦悠士(98期=広島・32歳)
新田祐大(90期=福島・37歳)
④佐々木悠葵(115期=群馬・27歳)
⑤山田英明(89期=佐賀・40歳)
⑥神山拓弥(91期=栃木・36歳)
⑦松井宏佑(113期=神奈川・30歳)
⑧山口拳矢(117期=岐阜・27歳)
⑨平原康多(87期=埼玉・41歳) 【初手・並び】 ←④⑨⑥(関東)③(単騎)⑦(単騎)⑧(単騎)①②⑤(混成) 【結果】 1着 ②松浦悠士 2着 ①脇本雄太 3着 ⑦松井宏佑 ◆自力選手が多いレースは「波乱」が起こる
 7月17日には北海道の函館競輪場で、「夏のナイタービッグ」第19回サマーナイトフェスティバル(G2)の決勝戦が行われています。
出場の選考基準から、自力選手の比率が通常よりも格段に多いというのが、このシリーズの大きな特徴ですね。マーク選手が少ないので、自力選手同士の連係がおのずと増える。
その結果、展開に「幅」が出て、波乱決着が多くなるんですよね。面白いのですが、同時に非常に難しいシリーズといえます。  
3日間の短期決戦で、今年は9名のS級S班がすべて出場。このうち決勝戦まで勝ち上がったのは、平原康多選手(87期=埼玉・41歳)と新田祐大選手(90期=福島・37歳)、脇本雄太選手(94期=福井・34歳)、松浦悠士選手(98期=広島・32歳)の4名でした。
脇本選手は、初日が一番時計で2日目にはバンクレコードタイの上がりをマークと、仕上がりのよさが目立っていましたね。  同様にデキのよさが感じられたのが、つい先日の小松島記念で優勝していた松浦選手。
準決勝では、後方らの仕掛けで前を叩ききった古性優作選手(100期=大阪・32歳)を中団から一気の脚で捲り、1着で決勝戦に駒を進めてきました。古性選手に疲れがあったのかとも感じましたが、最終日に1着をとった力強い走りから考えるに、松浦選手の調子が本当によくなってきていると考えたほうがよさそうです。
◆多くのファンが驚いた脇本選手と松浦選手の初連係  その松浦選手ですが、決勝戦ではなんと脇本選手と初連係。
これまで“最強”脇本に真っ向勝負を挑んできたイメージがあるだけに、この選択には多くのファンが驚かされたことでしょう。先頭が脇本選手で、番手を回るのが松浦選手。西の混成ラインの3番手は、山田英明選手(89期=佐賀・40歳)が固めます。
この総合力の高いラインに対して、ほかのラインや選手はどのように立ち向かうのか。そこが決勝戦の大きな見どころですね。  
二分戦となった決勝戦で、もうひとつの3車ラインが関東勢。その先頭は、佐々木悠葵選手(115期=群馬・27歳)に任されました。
現在の佐々木選手は「先行する場合もある」といった感じなので、積極的に主導権を奪いにいくようなレースをするかは微妙なところですよね。
番手は、決勝戦まで勝ち上がったものの、まだ本調子には遠そうな平原選手。ライン3番手は神山拓弥選手(91期=栃木・36歳)です。  
そして単騎を選んだのが、新田選手と松井宏佑選手(113期=神奈川・30歳)、山口拳矢選手(117期=岐阜・27歳)の3名。
いずれも強力なタテ脚の持ち主で調子も悪くありませんが、そのタテ脚をどう使って勝負するかが難しい。二分戦であることや、脇本選手のデキが非常にいいことなどから考えるに、前がもつれるような展開になる可能性はかなり低そうですからね。  それではここからは、決勝戦の回顧に入っていきましょう。
スタートの号砲が鳴って、最初に飛び出していったのは6番車の神山選手。これで、関東勢の前受けが決まります。その直後の4番手につけたのは単騎の新田選手で、その後ろも松井選手、山口選手と単騎の選手たちが並びます。注目された脇本選手は、初手7番手から。この並びだと、レースが動き出すのはかなり遅めになりそうです。
 初手の並びが決まってからは淡々と周回が重ねられ、まったく動きがないままで赤板(残り2周)のホームを通過。先頭の佐々木選手は後方を何度も振り返って、脇本選手の動きを確認していましたね。その脇本選手が動いたのは、1センターから2コーナーにかけての地点。鋭いダッシュで加速していきますが、先頭の佐々木選手もそれに合わせて、一気に全力モードで前へと踏み込みます。  
そして迎えた打鐘。突っ張り先行で主導権を奪おうとする佐々木選手に対して、脇本選手は少しだけ流し気味に、打鐘後の2センターを回ります。脇本選手の後ろには、松浦選手がぴったりと追走。しかし、ライン3番手の山田選手がここで立ち後れてしまいました。その隙を見逃さなかったのが、内にいた松井選手。飛びついて山田選手を捌きながら加速し、松浦選手の後ろのポジションを確保します。 ◆レベルが違うとしか言いようがない脇本選手のスピード  脇本選手は、4コーナーを回ってから再加速。「レベルが違う」としか言いようがないスピードで、最終ホームで佐々木選手にあっさりと並び、最終1センターでは脇本選手、松浦選手が完全に出切ってしまいます。
その後ろにつけていた松井選手は、平原選手に内からブロックされて外に膨れますが、なんとか態勢を立て直して松浦選手の後ろに復帰。脇本選手に軽々と乗り越えられた佐々木選手は、早々と失速してしまいます。  
佐々木選手の番手にいた平原選手が今度は前を追い、その外からは単騎で捲りにいった新田選手が接近。しかし、抜け出している3車との差は、最終バックになってもなかなか詰まりません。隊列に大きな変化がないままで、最終2センターを通過。外から捲りにいった新田選手はここで力尽き、内にいる平原選手が伸びてくる気配もありません。これはもう完全に、「前」で決まるレースです。
 直線に入っても脇本選手が先頭で粘っていますが、外に出して差しにいった松浦選手の伸びがいい。そこから少し離れて松井選手が前を追いますが、一気に前を捉えられるようなスピードではありません。その後ろからは、新田選手の後ろにいた山田選手や、最後方でじっと脚をタメていた山口選手がいい脚で伸びてきますが、残念ながら時すでに遅し。届いても3着までという状況です。  勝利の女神が微笑んだのは、ゴール手前でグイッと伸びて脇本選手をキッチリ差した松浦選手。これでなんと、サマーナイトフェスティバル三連覇という大記録の達成です。果敢に逃げた脇本選手が2着に粘り、3着に松井選手。4着は、最後の直線でいい伸びをみせた山田選手と山口選手の同着という結果でした。初連係で見事に結果を出した、脇本選手と松浦選手がとにかく強かったですね。
 デキのいい脇本選手が主導権を奪う展開になれば、こういう結果になるのは自明の理。そうはさせまい…と佐々木選手は打鐘前から全力で踏んでいるんですが、結果的に早仕掛けを「誘われた」ような感がありますね。脇本選手が少し流していた区間でも佐々木選手は全力でしたから、そのぶんスタミナの消耗が激しい。仕掛けをキッチリ合わせたようで、実際はズラされているんですよね。  
初手では後ろ攻めを選び、前受けをさせた脇本選手をいったん斬ってポジションを下げさせる…というレースの組み立てのほうがよかった気もしますが、そこから先にどうなっていたかについては、完全にタラレバの世界。脇本選手のデキのよさを考えると、この場合でもあっさり叩かれる結果に終わったかもしれません。そう感じてしまうほど、このシリーズでの脇本選手は仕上がっていましたから。  
レース後のコメントによると、実際そこに飛びついた松井選手だけでなく、山口選手も「松浦選手の後ろ」を狙っていたようですね。確かに、中団に位置した単騎の選手が考えるのは、松浦選手や山田選手のポジション奪取。脇本選手のダッシュについていけずに口があくようなら…と考えていたでしょうが、松浦選手は付け入る隙をまったくみせなかった。さすがは超一流の選手ですよ。  
他地区の選手との連係であるにもかかわらず「誰が付いても自分のスタイルは変えない」と、差されるリスクを厭わず積極的なレースをした脇本選手。そんな脇本選手のスピードに、初連係でありながらピタリと離れずについていった松浦選手。今年のサマーナイトフェスティバルは、この即席コンビの「完勝」で幕を閉じました。次のビッグは、西武園でのオールスター競輪(G1)です。  
デキのいい脇本選手に対抗するには、「主導権を奪わせないこと」「後方に置く展開をつくり出すこと」が不可欠だと、トップクラスの選手は改めて感じたことでしょう。その強さを連係というカタチで体感した松浦選手が、次なる大舞台ではどのような戦略や戦術をもって脇本選手に挑むのか。そういった視点からも、来月のオールスター競輪がさらに楽しみになりましたね。

映画 ショーガール

2023年07月18日 11時26分26秒 | 社会・文化・政治・経済

7月17日午前3時30分からCSテレビのザ・シネマで観た。

Showgirls)は、1995年アメリカフランス合作映画。ポール・バーホーベン監督。

アメリカでは劇場公開時に過激な暴力シーンや性的シーンが問題となりNC-17指定で公開された。

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あらすじ

スターダンサーを夢みるノエミは憧れと自信だけを胸に、ショービジネスの都ラスベガスへとやってくる。

金がなく、ノエミはヒッチハイクでラスベガスへ行こうとする。

ジェフの前に飛び出しナイフを突きつけて警戒するが、ジェフに「そういうことなら降りてくれ、刺されたくない」と言われると、やむを得ずノエミはナイフをしまう。

目的地に着くとジェフに「自分の叔父に言って仕事を紹介してやる、叔父を探してくるから待ってろ」と言われ、それを信じたノエミは待っていたが、いつまでたっても来ないので駐車場に行くとその男の車が自分の荷物ごと消えていた。

そこへモリーと出会い、仕事が見つかるまで自分の家にいてよいと言われ、ノエミはありがたくその提案を受け入れる。ただ、モリーも低所得者で、フラットとも言えない安普請に住んでいた。

まずノエミはナイトクラブで働き始めるが、クリスタルがザックと共にそのナイトクラブに現れ、「プライベート・ダンス」をやって見せろという。ノエミは女はお断りというが、そこの店長が500ドルで請けてしまい、やむを得ずノエミはプライベート・ダンスという性的サービスをザックにする。

しばらくして、スターダスト・ホテルのフィルがノエミのところに来て、明日のオーディションに招待する。ノエミが行ってみると、トニー・モスが待ち受けており、乳首を氷で固めろと言い出すので、ノエミは怒って帰った。しかしオーディションの結果は合格で、喜んでノエミはスターダスト・ホテルのダンサーとして、働き始める。

しかし、親友で恩人のモリーがホテルが招いたアンドリュー・カーバーというアーチストと仲間に強姦されてしまう。ノエミは憤慨し、ザックに警察はまだ来ないのかと言うが、ザックは警察沙汰にはしないという。怒ったノエミは公衆電話で警察を呼ぼうとするが、ザックに「ポリー」と自分の本名を言われ、自分で電話を切る。

それからザックに自分のことをすべて調べあげたことを聞かされる(別のクラブで騒ぎを起こしてクビになったこと、ノエミ(本名ポリー・アン・コステロ:Polly Ann Costello)の父親が妻を殺し、その後自殺したこと、オークランド(ニューヨーク出身と偽っていた)を1990年12月に逃げ出したこと、等)。

そしてノエミは仕事を辞め、ラスベガスから別の場所に移ることを決意する。

キャスト

主人公。スターダンサーという夢を持ち、それを叶えるためにラスベガスにやってきた。
クリスタルの恋人。
ノエミのマネージャーとなる黒人女性。
ノエミをヒッチハイクしたが、荷物を盗んで彼女を置いてけぼりにしたが、ラストでノエミが旅に出かけるときにヒッチハイクした車が彼であり、仕返しをくらうこととなった。

評価

1995年のゴールデンラズベリー賞(ラジー賞)で13部門ノミネート、最低作品賞・最低監督賞・最低脚本賞・最低主演女優賞・最低新人俳優賞・最低主題歌賞・最低スクリーンカップル賞の7部門制覇(後に2000年の特別賞である1990年代最悪作品賞も受賞)した。

ラジー賞を受賞者が受け取ったのはビル・コスビービル・コスビーのそれ行けレオナルド』以来8年ぶり。

実際に受賞会場に現れたのはバーホーベンが史上初となる

ほかにも「この十年のワースト作品賞」受賞、「この二十五年のワースト・ドラマ作品賞」ノミネートなどワースト映画賞を総嘗めにしている。

またバーホーベン自身もこの作品を自虐的に捉え、一時期は「『ショーガール』の後ならもう怖いものはない」と公言していた。

影響

スクリーム2』の劇中、犯人が学生に「この世で最も怖いホラー映画は?」と尋ね、学生が『ショーガール』と答える場面がある。

本作と同じくジョー・エスターハスが脚本を担当した『アラン・スミシー・フィルム』では、作中登場する映画について「最低さ。ショーガールよりひどい」というセリフがある。 しかも『アラン・スミシー・フィルム』も評価は散々で、エスターハスはまたしてもラズベリー賞を受賞してしまった。

 

 

ここまでやるか

全編の8割がエロダンス(印象。実際にはそこまで占有率高くない)。

ゴージャスな場面の連続です。

ラスベガスのショーって見たことないですけど、本当にこんなことやってるんでしょうか。

一種のカルトムービーだと思います。  

お話はよくある成功譚で、無名の女が成り上がっていくというもの。

だけどさすがジョー・エスターハス、捻りに捻ったシナリオです。主人公の出自が背景になって、ベタベタの展開。

娯楽性はたっぷりです。オーラスのまとめ方はちょっとショボかった。

チンピラのコソ泥なんて、スルーすれば良かったと思いました。

ポール・バーホーベンの演出はこれでもかと押してきます。ゲップが出そう。でもこれが映画。活動大写真の時代から “見せ物” なのですから。

 

バーホーベンにしか作れない成り上がりモノ

ラスベガスにやって来た1人の女性ノエミが、ストリッパーのトップになるために努力するという、仕事は特殊だがよくある夢に向かって努力する映画です。

しかしよくあるといっても、監督はバーホーベンであるため、他の映画と一線を画していて、女性同士の嫌な部分や男性の愚かで汚い部分を赤裸々に描いています。

 

エロチズムなダンスショーとして、批判を浴び、興行成績が乏しく当時のラジー賞の最多として話題になった作品。
8割がた、アクロバット的なダンスがメインな本作だが、今見たらすんなり受け入れた自分がいた。
あの当時としては、ファッションもパフォーマンスも、あまりにも過激として批判されていたが、Lady Gagaのバッドロマンスのライブで披露した、ライブパフォーマンスに近いのでは、と思う。
最近の洋楽PVでは、パフォーマンスやファッションでエロを追求したアーティストも出てきているし、歌詞もエロとしてドギツイ曲もある。 今の世代の人が見たら、すんなり受け入れ入れられるのではないか?
 
 
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死者との対話 

2023年07月18日 11時07分07秒 | 社会・文化・政治・経済
 
 
作家として政治家として活躍してきた著者も齢八十七を迎えた。
忍び寄る死の影をも直視しつつ綴った珠玉の七編を収録した最新短編集。
 
 内容(「BOOK」データベースより)
インパール作戦で多数の戦友を失った男が戦後にとった行動とは?(『暴力計画』)。
死に直面する作家が自在なリズムで自己と対話する(『‐ある奇妙な小説‐老惨』)。
末期患者と看護人の間に芽生えた奇妙な友情(『死者との対話』)。
ある少女を襲った残酷な運命(『いつ死なせますか』)。切れ味の鋭い掌編の連打(『噂の八話』)。
「これは私の一生を通じて唯一の私小説だ」(『死線を超えて』)。
ヨットレースを引退した男の胸に去来するものは(『ハーバーの桟橋での会話』)。
齢87を迎え、死と直面する自らをも捉える作家の冷徹な眼―珠玉の七編。
 
著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
 
石原/慎太郎
1932年、神戸市生れ。一橋大学在学中の1955年に「太陽の季節」で衝撃的なデビュー。翌年、芥川賞を受賞。
数多くの作品を執筆する一方、1968年に参議院議員に当選。
後、衆議院に移り環境庁長官、運諭大臣などを歴任。
1995年、勤続二十五年を機に国会議員を辞職。1999~2012年、東京都知事を務める。
2014年、政界引退(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
 
 

本書は2016年8月から2020年1月までの間に、雑誌「小説幻冬」と「文学界」に掲載された著者の7つの短編小説を一冊に纏めたものである。本書の題名は「死者との対話」となっているが、本書のための書下ろしではない。
七つの短編の筋立てについては、すでに他にレビューアーの方が纏めておられるので、本書を貫く著者の精神状態について書いてみます。
文学界、政界に活躍、最後は東京都知事として都の財政を立て直した功績は大きいが、すでに著者も87歳、死について色々考えを巡らせているようだ。
著者が82歳の時に高倉健が82歳で亡くなった。インタビューで「みんな逝ってしまうんだなぁ。」といった寂しそうな言葉が忘れられない。
本書の七つの短編もいずれも死について色々考えを巡らせた小説である。
河合隼雄さんの著書などを参考にして「死後の世界はあるのか。」などと考えているが、どうしても行き着くところは「死=無」というところで、いくつかの作品でも死後の世界について考察を巡らせている。
これほどの大物でも、やはり「死は怖い」のだなと、ひしひしと感じさせてくれる。

私は著者より2歳ほど若いが、同じく死について考えなければならない年齢である。
遠藤周作も、アメリカの女優シャーリー・マクレーンも、なんとか死後の世界を信じて人生を生き抜く糧にしたが
慎太郎の心はまだ揺れ動いている。
著者は湘南育ちで若いころは趣味のヨットにのめりこんでいたが、この小説でもヨットについてよくでてくる。
実際にヨットに乗った人でなければ分からないような用語が沢山出てきて戸惑うが、筋が分からなくなるほどではない。
著者和大学生時代に「太陽の季節」で、当時としては最も若い芥川賞受賞者となったが、その後、映画監督、映画の主演(若い時には弟の裕次郎よりはハンサムだった)、国会議員、都知事と波乱万丈の生活を送ったが、数年前に脳梗塞にやられ、手足が一部不自由である。
そのさなか、小池都知事に、築地市場の豊洲移転問題の最終決定者として都議会に不自由な体で引っ張り出され、その屈辱はいかばかりかと思う。
最近は美木良介氏の「ロングブレス健康法」などに凝っているようだが、もっともっと長生きして活躍されんことを切に願う。
 
 
 
石原慎太郎氏の主要とされる小説をおおむね読んだなかで、個人的には本書が最高傑作。
『老惨』では、石原慎太郎っぽい主人公が、声の出なくなった晩年の立川談志に電話で一方的に暴言を吐き、ぜえぜえ息の音だけが返ってきたというエピソードを、あれは最後の良い会話だったみたいな書きかたをしていて粋だなと感じる。
『暴力計画』、『いつ死なせますか?』の素晴らしい読後感。
一流のエンタメでありながら深みもある。しかも平易な文体。
すらすら読める文章はこの世代の文学者ではかなり珍しい。
スピード感を生むための独特な反復、極端にいうと「頭痛が痛い」的な表現が、単に悪文ということで片付けられるのはもったいない。
この文体には度胸やサービス精神を私は感じる。
 
 
 
 2016/1月、作者が田中角栄と和解したかに思える「天才」を読んで以来になりますが、「死者との対話」(石原慎太郎 文藝春秋)を読みました。「死」と対峙する7つの短編が収録されています。
 「暴力計画」
 ビルマ、インパール作戦の生き残り。
そもそも兵站が不足していた戦争に勝利はない。間接的であれ「玉砕」を命じた上官への復讐。
そして、友への埋め合わせ。あらゆる罪は、埋め合わせなくして昇華することはありません。
たとえそれが、いかに空虚なものだったとしても。
 「ーある奇妙な小説ー老惨」
 作者の私小説。「ファンキー・ジャンプ」と聞いただけで、胸がおどります。
「死」は、考えたあげくに否認し、怒りに変わり、落ち込み、沈思の果てにそのことを許容することになるそうですね。
それは、大切な人を失った時にとてもよく似ています。軽く書いているように見えて、侮れない一篇だと思います。
 「死者との対話」
 鬱病の作曲家とその介護をする私、そして大いなる海。何もないということだけが在る。ヘミングウェイの「無」(ナーダ)が去来します。僭越ながら、とてもいい幕切れです。
 「いつ死なせますか」
 病院。二人の重篤化した患者。物語を構築し続けた作家の鮮やかなハードボイルド。
 「噂の八話」
 横浜、神奈川、山、島を題材に噂の掌編が8編。炸裂しています。
 「死線を超えて」
 死線を超えた私小説。ここでも「無」(ナーダ)が語られます。
 「ハーバーの桟橋での会話」
 海。船。山。冒険。「死線を超えて」の前の作品なのでしょうね。冒険野郎。

 政治家としての石原慎太郎について、私は都民ではなかったので特に思いはありません。
小説家としては勿論、「太陽の季節」、「処刑の部屋」、そして「弟」。
角川文庫で読んだ「亀裂」、「夜を探がせ」もすべて面白かった。87歳を超えて尚、作者はこれほどのバラエティを見せつけ、かつての<慎太郎>のまま、わがままに「無」(ナーダ)を語ります。
私たちは、所詮私たちの中にある「慎太郎」、「裕次郎」的なるものを否定して、この時代を生きることはできなかった。
 この国の小体な佇まいの中にあってすら、彼らの心情が失われたことなど、ありはしなかった。
 
 
本作品は残酷な社会を描いたことから読者が低迷や悲観な社会現像を感じたことではなく、逆に奮起して抗争する力をもたらした。
敗戦後の日本は苦難な深海に落ちた。不敗な決心がなければ今まで70年を耐えるか?
こういう残酷から不敗な決心をもたらしたことは石原慎太郎の作品の独特な魅力だ。
他の作家と比べたらわかる。
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死者との対話

2023年07月18日 10時53分47秒 | 社会・文化・政治・経済
 
 若松 英輔 (著)
 
死が耐えられないほど悲しいのは、
その人と出会えた人生が、それほど素晴らしかったから。
悲しみ抜くことこそ、大事なのだ

「死者」とは何者なのか、ともに考える二つの講演とブックリスト。
 
 
 

内容(「BOOK」データベースより)

死が耐えられないほど悲しいのは、その人と出会えた人生が、それほど素晴らしかったから。
悲しみ抜くことこそ、大事なのだ。
池田晶子、小林秀雄、フランクル、井筒俊彦、須賀敦子、リルケ、柳宗悦、神谷美恵子、吉本隆明、遠藤周作、越知保夫らの「死者論」43冊のブックリスト付き。
 
著者について
若松 英輔
1968年生まれ。慶應義塾大学文学部仏文科卒業。批評家。(株)シナジーカンパニージャパン代表取締役。「
越知保夫とその時代」で第14回三田文学新人賞受賞。
その後『三田文学』に「小林秀雄と井筒俊彦」、「須賀敦子の足跡」などを発表し、2010年より「吉満義彦」を連載。また『小林秀雄――越知保夫全作品』(慶應義塾大学出版会、2010)を編集。著書に『井筒俊彦 叡知の哲学』(慶應義塾大学出版会、2011)、『神秘の夜の旅』(トランスビュー、2011)『魂にふれる 大震災と、生きている死者』(トランスビュー、2012)、『内村鑑三を読む』(岩波ブックレット、2012)。
 
 
 
死者と生者の関係を掘り下げている。
 
 
 

前著『魂にふれる』で、概念としての「死」を徒に論じる現代の誤りを追及し、われわれと共に生きる実在としての「死者」と向き合った若松英輔氏の講演録。

大きな反響をよんだその前著執筆の経験をとおして、若松氏はより直接的に「死者」を語ることの必要性を感じた。

概念ではなく、実在としての死者を復活させることへの切実な思いが、言葉に書くことから発し、さらにひとびとに語るという営みを必要としたのだろう。

その意味で、本書は単なる刊行記念講演の記録などではない。
若松英輔という人の、新たな実践の試みなのである。

本書で若松氏は、死者について論じてきた「叡知」のことばを数多く取りあげる。
中でも、愛する妹を喪った「悲しみ」において、妹の存在を自身の内に感じとる柳宗悦のことばや、水俣病の問題に正面から立ち向かう石牟礼道子「わが死民」の一節は、死者がまたいかに正者であるわれわれの生き方を拓きうるのか、優しく教えてくれる。
 
 

奥様を失った作者の喪失体験を踏まえて「死者」の実在について論じてらっしゃいます。
評者も類似の体験をしているので、共感できるところや気づかせてもらえたところも多かったのですが、随所に見られる医療従事者や宗教指導者への批判は論説としては少し短絡的な印象を抱きました。
きっと喪失に伴う怒りの感情が癒えてらっしゃらないのだろうか、とも思いました。
しかし読者は喪失者(作者)の周囲にありますから、その怒りのオーラを感じてしまうと、苦しく、あるいは居心地が悪くなります。
書くことは悲嘆を癒す作業だということですから、作者の執筆活動が喪失の痛みを癒してくれることを祈ります。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

自身の心の捉え方一つで、その意味は一変する

2023年07月18日 10時29分48秒 | その気になる言葉

▼真の徳行は名声を顧みず―トルストイ

▼試練に行き当たった時こそ、前進の炎を燃やすのだ。

▼人は「自己限定」の思い込みに支配されるものだ。

たとえ力が備わっていても「不可能」と感じた途端に、その能力は委縮する。

▼人は、仲間の励ましがあれば、強くなれる。

不可能と感じていた壁さえ越えることができる。

▼良い思い出は、人生を豊かにする。

▼自身の心が強くさえあれば、決して不幸ではない。

▼どうやったら本人が前に進みやすくなるか、相手の状況をよく知って寄り添っていく姿勢こそ、励ましの要諦だ。

▼人生には、さまざまな試練があるが、自身の心の捉え方一つで、その意味は一変する。

<逆境にも必ず意味がある>と受け止め、飛躍の好機とすることだ。


なぜ、優秀な人ほど成長が止まるのか

2023年07月18日 09時47分05秒 | その気になる言葉
 
 田坂 広志 (著)
 
残念な人、一流の人、その差は紙一重 ―

あなたの成長を阻む「7つの壁」を打ち破り、人生を拓くための「7つの技法」とは。

「人は何歳からでも成長できる」 ― 田坂流「成長の思想」の決定版。

____________________

マネジメントと経営の世界を歩み、深く感じたことは、

優秀な人ほど、成長が止まってしまう

という「逆説」でした。

では、なぜ、優秀な人ほど、成長が止まってしまうのか。
なぜ、そうした「逆説」が起こるのか。

その理由は、優秀な人ほど、次の「3つの落し穴」に陥ってしまうからです。

第1は、「学歴」という落し穴。
第2は、「実績」という落し穴。
第3は、「立場」という落し穴。

では、これは、どのような落し穴か。

(本書「序話」より)
 

出版社からのコメント

本書の主な内容

序話 なぜ、優秀な人ほど、成長が止まってしまうのか ― 成長を止める「7つの壁」
・穴に落ちるのは「学歴エリート」だけではない
・「高く評価された経験」がある人ほど「脱皮」が難しくなる ……など

第1話 【学歴の壁】 「優秀さ」の切り替えができない ― [棚卸しの技法]
・「あの人、頭は良いんだけど……」と揶揄されてしまう人
・人は何を見て「この人は頼りになる」と判断するのか ……など

第2話 【経験の壁】 失敗を糧として「智恵」を掴めない ― [反省の技法]
・「顔を洗って出直します」という反省の弁には、価値が無い
・書くことで「賢明なもう一人の自分」が現れてくる ……など

第3話 【感情の壁】 感情に支配され、他人の心が分からない ― [心理推察の技法]
・「あの人は、相手の気持ちが分からない……」と言われてしまう人
・「自分の心」こそが、最高の教材になる ……など

第4話 【我流の壁】 「我流」に陥り、優れた人物から学べない ― [私淑の技法]
・仕事の速い「器用な人」ほど、実は危ない
・実は「基本的なこと」こそ、「人」からしか学べない ……など

第5話 【人格の壁】 つねに「真面目」に仕事をしてしまう ― [多重人格の技法]
・「性格的に向いていない仕事」など存在しない
・「不器用さ」とは、資質の問題ではなく、精神的な体力不足である ……など

第6話 【エゴの壁】 自分の「エゴ」が見えていない ― [自己観察の技法]
・なぜ、優れた結果を出す人ほど、「嫉妬心」に振り回されるのか
・無理に「自分を捨てよう」とする必要はない ……など

第7話 【他責の壁】 失敗の原因を「外」に求めてしまう ― [引き受けの技法]
・成功体験が増えるほど、無意識に「責任転嫁」をしたくなる
・逆境で成長する人は、トラブルの「意味」を書き換えている
・「偶然」をどう捉えるかが、人の成長に大きな差をつける ……など

終話 あなたの成長には、まだ「その先」がある ― 人生を拓く「7つの技法」

著者について

田坂広志(たさか ひろし)

多摩大学大学院 教授。田坂塾 塾長。
1951年生まれ。1974年、東京大学工学部卒業。
1981年、東京大学大学院修了。工学博士(原子力工学)。同年、民間企業入社。
1987年、米国シンクタンク、バテル記念研究所客員研究員。
1990年、日本総合研究所の設立に参画。
10年間に延べ702社とともに、20の異業種コンソーシアムを設立。
ベンチャー企業育成と新事業開発を通じて、民間主導による新産業創造に取り組む。
取締役・創発戦略センター所長等を歴任。現在、同研究所フェロー。
2000年、多摩大学大学院教授に就任。社会起業家論を開講。
同年、21世紀の知のパラダイム転換をめざすシンクタンク・ソフィアバンクを設立。代表に就任。
2005年、米国ジャパン・ソサエティより、日米イノベーターに選ばれる。
2008年、ダボス会議を主催する世界経済フォーラムのGlobal Agenda Councilのメンバーに就任。
2009年、この年より、TEDメンバーとして、毎年、TED会議に出席。
2010年、ダライ・ラマ法王、デスモンド・ツツ大司教、ムハマド・ユヌス博士、
ミハイル・ゴルバチェフ元大統領ら、4人のノーベル平和賞受賞者が名誉会員を務める
世界賢人会議・ブダペストクラブの日本代表に就任。
2011年、東日本大震災と福島原発事故に伴い、内閣官房参与に就任。
2013年、思想、ビジョン、志、戦略、戦術、技術、人間力という
「7つの知性」を垂直統合した「21世紀の変革リーダー」への成長をめざし、
「成長の7つの技法」を学ぶ場、「田坂塾」を開塾。
現在、全国から4500名を超える経営者やリーダーが集まっている。
著書は、国内外で80冊余り。海外でも旺盛な出版と講演の活動を行っている。
 
 
 
何度も読み返しています!
いかに人の心理面に配慮し、自分の感情をコントロールするのか。
人間性の大切さを学びました。
 
なぜ、優秀な人ほど成長が止まるのか ― 何歳からでも人生を拓く7つの技法

 仕事を進めていくにあたって盲点となる7つの壁:学歴の壁、経験の壁、感情の壁、我流の壁、人格の壁、エゴの壁、他責の壁 についてその打開技法について詳しく述べられた本。
筆者は博士課程で大学にいて30歳になってから社会人(研究職でない)になって大きな壁を感じながら「仕事を研究する」という観点で新たな道を切り開いてきた人。
経歴としても大きく道を変えながら仕事のやり方を確立してきたということで自身にもいつ訪れるかわからない転機や慢心さに対する警鐘といった意味合いで参考になる本でした。
 どうして壁にぶち当たるのかという分析の中で「無意識の自己限定」がある、との分析をしています。
これは仕事だけでなくスポーツなどにも当てはまるかもしれませんが自分はこのくらいだろうという自身の能力を制限する枠を当てはめてしまっているという考え方で優れている思われる人ほどそういった罠にかかりやすいとのこと。
それは実績に常に安住してしまい、無意識に挑戦を避けてしまう傾向があるからだとのこと。
精神論的な話になりますが自己限定を打破するには明日になったら死ぬかもしれないという死生観を持って仕事を進めるのが良いとの指摘されています。
確かにその通りかなと思うのですがなかなか難しいもの。
トレーニング等で追い込むというのは一つの限界を疑似体験する1手段なのかもしれません。

それぞれの打開方法
 学歴の壁:経験からつかんだ知恵の棚卸
 経験の壁: 失敗時の直後と深夜の追体験の励行
 感情の壁: 参加者の心の動きを読む@会議
 我流の壁: 師を見つけて同じ空気を吸う
 人格の壁: 自分の中に人格を育てて使い分ける
 エゴの壁: 自分を見つめるもう一人の自分を育てる
 他責の壁: 起こったトラブルの意味を深耕する
 

本は読んだ人が共感できるかどうかで善し悪しが語られることがあると思います。
この本は私にとってとてもよかったです。
何が良かったか。
自然な言葉で文章が書かれていて、説明されている内容が自然だったことで、
腑に落ちる内容だった。

書かれている内容自体は無理がなく自然。
プライドがあるから成長が止まる。といった内容。
そういうことが、丁寧に説明されていた。
少しでも自分のものにして、仕事に生かせるようにしたいと思う。
 
 
 
なるほどこういう原因があってこういう事を気をつければいいのだと。
読んでるうちは納得出来る内容だが
いまいちインパクトというか残る内容がなかったように感じる。
 
 
 
もっと頑張れ!と言われていない人、なのに出世が遅れ気味と感じている人におススメです。
同じ著者の最新の本、深く考えるための〜も読みましたが、こっち。すごく頭いいよねー、と会社で褒められているわりに出世できない自分に足りないものは??と思い、レビューを参考に著者の本の中から選んだ本書。おこがましいかなぁ、と思っていましたが、めちゃくちゃあてはまりました。多分、優秀というより、受験戦争の勝ち組で真面目な人が陥る罠。出世や結果の出ない方向のすごい頑張りをしてしまう。頑張ってるから、周りもなんとも言えない、のかな、と。

すぐに治りませんが、もともと持っている真面目さを利用して方向修正でき、違いがわかると楽しくなる、と今実践し始めて思います。一つでも始めることで成果を出せるスピードが変わりそうな本です。
 
 
田坂さんの”営業力”という本が素晴らしすぎて、期待しすぎました。
もしも”営業力”を読まれていない方がいらっしゃったら、ぜひ読んでみてください!私は営業に対する考えが変わりました。
こちらの本は、期待しすぎていたのか、学ぶことが少なかったです。
 
 
最初の6つは、仕事を行う上で自然と覚える基本的な事。著者が言いたいのは、最後の1つと、この先の成長。それを言いたいがために、文章を進めていたと確信する。
 
 

個人の努力だけでシステムは変わらない

2023年07月18日 09時09分14秒 | その気になる言葉

▼そう<なる>のではなく、そう<する>ことだ。

そのように自覚して、戦いを起こすのである。

▼人生の師の思想と行動を人生の指標とす。

▼勇気の力を引き出す鍵は、自身の可能性への「確信」である。

▼「個人が変わること」と「システムを変えること」はペアある。

個人の努力だけでシステムは変わらない。

システムを変えていくうねりは個人から始まる。

個人の生き方を、社会というシステムにつなげていく中間団体の必要だ。

▼知識・学力は必要ではあるが、同時にそれを生かす知恵こそ、不可欠である。

▼勇気、信念、情熱、行動力の有無も、重要なポイントとなる。

▼何よりも、他人を思いやる心や、自分を律する力など、人格、人間性の輝きといった事柄が求められる。

それは、その人のもつ思想・哲学と不可分の関係にある。


禁断の25時 

2023年07月18日 08時03分21秒 | その気になる言葉
 
 

内容(「MARC」データベースより)

慶応大学出身のエリートOLという昼の顔と、ホテトル嬢という夜の顔。
そのギャップにばかり焦点を当てた報道。
円山町東電OL殺人事件の被害者と「夜の渋谷」で「同僚」だった著者が、風俗嬢の立場から事件の「なぜ」に迫る。
 
著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
酒井/あゆみ
1971年福島県生まれ。上京後、一八歳で風俗の世界に入り、ファッションヘルス、AV女優、ホテトル、性感マッサージ、契約愛人業などを経験する(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
 
 
 
殺された彼女が何故キャリアウーマンでありながら、売春行為の中でも最底辺の立ちんぼとして渋谷の街に存在していたのか、それを探るのが主旨の本です。
当時の世間やマスコミが理解しようもなかった、風俗嬢特有の価値基準や行動原理などが特に丁寧に解説されていて良かったです。
 
 

東電OL殺人事件は映画にもなり注目されているのに犯人が捕まらないという謎の多さに、とても注目していました。
今回は女の性からの視点に触れて他人事ではないのかもと考えさせられました。
自分の中にもそんの女の部分があると確信せざれるを得ませんでした。
 
 
なかなか面白かった。
結論としては被害者は仕事の不満からバランスを取るために別の生活を持つようになったということかな。
もちろん、原因は本人しかわからないことだし、本人もわかってなかったかもしれない。
また、一言で言いあらわせる理由ではないことも間違いない。
同僚風俗嬢の視点からの解説は納得できることも多々あった。
ただ、筆者は風俗嬢のため良くも悪くも風俗嬢の視点から見たものにとどまっており、会社組織の側から見たらどうなのか、身近な東電の同僚からはどう見えたのか、どのように彼女の行動を説明づけられるのかも聞いてみたい気がする。
 
 
この本を読む事で知らない世界を知れるので興味が湧いたし面白かった。
 
 
男女雇用機会均等法導入の頃に社会に出た女性にとって、東電OL殺人事件は心に迫る、人ごととは思えない事件だったと思います。

これは当時の私の体験ですが・・・
当時、うわべだけ女性の雇用や男女平等を謳っても、受け入れる男性中心の社会の中ではただの『性』としてしか扱われませんでした。妻やお金がかかるホステス、お金と身体を交換するだけの風俗よりも身近で、自分の支配下に置けて、若くて、安く済んで、舐めてかかることができる手頃な存在、それが当時の(社会に出たばかりの)私たちでした。

どれだけ仕事をしても、真剣にものを言っても、それが正しいことでも、ほとんどの男性はまともに相手にしてくれませんでした。でも、そうやって舐めておいて、性の対象としてだけは手を伸ばしてきました。
ただの性の対象だから、自分の好みのタイプじゃ無いと“無価値”な存在として疎ましがられます。

そんな社会に出て、本当にがっかりしました。
私は男性へ嫌悪感と復讐心を持ちつつ、仕事をしながら自分の性を守り、寄ってくる男性を心の中で馬鹿にするという20代を過ごしました。早く歳を取りたい、男性から性対象にされない年齢になりたいと心から願っていました。

東電OLは学歴も才能もある方だったので、もっともっと苦しんだと思います。この頃の社会で揉まれた女性なら、彼女の気持ちを容易に想像できると思います。
性の対象として『値踏み』されることの嫌悪感。そこから起こる復讐心。

今も彼女が立っていた周辺を訪ねる女性が多いと聞きます。
彼女はどんな景色を見て何を思ったのでしょう。
想像すると胸がきゅーっとなります。
この気持ちをなんとかしたくて、彼女について書かれた書籍を数冊読みましたが、ある男性が書かれたものにはあの頃感じた嫌悪感しか感じませんでした。彼女が聞いたらきっと激しく怒ると感じました。
そしてこの作品に出会いました。
同業だったという筆者が、寄り添うように書かれたこの作品は(時々差し込まれる生前の彼女の何気ない姿に胸を掴まれます)、事実を淡々と描いていて無理なく読み進められました。
こちらと併せて中村うさぎさんの著書、桐野夏生さんの『グロテスク』を読めばやりきれない思いは多少昇華されるかと思います。
・・・でも、この思いは死ぬまで抱えながら生きていくのでしょうが。
 
興味深く読んだ。

犯罪ノンフィクションには、被害者を2度殺してしまうような本も少なくない。本書では、作者が被害者を直接知っていたこともあり、そのような展開にならないことは良かった。そもそも本書は彼女が殺害されたという犯罪がテーマではないので、犯罪ノンフィクションではないのだが。

作者指摘のとおり、なぜこの事件がこんなにも世間を騒がせたのか、というと、被害者が「高学歴で、一流企業に勤務している、はたからみるとさして問題のなさそうな家庭の出身の女性が、なぜ?」という謎からだ。
作者は、読者と同じように、その「なぜ」を精一杯解明しようとする。
作者は風俗経験も豊富なようで、いろいろな角度からその謎解きに挑戦しているが、その中で、風俗嬢にならざるを得なかった女性たちの情報がいくつか出てきて、なかなか興味深かった。想像していたよりも、なんだかせっぱつまった感じのない人も多くて、それはまたそれで意外だったが。

しかし、結局は、謎は解けない。
当たり前だが、殺害されてしまった彼女にしかわからない「何か」があったのだろう。
被害者は、殺害される直前の頃は、私が認識していたよりもずいぶん悲惨な状況になっていたようで、つらかった。
読み終わって、被害者と被害者の家族を思うと、なんだかとても悲しい気持ちになりました。
 
 
タイトルに25時とあるが、裕子なる女性は昼の顔と夜の顔があり、夕刻5時で断絶しているのだろう。もっとも昼の顔についての叙述がなく夜の部分のみ。
それも主人公は死人に口なしなので、本人の行状を見た状況証拠と証言とを作者の主観で描いている。
著者は裕子の夜の顔は昼の満ち足りない部分から派生し父性愛や隣人愛のような表現を使って理解しようと勤めている。
読者(私)にとっては、そういうこともあるだろうがそもそも昼の顔が分からないのでもどかしい。
毎晩深夜に家に帰り、家人は何も感じなかったのだろうか。
毎日定時に出勤する。会社では何も問題を起こさなかったのだろうか。最後のほうで街娼となり、ボロボロの生活、アル中か、脳梅患者かのような行動であったとしたら余計にそう思うのである。
これらは読んだ後に無かったものを言ういわば無いものねだりになるのは承知の上で申し上げたい。
それにしても、裕子と言う女性の二面性は凡人には理解できなかった。
 

東電OL症候群 

2023年07月18日 07時39分52秒 | その気になる言葉
 
 
 
 商品説明
 
   昼は一流企業のキャリアウーマン、夜は渋谷・円山町の売春婦という2つの世界を生きた女性が何者かに絞殺されたのは1997年の3月だった。
この事件の一審判決までを描き、大きな反響を呼んだのが『東電OL殺人事件』で、本書はその後を受けたものである。

   一審で無罪となったネパール人被告は検察の要請により再勾留、控訴審では逆転有罪判決を宣告されてしまう。

だが、無罪を信じる著者は、ひるまず事件の行方を追い続ける。

再勾留決定にかかわった裁判官が少女買春で逮捕されるなど、一般には知られていない因果関係を明らかにし、司法の堕落を追及していくのだ。

   だが、執拗なまでの取材なら、前作でも十分行われていた。

本書が単なる続編にとどまっていないのは、事件を読み解く新しい視点が用意されているからである。

前作発表後、特に女性読者から尋常ならざる反響が寄せられた。

その多くは、敬慕する父を失い、エリートへの道を閉ざされて堕落へひた走った被害者への同情と共感だった。

著者は、閉鎖した社会のなか、女性たちが窒息寸前であると感じ、何人かの読者にインタビューを試みる。

こうした展開は凡百のルポルタージュでは考えられないもので、事件の社会的意味を考えさせて秀逸である。

   情熱あふれる著者の筆致には、しばしば客観的でないなどの批判もあがるが、「事実だけにとらわれて痩せていく一方のノンフィクション」(著者)とは違うものを生みだそうというのがその意図だろう。むろん、試みが成功したかどうかは読者が判断することだが、志は大いに賞されてしかるべきである。(大滝浩太郎)

内容(「BOOK」データベースより)

死してなお強い磁力を発する東電OLの眼差しは、二つの物語をあぶり出した。ひとつは彼女に感応し、その生き様に自分自身を投影する女たち一人一人の物語。いまひとつは閉ざされた司法と日本社会の闇の連鎖についての物語である―。もはや瞠目するしかない現実を浮き彫りにする、渾身のルポルタージュ。
 
内容(「MARC」データベースより)
「東電OL殺人事件」の続編。死んでなお強い磁力を発する東電OLの眼差し。その眼差しにあぶり出された素顔の女たちと、日本社会の闇の連鎖を鋭く抉るルポルタージュ。『新潮45』に断続連載したものを大幅に加筆。
 
 佐野 眞一

1947(昭和22)年東京生れ。

出版社勤務を経てノンフィクション作家に。主著に、民俗学者・宮本常一と渋沢敬三の交流を描いた『旅する巨人』(大宅賞)、エリートOLの夜の顔と外国人労働者の生活、裁判制度を追究した『東電OL殺人事件』、大杉栄虐殺の真相に迫り、その通説を大きく覆した『甘粕正彦 乱心の曠野』『沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史』など多数。


 
 
結論:少し違う。
内容:1997年(平成9年)3月に起こった東電OL殺人事件と、その後、「慶応卒東電総合職女性と言うエリートがなぜ売春婦なんかを?」と言う疑問、そして”女性達の共感”に焦点を当てている。

被害者の渡辺の父(東大ー東電)が「原子力反対」の立場で左遷されたので、同様に反原子力の論文を書いていた渡辺は「殺された」と言う人さえいる。
2011年の福島第一原子力発電所事故との関連、東電のダメな社風が見えるか???・・結論としてはありえない。

特に変だったのは2点。
被害者の渡辺は、わずか3000円で売春をすることもあった。
また脱糞や放尿をすると言う「奇行」から、ホテルを出入り禁止になっている。
また「自ら」駐車場や安アパートで行為を行なうことすらあった。複数との行為も行った。
そもそも後ろ盾(管理売春)の無い場合、見知らぬ男性と2人で会う行為は非常に危険である。彼女のケースで無くとも殺されることなどもある。
実際、殺害前に渡辺は地回りから注意を受けている。
単価が非常に安いことを考えると渡辺の売春は「仕事」「お金」ではない(そもそも1000万円近い給与を昼間の仕事で得ていた)。
それで週に20名以上の客を取り、それを何年も続けたのだ。
しかし「セックスは嫌い」で「拒食症」。
可哀想ではなく、ただの狂人である。
(そういう人は国内の精神病院に今でも10万人以上いる・・・)
「30歳で売春をするまで、恐らく処女だった」とある(ここはネットで
精神科医の斉藤学の考察から)

だから、彼女の行為は、斉藤の言うように「一種の自殺行為」だったんだと思う。
そして殆どすべての客の情報を手帳に書き込んでたと言う几帳面で優秀な彼女は、一方で「奔放なもの」への憧れがあったのでは?と言う斉藤の指摘は非常に的を得ていると思う。
こんなのは、「そういう事をやってみたい」と言うのはSMや不倫が好きな医者や政治家、経営者と同じ理屈だ。
彼女の場合は、几帳面さから、あまりに極端な方向へ「寄った」のだろう。
つまり佐野の言うようなドラマは無い。
「ただの頭のおかしな人が自殺的売春行為を繰り返して殺された。たまたま有名大卒で有名企業で働いてた人」と言うだけ。

2点目は海外メディアの論じ方。
「彼女は日本と言う社会に狭い社会に住み、女性差別的な世界での被害者の日本女性代表」と言うステレオタイプである。
馬鹿馬鹿しいのを通り越して呆れてしまった。

バレリーと白人美人アメリカ大手新聞社のジャーナリストは、日本は閉鎖的な女性差別的な社会、と言うニュアンスで話す。
しかし渡辺がホテルで脱糞し、路上で放尿するのは「日本社会のせい」「男性的な東電サラリーマン社会の犠牲者だから」なのか???

住んでいる場所を聞くと松濤(渋谷の高級住宅街)である。
そして「アメリカには人種差別はマイノリティを守る受け皿があるので(日本より)少ない」と平気で答えている。
アメリカは世界中で最も人種差別が激しい場所だってことは世界中で知られているのに。日本との非ではない。
つまり悪人ではない。バカなのだ。

例えばそもそも日本は、キャリア志向の女性が少ない。
家庭環境などの差別があるのでは?と思うかもしれないが、そもそも
日本で大卒は男子45%、女子55%と女子の方が高い。
つまり単純計算で言えば女子教育の方が重視されているぐらいなのだ。
医学部や法学部の30%が女子だ(大学生の数は女子の方が多いのだから%から言って、女子はキャリアで使えない非実学に流れやすいと言うこと。工学部に関しては90%以上が男子だ。)
また東電は、かなり女性には優しい会社として知られている。
(事実、彼女の同期は社費でハーバード留学を果たしている。女性差別的であれば、会社は絶対にそんなことさせないだろ)。

しかしたぶんバレリーには、そんな事実もバイアスがあるからどうだっていいんだろう。
バレリーなど白人ジャーナリストにとっては、「日本は遅れた社会で、欧米社会の方が進んでいて、人種差別も、男女差別も少ない」のでなければならないのだ。
つまり最初から結論は変わらない。
こちらも「佐野のいうような共感性もクソもない。日本人が”インドの山奥ではトラが時々人間を食うんだけど、地元住民は気にしてないんだぜ。変だよね”」のレベルだ。

またここで出てくる「ヤスコ・シンドローム女性」たちもどこか、自分は高学歴だとか優秀だとかどっかで見なしている気がする。
しかし客観的に見て、ふつうのOL,主婦である。
「自分にはそういう一面もあるんだよ」と言うのは、優等生が高校を卒業してやっとタバコを吸い始めるのに似てなんだか悲しい。
そうやって、つまらない自分の性格や人生を、ムリに納得させている気がする。
例えば共産党職員の女性は、裕福な大学で出合った帰国子女や、病院事務の医師を批判してるが、
周囲でこういう人がいれば「ただのパートのおばちゃんの愚痴」と感じるだけだと思う。
相手側は彼女のことはただの同級生、事務の人、なんだからどうとも思ってないはずだ。空気みたいなものだ。
彼女は、どこかでそういう自分に気付いている。
だからこそ「私は売春さえ出来るエリート」に無理やり昇華させているのではないか。

中年のおっさんが「実は僕はスーパーマンで、昼間はしがないサラリーマンだけど、夜はヒーローなんだ」と言ったらどうなるか?
無視されるだろうね。
そういう願望は誰にでもある。でもそれを抑えるのには理由があるのだ。
 
 
 
これはあまり面白くないかな。やはり最初の東電OL殺人事件の方がよかった。本に出てくる何人かの女性は共感を覚えることは出来ませんね。
 
 
慶應大学経済学部出のエリートOLが、夜な夜な渋谷・円山町で“立ちんぼ”売春をしていたという凄惨とも言える心の深淵と、

国家権力の名の元に真実を平然とねじ曲げる司法の不正義ぶり、

そしてその検察の“でっち上げ”にひたすら従う警察の欺瞞と腐敗…

事件から10年以上経った今、現在の日本の堕落と未来の破滅をも予言している出来事のような気がしてならない。
 
 
 
 
前作「東電OL殺人事件」に引き続き購入

耳が勃起する自称ノンフィクション作家佐野眞一が故人に遺族や無関係な人間まで侮辱した一冊。

笑えるのが
薬物事件で逮捕収監されているシャブ中男から送られてきた与太話の裏もとらずに
差出人のシャブ中男を当事者認定して手紙本文を掲載したり、そのシャブ中男の面会に訪れておきながら。
その箇所の最後には
シャブ中の妄想かにわかに判断がつかなかった。という無責任なしめかたには腹がよじれるほど笑いました。
全編通してそんなシャブ中の妄想みたいな内容が延々と続き
外人記者と円山町のラブホテル街を歩き不倫カップルにみえるだろうと喜ぶ著者にあきれました。
今時フロイトを振りかざす評判の精神科医斉藤学先生の分析も失笑もの。
ジャーナリスト気取りの団塊老人がアンチ日本社会を基調にした憶測と妄想の考察もどきの印象を語っているだけの内容に終始して
被害者Wの心の闇に今回も踏みこまない。
前作の熱烈な読者で被害者Wに感情移入してWの幻覚まで見てしまうババアと
ささいな交通取締りにぶちキレて交番を襲撃して逮捕されたキチガイ板前のくだりは蛇足。
本作は一種のトンデモ本になっており笑えたので☆2です。
ノンフィクションルポルタージュとしては☆1すら難しいレベル。

前作とあわせ俯瞰的に事件全体と冤罪裁判を知るには良いと思いますが
前作を読まれて違和感や著者に不快感を抱いた方にはおすすめできません。
 

東電OL殺人事件

2023年07月18日 06時52分27秒 | 社会・文化・政治・経済
 
 
彼女は私に会釈して、「セックスしませんか。一回五千円です」といってきました――。
古ぼけたアパートの一室で絞殺された娼婦、その昼の顔はエリートOLだった。
なぜ彼女は夜の街に立ったのか、逮捕されたネパール人は果たして真犯人なのか、そして事件が炙り出した人間存在の底無き闇とは……。
衝撃の事件発生から劇的な無罪判決までを追った、事件ノンフィクションの金字塔。
 
著者略歴 
 
佐野/真一
1947(昭和22)年東京生れ。
出版社勤務を経てノンフィクション作家に。
主著に、民俗学者・宮本常一と渋沢敬三の交流を描いた『旅する巨人』(大宅賞)など多数(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
 
 
 
東電のエリートOLが殺害されたこの事件について、多くの人は朧気ながらも事件の概要を覚えている
と思う。
私もその一人。
当初ネパール人が犯人として逮捕されるも1審で無罪となり釈放された事件。
当時、バブルが弾け、経済的に日本が苦境に陥り、いろいろな猟奇的事件が起きていたころだ。
筆者は、この事件の詳細を追跡調査しながら、当初から犯人とされたネパール人ゴビンダの無罪を
信じ、警察・検察の根拠の薄い立件と起訴に憤慨する。
ネパールまで出向きいろいろな関係者の証言も入手しながら真実に迫ろうとする気迫はジャーナリストとして尊敬に値するであろう。
しかし、この事件の本質は、このネパール人の冤罪ということではない。
慶応大学を卒業し、東電初の女性総合職として管理職にまで上り詰めた被害者がなぜ、毎夜渋谷の路上に立って、売春行為を行っていた
のか。
この大いなる闇は、残念ながらこの本では、納得できるような追及が出来ていない。
心理学者、学生時代の同僚、母親等々のインタビューから情報を得ようとしているものの、残念ながら事件の真相に迫るようなものはあまりないのだ。
これは小説ではない。だから、真実がすべて結論として出てくるわけではないことは理解している。
しかし、もっと幅広く、かつ深く取材、分析を重ねるべきではなかったのか。
この加害者とされたネパール人の裁判を追うことにページを費やしすぎて、事件の肝心の闇を掘り起こしきれていないというのが私の印象だ。
 
 
 
一気に読み終えるほどではない。上手く説明できないが、モヤモヤが残る。
取材が大変だったろうな~とは思いますが、筆者の偏った物の見方がされている文面には、時々閉口してしまう。この本を読んで、この事件の真相が益々わからなくなった。事件の真相を知りたい方にはオススメしません。事件のバックボーンを知りたい方には、まぁ~イイかも…という具合です。
 

佐野氏による本書の他に、酒井あゆみ氏の著作を読んだ。
両書に共通する点は、売春の動機と東京電力の因果関係の否定の論理が他の記述に比べかなり飛躍的なことだ。

被害者の女性は生前、売春を始めた動機について少なくとも三通りの説明をした。
本書では五十代の顧客の証言として
・最初のセックスの相手が法外な金をくれたこととし、
・東電の既婚者の上司への腹いせであることを示唆したという。
また酒井氏の著作では同じく性産業に携わり生前の彼女と交流した由加という女性の証言として
・社内でレイプされ、それを知った同社社員にも性交を強要され、妊娠し中絶したことにより精神が不安定になって以来、精神安定剤を飲むようになり売春を始めたことを挙げている。

彼女が売春を始めた時期が、シンクタンクへと骨休めとして派遣された時期であることが明らかになっていることや、三年後に本店に戻っていることから考えると売春の前後に起きたことは、
・東電社内で上司と不倫関係となり、そのことを知った同僚と意に反した性交渉を持たされた。
その結果妊娠と中絶をした。受け取った大金とはその慰謝料である。正義感が強く勝気な知性のある女性だったらしい人柄から、自ら本店への復帰を条件に、ほとぼりが冷めるまでの出向を受け入れたが、心の傷は深く、精神の安定を求めるかのように売春生活に依存を深めたのだろう。

私は両書を読んで、彼女がとても強い女性で最後まで自ら命を断つことがなく生きたことにどれほど辛かっただろうと、心を痛めた。

年齢のせいか、39歳になった彼女はホテトルで客がつかなくなり、街娼となってしばらくのうちに暴力の犠牲となった。
真犯人は未だ未解明である。
公訴時効が廃止されたのだから、警察は真実の追及を今一度行うべきだろう。日本社会の特に大企業は弱者である女性への性差別等を今一度反省すべきであるとも思う。

また、私見では冤罪判決を勝ち取るとその役目を終え解散したらしい団体は、真の人権を論ずるのなら例え裁判の判決に不服であれど裁判官の責任を追及することは、この場合権力をむしろ補完することになりはしないか?と立ち止まって考えてほしいとも思う。
もっとも外国人差別ありきの警察の初動捜査に誤りがあったことが裁判で明らかとなった以上、それは言語道断のものとして批判されて然るべきであることは明らかな事実として。

DNA鑑定の更新により新たな事実が加わったというが、物理世界と認識による人倫世界の二元論から出発するカント哲学に基礎付けられた近代の司法制度においては、人権は自由意思と道徳率の均衡の中にあるものだと私は思う。
つまり裁判官は、例え周りの環境がどう考えようと、司法の積み上げや理論に従って、究極的には自ら判断した判決を下さなければならない。
私たちはそれが不完全な制度でも、国民国家の成り立ちからすれば、それを社会契約に基づき認めている。
私はこの裁判の記録を見ながら、人倫の価値の弱まりを感じた。
人々は物理としてのDNAだけを信じて、応報の感情に相互に収支している。それでは生-権力の思う壺だろう。
現代においてはこれらの制度そのものが限界を迎えたという意見もあると思うが、私は今一度原点に立ち返り検討すべきだと考える。

いずれにせよ、彼女を誰が中絶に追いつめ、誰が殺したのか、ふたつの暴力は許されざるものだ。
その応報の感情からは私たちが事件を風化させず、自分たちを省みる機会から遠ざかってしまうとも思う。
真犯人については様々な憶測があるらしいが、それは記者ではなく、捜査権という極めて強い権力を譲渡されている警察が行い、市民に報告する義務があるという原点に立ちかえるべきだろう。

最後に、私はこの本を読んで、普段の仕事にある習慣を取り入れた。
被害者女性がしていたという、資料を切り抜いて分析する方法を試してみた。
今まで専門書やPDFで閲覧していただけのものをコピーし、大事なところをノートに貼って分析すると驚くほど頭に入り、仕事が捗るようになった。

もし、遺族の方に伝わるなら、事件から26年たった今、年齢でいえば、生きていたら息子くらいの若者がその死を悼み、学んだことから仕事で助かった、ということをお伝えできたらと思う。
本書で揶揄された検事の女性にも。
あらゆる女性が受けてきた差別や抑圧を、乗り越えるべき時代を作りたいということが、私が学んだこの事件の教訓である。

心よりご冥福をお祈りします。
 
 

私は当時の円山町の風俗に目が行った。ラブホテル、街娼などの状況、そこに通う男たち。
戦前の色街はなくなったが、現にあるラブホテル街。それらの現実をもとに進む裁判。映像が浮かんできた。
 
1997年、東電の副室長まで登り詰めた一人の女性が老朽化したアパートの一室から絞殺死体となり発見された。著者の佐野氏は、被害者のWさんの昼は東電勤務、夜は売春婦としてのリアルな顔が知りたくなり真相を掴もうと孤軍奮闘していく。

被害者のWさんに関しては著作が沢山出ており、そのなかでも佐野氏のこの本に関しては当時は表紙も心擽られる雰囲気に呑まれ、一番売れたのではないかと推察。

しかし本の中身はと言うと、容疑者ゴビンダ・プラサド・マイナリ氏の故郷へ出向き、そこでゴビンダ氏の潔白を晴らすべく佐野氏が必死になっていることを長々と綴っているのみである。
肝心の被害者Wさんの事に関しては「被害があったアパートのトイレの水の中に、彼女の幻影を見た気がする」のみに留めている。

「幻影」だの「巫女」だの、読み手はそんなものはどうでもいいのだ。
読み手は、彼女の生きざまや彼女の本当の心の闇をギリギリな所まで深掘りしてほしいという欲望で、この本を買っているのだ。
佐野氏の冒険活劇に便乗して冒険を一緒に楽しむために読んでるわけではないのだ(苦笑)

彼女の事を本気で知りたいと思ってる人にはこの本は不向きである。
作者のネパールでの冒険とゴビンダ冤罪を知りたい人向きの著書だ。
改めてこんな本に使われたWさんに申し訳なく、深く哀悼の意を捧げます。
 
 
被害者の異常な行動と未解決事件ということもあって、20年以上経った今でも忘れられない事件の一つである。
後の原発事故にも繋がる部分もあり、日本社会の真っ暗な闇が垣間見られる。
再審で無罪を勝ち取るまでに15年もかかったそうだが、無実を証明するためにネパールまで飛ぶジャーナリストがいた事やゴビンダを救う会などが発足されたことは不幸中の幸いだったのかもしれない。
何はともあれ最後は潔白を証明出来て良かった。
死人に口無しとはよく言ったもの。
出来ることなら、あの日あの時一体何があったのかと被害者に問うてみたい。
読後、神泉駅前を歩いてみて初めて気付いたのだが、この本の表紙はとても良い写真です。
殺害現場となった喜寿荘とその隣の粕谷ビルを俯瞰しているんですね。

 
 
 
 

 


なぜ世界は存在しないのか

2023年07月18日 05時56分56秒 | 社会・文化・政治・経済
 
 
千葉雅也氏、推薦!!

今、世界中で注目される哲学者マルクス・ガブリエル。その名を一躍有名にしたベストセラー、待望の邦訳!

20世紀後半に一世を風靡した「ポストモダン」と呼ばれる潮流以降、思想界には多くの人の注目を浴びるような動きは長らく不在だったと言わざるをえません。
そんな中、21世紀の哲学として俄然注目されているのが、新たな実在論の潮流です。
中でもカンタン・メイヤスーは「思弁的実在論」を主張し、思想界をリードする存在になっています。
それは「人間が不在であっても実在する世界」という問いを投げかけ、多くの議論を巻き起こしましたが、その背景にはグローバル化が進んで国家や個人の意味が失われつつある一方で、人工知能の劇的な発展を受けて「人間」の意味そのものが問われつつある状況があるでしょう。

こうした新たな問いを多くの人に知らしめたのが、本書にほかなりません。
「新しい実在論」を説く著者ガブリエルは1980年生まれ。
2009年に史上最年少でボン大学教授に就任したことも話題になりましたが、2013年に発表された本書がベストセラーになったことで、一躍、世界的スターになりました。

本書のタイトルにもなっている「なぜ世界は存在しないのか」という挑発的な問いを前にしたとき、何を思うでしょうか。
世界が存在するのは当たり前? でも、そのとき言われる「世界」とは何を指しているのでしょう?
「構築主義」を標的に据えて展開される本書は、日常的な出来事、テレビ番組や映画の話など、豊富な具体例をまじえながら、一般の人に向けて書かれたものです。
先行きが不安な現在だからこそ、少し足を止めて「世界」について考えてみることには、とても大きな意味があることでしょう。
「です、ます」調の親しみやすい日本語になった今注目の書を、ぜひ手にしてみてください!

【目次】
哲学を新たに考える
I これはそもそも何なのか、この世界とは?
II 存在するとはどのようなことか
III なぜ世界は存在しないのか
IV 自然科学の世界像
V 宗教の意味
VI 芸術の意味
VII エンドロール──テレビジョン

訳者あとがき

原註
用語集
作品名索引
人名索引
 

メディア掲載レビューほか

新しい実在論

ポストモダン思想は強力だった。いや、過去形ではなく、現代もわれわれはその影響下にある。典型的なのは、絶対的な価値など存在しないという相対主義だろう。それが俗化すると、安倍政権への支持者も反対者もどっちもどっち、といった冷笑的態度になる。絶対的に正しいことなんてありはしない、と。

だが、ほんとうにそれでいいのか? 漠然とした不安と反発を感じていたところに登場したのがマルクス・ガブリエルの『なぜ世界は存在しないのか』だ。著者は1980年生まれの哲学者。2009年にボン大学教授となり、ドイツでは最年少の哲学正教授として話題になったという。

キャッチーなタイトルで、映画やテレビドラマを具体例として挙げつつ、平易なことばで難解なテーマについて語る。読んでいるとなんとなくわかったような気持ちになってくる。売れている理由はそのへんにあるのか。

著者は「新しい実在論」なるものを唱える。ぼくらがいようといまいと、ぼくらとは関係なしに世界が存在すると考える形而上学。ぼくらそれぞれに、それぞれの世界があると考える構築主義(ポストモダン)。「新しい実在論」はそのどちらも否定する。まったく新しい異次元の考え方というよりも形而上学と構築主義のいいとこどりというかハイブリッドというべきか。

導入するのが「意味の場」という概念だ。存在する(つまり「ある」)ということは、何らかの意味の場のなかに現れることなのだという。

世界はあるのかないのか。ぼくが世界だと思っているここは、世界ではないのか。本書をもういちど読み直そう。

評者:永江朗

(週刊朝日 掲載)

内容(「BOOK」データベースより)

ポストモダン以後、どんな哲学が求められているのか?現代世界の中で意味のある哲学とは何なのか?―「新しい実在論」が、その答えである。カンタン・メイヤスーらの潮流とも連携しつつ活躍する一九八〇年生まれのドイツ哲学界の新星が読者に向けて「なぜ世界は存在しないのか」という大胆な問いを投げかけ、豊富な具体例とともに解きほぐしていく。世界の最先端を走る若き哲学者のベストセラー、ついに日本語版が登場!

著者について

マルクス・ガブリエル
1980年生まれ。哲学者。現在、ボン大学教授。
後期シェリング研究をはじめ、古代哲学における懐疑主義からヴィトゲンシュタイン、ハイデガーに至る西洋哲学全般について、一般書も含めて多くの著作を執筆。
「新しい実在論」を提唱して世界的に注目されている。主な著書は、本書のほか、An den Grenzen der Erkenntnistheorie (Karl Alber, 2008), Skeptizismus und Idealismus in der Antike (Suhrkamp, 2009), Die Erkenntnis der Welt (Karl Alber, 2012), Fields of Sense (Edinburgh University Press, 2015) など。スラヴォイ・ジジェクとの共著に、Mythology, Madness, and Laughter (Continuum, 2009)(日本語訳『神話・狂気・哄笑』、堀之内出版、2015年)がある。

清水 一浩
1977年生まれ。東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学専攻博士課程単位取得退学。主な訳書に、アレクサンダー・ガルシア・デュットマン『友愛と敵対』(共訳、月曜社、2002年)、ヤーコプ・タウベス『パウロの政治神学』(共訳、岩波書店、2010年)ほか。
 
 
 
世界は存在しない=世界に外部はない
 
茂木健一郎氏がどこかで言っていたように、軽薄な科学主義は確かに反対である。
科学主義の行きついたところにAIが人類を支配するという妄信がある。
科学絶対主義者は、非科学的なものを一切認めようとしないだろうが、マルクス・ガブリエルが言うように、科学者が対象としている<宇宙>や<自然>は極めて限定的なものでしかない。
<宇宙>という概念は、どれだけ巨視的なパースペクティブであっても、それは《世界》の総てではない。
<宇宙>を対象とする科学は、文学の作品の一語一句を捉えることはできないだろう。
日常生活の些細なあらゆる出来事、コミュニケーション、蓄積されている実践の知(=習慣)を捉えることはないだろう。
それは、<気候>という問題をやるにしても<生命>という問題をやるにしても<人類>という問題でも<世界史>ということでも同じことである。対象はどれだけ大きくても、それは一つのパースペクティブのすぎず、それ自体ですべての《世界》を捉えることはないということである。
それゆえに、<宇宙>は、《世界》よりはるかに小さい。
《世界》はもっと無限なる存在で、人間がその対象を完全に把握できないまでに広がっている。
ゆえに世界は存在しない。
あらゆるものは存在するが、《世界》だけが存在しない。
このガブリエルが言う《世界》とは、「無限」と置き換えてもよいし、「実体」と置き換えてもよい。
要はスピノザの実体と様態の関係である。様態は存在するあらゆるもの、あらゆる事実の総体だが、実体は数えられるものではない。つまり、一なるものでも「全体」でもない。
「総体」すなわち外部も超越的なものもありえない、閉じられた「無限」そのものである。スピノザはさらに属性において、延長と思惟を区別する。そしてこの属性は無限の属性がある。
ただ、人間には延長と思惟しかないのだと。
この思惟、人間の精神とはスピノザにおいては身体の観念とされる。
この「身体の観念としての精神」が、もしかしたら科学主義者には欠けているのではあるまいか。
この観念とは、《世界》=神の観念である。科学主義者は神なるものは排除する。
だが、スピノザが言う神とは、霊的なものや人格神のような類ではない。人間には考えも及びもしない、この世界を動かしている「力」そのものといってよい。
たとえば、どのように生命は動くかは、科学は説明できるが、なぜ生命たるものがあるのかは科学は説明できないだろう。
それは人間の及ぶ領域ではないからだ。それはこの《世界》=神が持つ力そのものであり、神の意図はどこまでいっても不明である。この「力」は、能産的自然であり、コナトゥスであり、世界の無限性を表現するものである。この神への観念、力への観念が、科学にはどこか欠けているのだ。
科学者は自分たちがそれを操れる範囲の世界だけを世界として捉えているようにさえみえる(合理主義)。
アインシュタインがかつて使った表現を借りれば、そのうち人間(合理主義者)は、「神々の嘲笑によって難破させられる」のだろう。
神の実在を巡っては、アインシュタインの「スピノザの神を信じる」という言明が有名だが、さすがはアインシュタインというべきである。
彼はたんに、科学主義を信仰する人間ではなかった。
天才は天才を知るし、何よりも《世界》を知るのである。
たとえば、科学は神話を否定するだろうか。
神話の内容はとても非科学的だと排除するだろうか。
しかし神話はその時代における人間の叡智であり、世界的に起きた出来事、惨劇、人間のやっていいこと悪いことのような倫理観、生存のための智慧を物語として伝えるのであり、神話を作る力、物語を産む力は人間の知性に他ならない。
スピノザは聖書自体を否定したわけではない。
聖書が人間の叡智であることも認めている。
だが、それを哲学=科学と、信仰については明確に分けなければならないとしたのである。
 
 
理解が出来ない
 
本書の内容が愚かなのか斬新なのかが、私には分かりませんでした。
既に私自身が認知して当たり前に捉えているようなことにも感じるのですが、それをなかなか難解な文章で書き連ねてあるので、そうでもないのかなって気にさせられます。
思い出して何か書けと言われても何一つ書きたいことも内容も出てこない。
 
難しかった。。。
 
私のような素人には難しいほんでした(笑)
 
 
マルクスガブリエルが説く新しい実在論とは!
 
新しい哲学の原則
 
世界が存在しないという原則には、それ以外の全てのものは存在しているということが含意されている。
世界は別として、*あらゆるものが存在することになる。
*あらゆるもの
惑星、夢、進化、水洗トイレ、脱毛症、希望、素粒子、月面に住む一角獣等
 
▪️新しい実在論(ガブリエルの提案)
ポストモダン以降、初めて出来た新しい哲学
 
今迄の哲学
 
▪️形而上学
この世界全体についての理論を展開しようとする試み
世界がどのように存在しているか
ここでは私達人間が抹消されている。
 
例)佐藤さんが静岡にいて富士山を見ている
丁度その時に、私達(この話をしている私とそれを読んでいるあなた)は山梨にいて同じ富士山を見ているとする。このシナリオに存在しているのは、富士山、佐藤さんから見られている富士山、、私達から見られている富士山ということになる。
形而上学の主張によれば、このシナリオに存在している現実の対象は、たった一つだけである。すなわち、富士山。富士山は一方で静岡から、他方で山梨から見られているが、これは全くの偶然であって、富士山にとってはほとんどどうでもよいことである。
これが形而上学である。
 
▪️構築主義(イマヌエル•カント)
およそ事実それ自体など存在しない。
私達が、一切の事実を構築している。
 
上記のシナリオには三つの対象が存在している。
佐藤さんにとっての富士山、私にとっての富士山、あなたにとっての富士山である。
これらの背後に、現実の対象など存在していない。
 
▪️マルクスガブリエルが説く新しい実在論と
 
このシナリオには、少なくとも以下の四つの対象が存在している。
1.富士山
2.静岡から見られている富士山
3.山梨から見られている富士山(あなたの視点)
4.山梨から見られている富士山(私の視点)
 
なぜ新しい実在論が最良の選択肢なのかは、簡単に理解できる。
富士山が現在の所日本に属する地表面の特定の地点に位置している火山であるということ、これだけが事実なのではない。
 
 
論理哲学論考をベースに
 
明らかに、ヴィトゲンシュタイン「論理哲学論考」をベースに考察されている。
それを知られたくないのか、ガブリエルは最初の方で、物が存在していないのが真、として、ヴィトゲンシュタインの論考を否定しているが、そもそもこの考察自体に間違いである。
最初の段階でヴィトゲンシュタインが出て以降、出て来なくなるのは、ヴィトゲンシュタインをベースに考えられたのをあまり悟られたくなかったのだろう。
その点は、計算高く、少しイラッとさせられた。
 
それでも、色々考察させられ、多角的に物事を捉えている書ではある。
 
 
ポストモダンの実在論
 
形而上学および構成主義を超える新実在論,ということなのだが,通読すると何かしら既視感のようなものを感じる.
近年様々な哲学論者によって論じられてきた内容がまとめられているということなのだろうが,それがここまで平易に概括的に書き切られている点に本書の価値があると思う.
いかなるものも,何らかの意味の場に現象するがゆえに存在する.
すべてを包摂する意味の場が存在しえない以上,限りなく数多くの意味の場が存在するほかない.という論旨.
 
 
新しい世界
 
たとえこの世が幻想であったとしても人は正しく立ち回らなければならない。
映画「マトリクス」の世界で・・・
 
哲学的にそれほどインパクトがあるとは思えないが、それなりに読む価値はある。
 
「なぜ世界は存在しないのか」、は一応わかりました。
 
著者によると、
 
①「存在する」とは、あるものが「なんらかの意味の場において現象する」ということである。
 
②一方(やはり著者によれば)「世界」というのは、「あらゆるものを包括する全体」である。
 
③「あらゆるものを含む全体」が「なんらかの意味の場において現象する」ことはあり得ない(なぜなら、「あらゆるもの」という以上、その「場」そのものも「世界」に含まれているはずなので、世界がそれ自体が含む「場」において現象する、ということはあり得ないから)。
 
④よって「世界は存在しない」
 
以上証明終わり。。。
 
何か数学の「集合論」みたいな趣もありますがね笑 要するに、世界というのはあらゆるものを包括しているがゆえにあまりにも「大きすぎる」ので、意味のある形では認識し得ない。
よって事実上「無」(著者は「無以下」と言っていますが)であり、言い換えれば「存在しない」ということになる、わけであるようです。
 
ここで我々?のような「仏教文化」に親しんでいる者たちにとってすぐに思い至るのが、「そのような極大的に大きな世界というのが、まさに仏教で言うところの〈無〉なのではないか」ということですが、かなりの博学であるらしい著者は、少なくともこの本ではその点については一切触れていません。
 
仏教ではまさに「あらゆるものを包括するものとしての無」の認識に達するということが一つの目標?とされていると思いますが、著者のガブリエル氏はそれを「哲学的には無意味」としてあっさり切って捨てている、ということになるのでしょうか。。
 
以前、fb友のHさんから「あるフランスの哲学者?が、ヨーロッパでは今や仏教はあまり有意味なものとはされていないのが主流?と言っていた」という話をお聞きしましたが、ひょっとしたらそれとこの話はちょっと関連しているのかな、とも思いましたが。
 
で、「世界」が存在しないのなら一体何が存在するのか?
著者は自らの立場を「新しい存在論」と呼び、ポストモダン的な「一切は仮象である」というようなある種のニヒリズムを否定します。
 
著者によれば「存在しない」世界の中においては(なぜか)無数の「対象領域」が存在していて、その中のおいて現象しているものは「仮象」ではなく本当に「存在して」おり、我々は(その対象領域内において)その「存在自体」を把握することができる(ここが実在論)のだということ。
 
つまり、例えばある文脈において我々がリンゴを見るとき、その「見られている」ところのリンゴは間違いなく「存在」している。
しかしそれはあくまで文脈であるところの「対象領域」内における存在ということであって(この対象領域というのは、例えばリンゴを美的な方向から見ている、とか腹が減ったという方向から見ている、といったようなことだろうと思われますが)あらゆる対象領域を通じた最も広範な「リンゴそのもの」というのは存在しない。
なぜならそれは「世界」全体の中で現象するということだが、その「世界」が存在していないので「リンゴそのもの」もあり得ない、ということ。
 
更に進めて、著者は、小説のような全くのフィクションの中において登場してくるものすらその「対象領域」内において真に「存在する」のだ、ということも主張していきます。
 
要するに「あらゆるものを包括する世界」は存在しないが、その代わりに無数の「対象領域」は存在し、そして各対象領域(それがどんな突拍子もないものであれ)において様々なものが「本当に存在している」のだ、というのが「新しい実在論」、ということのようです。
 
しかし果たして「存在する」というのを「何らかの意味の場において」現象する、というところに限定してもいいのか?という疑問がありますね。
そうなると先に言ったように仏教的な思考などは全部「意味がない」ということになってしまいます。
確かに「無としての世界」をベースとして整然とした哲学体系を作っていくのは難しいとしても(西田幾多郎などはそういうことをやろうとしたのかもしれませんが、かつて「絶対矛盾の自己同一」という概念?を聞いた西欧哲学者は「意味がない」と一刀両断したそうです)認識ではなく、ある種の極限的意識状態としての「存在」というものの扱いを完全に放棄してしまっていいのか、というようには思います。
まあ哲学理論的には意味あるものとして語れない、ということであればわからなくはないが、「存在しない」とハッキリ言ってしまうとちょっと窮屈すぎるかな、という感じはしますね。
 
あと、結局「世界は存在しない」ということによって、哲学的にはどのような新しい「地平」が開けるのか、というのもちょっと疑問です。
著者によれば、それによって「意味の炸裂」が起こり、人生を前向きに(いい意味での)「喜劇」と捉えて明るく創造的に?生きることができる、というようなことを言っていますが、どうもそのあたりの「哲学的なインパクト」はちょっと弱いな、という感じはしました(著者はキャラ的にアメリカ文化のような明るい前向きなものが好みらしく、特にドイツ的な慇懃なペシミズムというのが嫌いなようです)
 
しかしどうして著者はここまで「世界は存在しない」ということを力説しなければいけないのか?
この本を読むとよくわかりますが、とにかく著者は「科学主義的一元論」というのが我慢ならないらしい。
つまりあらゆる現象は素粒子あるいは「ヒモ」の振動に無機的に還元され、我々の認識も全部「脳内ニューロン」の働きによって説明できる云々といった「世界」観を否定したい、という動機を強く感じますね。
要するに「世界は存在しない」、というよりは「科学的世界観」というのは一切を包括し得る本当の「世界」ではない、なぜなら「世界そのものが存在しない」のだから、ということが言いたいのではないかと感じました。
科学的「世界」というのも一つの「対象領域」にすぎず、それはゲーテの「ファウスト」が作り出している「対象領域」と同列なものなのである。
 
総じて言えば、前半は結構知的な緊張感があって面白かったが、「応用編」?の後半は単なる著者の好みが滔々と述べられている、という感じでやや退屈だったかな、という印象。
特に芸術論などについては「まだ若いな」という感じもしましたね笑
 
私自身の興味関心としては、私はまさに「あらゆるものを包括した全体」としての立場から創作しようとしているので、当然「それが存在しない」という著者の主張は受け入れられません。
(まあ「仏教文化圏」の一員として、ということでもありますが)。
実際、創作においては「あらゆるもの」をベースとした形で現実に何物かが「産まれてくる」という現象を実感しているので、それが「存在しない」と言われても、そうですか、というわけにはいきませんね。
もっともそれが果たして受け取る側にとって「有意味な形で」現象しているのかどうか、という点については色々と考えていくべきところがあるような気もします。
もっとも私は別にテツガクをやっているわけではないので、それが「認識」的に有意味なもの、でなくても別に構わないのですが、限りなく「あらゆるもの」(すなわち「世界」そのもの)の中において「広がり切った」形で存在しているものを書く(あるいは描く)ということの意味を再考するいいきっかけになった、とは思います。

 


マルクス・ガブリエル 欲望の時代を哲学する

2023年07月18日 05時40分19秒 | 社会・文化・政治・経済

 丸山 俊一 (著), NHK「欲望の時代の哲学」制作班 (著)

NHK BS「欲望の資本主義」「欲望の民主主義」出演で話題沸騰!
若き天才哲学者の思想に触れる格好の入門書

著書が日本で異例の売れ行きを見せている“哲学界の新星”、マルクス・ガブリエル。
2018年6月の来日時の滞在記録をまとめて大反響となったNHK番組「欲望の時代の哲学」を待望の書籍化。
あのガブリエルが、誰にでも分かる言葉で「戦後史」から「日本」までを語りつくす!
世界的ロボット工学者・石黒浩氏とのスリリングな対論も収録。

【目次】
●序章 哲学が生きるためのツールになる時(丸山俊一) 「机上の空論」から「使える知」へ?
民主主義、資本主義の限界を越えて
「新実在論」とは?
京都で垣間見た、人間・ガブリエル
本書の構成
●Ⅰ章 静寂が叫ぶ国・ニッポンを哲学する
──ガブリエル、東京・大阪・京都を行く
1 秩序と混沌の狭間で──東京にて
2 ヒトラーともわかり合えるはずだ──大阪にて
3 旅の終わりに──京都にて
4 静寂が叫んでいる──再び東京にて
●Ⅱ章 哲学は時代との格闘だ
──ガブリエルの「戦後哲学史」講座
1 すべては哲学から生まれた
2 現代哲学を振り返る
3 哲学から見る戦後史
4 ポストモダンとは何か
5 新実在論へ
●Ⅲ章 技術を獲得した果てに人間はどこへ?
──哲学者 マルクス・ガブリエル×科学者 石黒浩
●終章 「欲望の時代」の柔らかな戦い方(丸山俊一)

 

 
民主主義というものに対する考察や在野の天才である小室直樹氏と極めて似ています。
あまりに酷似しているのですがある一定の知識があると同じ景色が見えてくるのかもしれません。
全く同じような文章が小室直樹の著書にも頻繁に出てきます。
「現在の状況をみると民主主義をしんじつをみる方法だと思いこんでいることが大きな混乱をもたらしている」
「民主主義を多数家と考えるのは完全な混乱。民主主義を多数決の事だと思っているなら君は民主主義を全く理解していない」

分かるようなわからぬような言葉の連続ではありますが著者の主張の確信とも思えるような台詞が
「時間を掴もうとすると時間は逃げてしまう。事実はもはや知ることが出来ない。事実が存在していないから」
だと思います。
新実存主義を呼むかぎり、そりゃそうだろ。という内容に終始しているのですがこれのどこがそんなに革新的なのかは哲学史を知らねば理解不能かもしれません。

分かりやすく面白い示唆にも溢れています。
「権威をからかう可能性を生み出すことはとても大切」
「言葉に寄らないコミュニケーションのシステムの中にあるサインを理解すると実はかなり雄弁に主張している事が分かる」
「科学万能主義という価値観は冷戦期の米ソで共通していた」

そして禅問答のような
「今幸せになれなければ幸せになれない」
が結局答えになりフレディ・マーキュリーが言っていた通り
now im here を理解することが全ての始りなんでしょう。
 
ポスト・モダンがポスト・ロックとほぼ同義の何かだと思ったまま思考停止した自分にとって、近代以降のヨーロッパ、特にドイツにおける哲学・思想の歴史と、それが現代社会にどう結びついているのかについて学ぶことができた基調な一冊でした。

乱読する自分の理解として、現代の科学が自己の存在を否定し、遺伝子が過去の膨大な経験をビッグデータとし、動物・生物的な生存を目的として手段として人間に行動を促す。
意思や判断は行動を促すためのきっかけに過ぎず、それは体内で起こる化学反応の結果でしかないというものもあり、しっくりくる部分も多かった。

自分が自分であるがためには、自分の系の外に超越した視点が必要となる。系の外側で物事は動物的経験に基づいて決められる。
それは自分というよりは社会としての集合体だけでは說明がつかず、その更に抽象概念レベル、すなわち形而上の存在によってのみ說明がなされる。時間は生から死に向かっているのではなく、死から生に向かう。太古からの集合記憶とともに。


日本人にも本質的に受け入れられる考え方ではないだろうか。
現代日本人は皆、ポストモダニズムの中で個人主義を植え付けられ、それを社会に向けて問いかけることによって自己を探そうとするが、大自然の荒波に揉まれるこの島国にとって、自己などという存在は吹けば飛ぶようなものであり、だからこそ集団の夢の中で物事が決められてくる。
日本の天皇制が世界でも異例の長さを誇ることも說明がつく。

集団の夢は生贄を求める。
その生贄は女であり子であるかもしれない。
ガブリエルはそこに切り込んでいく。
考える葦である人間は、考え抜いた結果として動物に戻っていく。
アンドロイドが見る夢が電気羊であってはいけないのだ。
 
 
個人的には、ネットとSNSの発信の仕方に関して、非常に参考になりました。
数十年以上前に、手紙で行ったこと以上のことを、
ネットやSNSでやる必要はないといった感じです。
業務連絡や告知にとどめることが大切なのかなと思います。

著者には、これに行き付くまでに、深い深い内省があると思うのですが、
そのような深い思考も、できない自身にとってみれば、著者に思考にただただ、
「やっぱりそうか!」と思って、参考にしています。
 
 
文面を読んでいる文では、面白く読めるが、マルクスが言おうとしている内容はカントなど哲学や諸々の主義が分かっていないと理解できない。
 
 
 
著者のガブリエルは今の時代にとても危機感を持っていて、「今起きていることを理解しないと、僕らはおそらく見えない力によって破壊されてしまうだろう」(p.155-156)と言っている。
そこで今起きている何かを理解するためには《新しい観念》が必要で、公的な領域での哲学が必要だと考えているわけだ。
ただ、彼の唱える新しい概念、つまり「新実在論」をちゃんと理解するには、すこし手間がかかるかもしれない。哲学というのは結局、前の時代に誰かが提唱していた哲学的理論を否定したり、追加したり、組み合わせたりして、新しい理論を展開するからで、そういう「流れ」を抑えておかないとスッと腑に落ちてはくれない。少なくともドイツ観念論以降、実存主義、構造主義、ポスト構造主義との相対化なしには理解しえない。
ゆえに哲学に親しんでいる読者には苦もなく読めるかもしれないが、それではあまり意味がない。この本はふだんあまり哲学に馴染みのない人向けに、むしろ哲学に触れるきっかけになることを望んで書かれたのだと思う。「今起きていることを理解しないと大変なことになる」という点において、誰もが共有したい「問い」が立てられているからで、その謎を解くカギこそ哲学だと若き哲学者は考えているからだ。
 
 
特に三章、ロボット研究の第一人者の石黒氏との討論は秀逸、また、この本をまとめた終章の丸山氏の文章も非常にためになった。ただ、哲学用語は難しい。特に感じたのは二章でガブリエル氏は相対主義を否定する。特に道徳的相対主義に対して「新実存論」はこのすべてに異議を唱えるものであると強く主張している。ここで、「道徳的事実」と「道徳的相対主義」が出てくるがどうも違うようだが、私のような哲学をやったことのない人間には、意味がよく取れない。それはこの本のせいではないのだが。
 
 
新実在論を提唱するマルクス・ガブリエル。

彼の著作は難解で(例えば『なぜ世界は存在しないのか』)、下地の知識がないと途中で読むのがつらくなってきます...。

本書は、NHKの番組「欲望の時代の哲学」の書籍化で、たいへんわかりやすい。ただ、矛盾するようですが、文字起こしの要素が強いのは多少がっかりするところでもあります。

ロボット工学者・石黒浩氏との対談は刺激的です。日本とドイツの根源的な違いについて、深く切り込んでいます。

本を読み終わって思うことは、歴史的に連綿と続いてきた哲学にも、現代は対応しきれていないこと。新しい哲学が現代には必要だということです。
 
 
世界は存在しないというタイトルにひかれて購入しました。大阪で一般の方に幸せにつて聞かれた時に、今、幸せでなければ生き方を変えるべきとの答えにしびれました。

林 柳波(はやし りゅうは) 童謡「うみ」を作詞

2023年07月18日 05時29分57秒 | 社会・文化・政治・経済

林 柳波(はやし りゅうは、1892年明治25年)3月18日 - 1974年昭和49年)3月27日)は、日本童謡作詞家詩人薬剤師。兄は陸軍獣医少将の林里二

人物

林柳波は1892年(明治25年)、群馬県沼田市に農家の三男として生まれた。

本名は林照壽(てるとし)。一時、柴田姓を名乗ったこともある。

早くから雑誌へ童謡詩の投稿を行う文学少年だった。13歳のとき、兄を頼って上京。1910年(明治43年)明治薬学校(現・明治薬科大学)を卒業。同年薬剤師の国家試験に合格すると、やがて明治薬学校の講師となった。

他方、1911年(明治44年)から東京本郷で薬局を開業。1916年大正5年)に最初の結婚をしたが、翌年死別した。また、健康上の理由をきっかけに宗教・哲学にも興味を持ち、神霊万能を説く「健全哲学 (哲理療法)」の普及活動を行ったこともあった。

1919年(大正8年)1月13日、9つ年上の未亡人、日向(ひなた)きむ子と再婚。

きむ子は大正3美人の1人として名高く、代議士日向輝武の妻で、社交界の花形だった。

きむ子はその美貌を看板に化粧品の製造・販売も行っており、柳波は薬剤師として化粧品の改良に助言を行うことなどで、きむ子との繋がりを強めたと思われる。

きむ子は夫輝武との間に既に6人の子があったが、輝武は疑獄事件(大浦事件)に巻き込まれ、1918年(大正7年)5月28日、狂死。夫の死から1年も経たぬうちの再婚は、夫の死で世間の同情を集めていたきむ子の評判を落とした。折りしも1月5日、愛人島村抱月を追って自殺した松井須磨子と比較されて一大スキャンダルとなったが、柳波は渦中のきむ子をよく支えた。柳波ときむ子は本郷にあったきむ子の化粧品店「瓢々堂」に新居を構え、2人の子をもうけた。

1918年(大正7年)、鈴木三重吉が創刊した『赤い鳥』を契機に童謡運動が盛んとなった。童謡の代表的詩人として知られる野口雨情の依頼により、林きむ子は1925年(大正14年)頃から童謡に振付けを行い、雑誌『金の星』に写真入り解説の掲載を始めた。これが縁となって、林柳波も雨情の影響で再び詩作を行うようになり、娘たちと共に公演旅行を行って「童謡舞踊」を広めたきむ子と共に、童謡運動に貢献した。

昭和に入ると童謡運動は下火となったが、柳波は詩集の出版を行う一方、1937年(昭和12年)、音楽著作権協会設立委員、文部省国民学校教科書芸能科編纂委員となった。当時文部省唱歌は作者名を公表しないことになっていた。柳波は、野口雨情の弟子、権藤花代の童謡詩『タナバタサマ』が選考に漏れたのを補作して委員会で再議し、採用された。これは後に、第二次世界大戦後、作者名が公表されるに及んで、林柳波が盗作疑惑を受ける原因となった。 レコード作家としての才能も開花させ、1929年(昭和4年)、ヒコーキレコードから「まぼろしの泉」で作詞家デビュー。その後、「ああ我が戦友」、「野営の夢」などの軍国物から、「田植歌」、「お六娘」などのオペラを幅広く作詞。

1945年(昭和20年)4月13日に空襲を受け、娘の療養先であった長野県上高井郡小布施村(現小布施町)に疎開。

請われて地元の校歌や青年団歌、『小布施音頭』などを作詞し、小布施村公民館の初代館長(図書館長も兼任)にもなった。1949年(昭和24年)、帰京。しかし、このころから次第に妻きむ子と疎遠になり、他の女性との間に子ができるに至って別居。以後、きむ子に繋がる童謡関係者との交友を断った。

1950年(昭和25年)、明治薬科大学の図書館長に就任。以後も日本詩人連盟相談役、日本音楽著作権協会会員など、多くの公職を歴任した。1972年(昭和47年)、勲四等瑞宝章受章。

妻の林きむ子は、1967年(昭和42年)に死去。林柳波は1974年(昭和49年)に死去。1989年平成元年)沼田市名誉市民に顕彰された。

主な作品

作詞

口語訳等

団体歌

  • 明治薬科大学学歌(作曲:古関裕而
  • 横浜市立根岸小学校校歌 作詞(作曲:井上武士)
  • 横浜市立戸部小学校校歌 作詞(作曲:井上武士)
  • 長野市立下氷鉋小学校校歌 作詞(作曲:井上武士)
  • 小布施村青年団歌(作曲:井上武士)