
ウスビ・サコ (著)
本書は、日本で初めてアフリカ出身者として学長となった、京都精華大学長のウスビ・サコ氏による初の自叙伝です。マリ共和国から中国を経て日本へ。「なんでやねん」連発の波瀾万丈な人生を、「ええやんか」とコミカルにふり返ります。
さらに、日本社会や日本の教育の問題点を、独自の視点から読み解きます。2020年5月、新型コロナウイルス問題について語ったインタビュー記事「コロナ問題でわかった『日本人のホンネ』」(AERA dot)が話題になりました。本書ではこの記事に大幅に加筆した内容を収載し、危機の時代の日本人の生き方を鋭く問います。
解説は内田樹さんです。
【本書「第八章 コロナの時代をどう生きるか」から抜粋】
冷静に見えて他人へのいらだちを募らせていたり、堅い職業の人が、歌舞伎町やパチンコ店でこっそり気分転換していたり、表と裏の二面性がある。プレッシャーの強いストレス社会なのだろう。
また、「自分ではない誰かがしてくれる」という気持ちが強い。サービスが整いすぎているのが日本の弱さで、知恵や能力を使う機会がなく、自ら考えて動くのが苦手で他責傾向がある。
ただ、わかっているのは、この問題は誰かが解決してくれるものではないということだ――。
[目次]
第一章赤の他人に教育されるマリ――――サコ、すくすく育つ
わが家には、知らない人が住んでいた/フランス式か、マリ式か/苦労とは何か/カムバック、文明生活/迷惑をかけ合うコミュニティ
第二章ヨーロッパだけが世界じゃない――――サコ、異文化に出会う
え、なんでアジアやねん「/中国は強い」を実感した日「/スープの国」ではなかった日本/四畳半一室、そして「やんか」/マリの住居と日本の畳「/おない」文化の謎
第三章マリアンジャパニーズとして生きる――――サコ、家庭を持つ
日本に一人残される「/ハーフ」であることはハンディか/子どもにも役割がある/日本国籍を持つマリ人
第四章十人十色の学生たち――――サコ、教鞭をとる
遊び仲間がゼミ生になった日/旅から学ぶサコゼミ「/夜通しの面談」が生む信頼/学生が教えてくれたこと/親しさと甘えは別のもの
第五章一緒に、大学をつくりたい――――サコ、学長になる
みんなとやりたいから学長になった「/私たちの職場」という自覚/精華の理念を取り戻す「/自由」を問い直す/真のグローバル教育とは何か
第六章ここがヘンだよ、日本の学び――――サコ、教育を斬る
学校に期待しすぎる日本人/平等を履き違える日本人/能力を生かせない日本人/すぐにあきらめる日本人/若者を自殺に追い込む日本
第七章大学よ、意志を持て――――サコ、大学を叱る
大学で最初に学んでほしいこと/大学は就職予備校でいいのか/大学は無償化するべきか/国に振り回される大学/その「学生のため」は真実か
第八章コロナの時代をどう生きるか――――サコ、日本に提言する
脆弱だった先進国の基盤/第二次世界大戦後の状況に似ている/国民は国を信頼しているか/政治に関心がないのに政府に依存する/教育のあり方は変わるか/他人は解決してくれない
解説・・・内田樹
サコ,ウスビ
1966年5月26日マリ共和国・首都バマコ生まれ。81年、マリ高等技術学校(リセ・テクニック)入学。
85年、中国に留学し北京語言大学、東南大学で学ぶ。
91年4月、大阪の日本語学校に入学。同年9月京都大学研究室に所属。
92年、京都大学大学院工学研究科建築学専攻修士課程入学。99年、同博士課程修了。2000年、京都大学より博士号(工学)取得。01年、京都精華大学人文学部専任講師に就任。
02年、日本国籍取得。13年、人文学部教授、学部長に就任。18年4月、学長に就任。
研究テーマは「居住空間」「京都の町家再生」「コミュニティ再生」「西アフリカの世界文化遺産(都市と建築)の保存・改修」など。社会と建築空間の関係性をさまざまな角度から調査研究を進めている(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
サコ学長曰く、日本の教育はダブルスタンダードではないかということも、私は問いかけたい。
一部の子たちが拾われていないように思える。
どんな子かと言えば自分なりの価値観を持っていたり、自分なりのやり方を持っていたり、形式を重んじたくない子だ。
その子たちは、能力がないわけでも、賢さがないわけでもないのに"ダメな子"とされ、拾われない。
その学校が育てたいと思っている生徒像や、学校の文化に合っていない子は認められないことがある。
そうなってくると、"子どものための学校"ではなく、"学校のための子ども"である。
では、拾われなかった子はどう扱われるのかというと、そこにはきちんとしたしくみがなく、認められる文化もない。
このため、拾われない子たちは"自分は社会的には役に立たない人間だ"と思い、自分の殻に閉じこもる。 教育とは"普遍的な人間をつくること"ではない。
近代教育は生産できる人間とその予備軍をつくるためのものと言える。
それゆえ生産のプロセスに乗らなければ、"いらない"使えない"人間になってしまう。
日本は、"使える人間"をつくるための教育制度が中心になっているようだが、それは、「本人が満足できる人生を送る」という教育とは全く異なるものである。
それが普通になりすぎて、誰も立ち止まって考えようとしない。
そのせいで、せっかく立ち止まった子どもが苦しんでしまうという状況が生まれているように、私には思える。
気づいた人たち、何かを変えようとする人たちは、今の日本社会にとっては「異分子」になってしまっている。
だから、スムーズに流れている現状のシステムに問題が生じたときには、その「異分子」が他に影響を与えないように、排除の論理が働いてしまう。
普通に生きていればシステムの維持に協力してしまう。
けれど、普通に生きようとせず、自分流に生きようとすれば、本当は疑問を感じるはずなのである。
今の日本人は「経済成長のための使い捨ての道具」になってしまっている。
教育も「国家のための人間」「経済成長にのみ役立つ人間」「効率と生産性のみに役立つ人間」を作ることが目的になっている。
財界+政界官界、そのバックにいるアメリカの利益にだけ使える人間を作ろうとしている。
日本人は完全に家畜化されてしまったようだ。
日本の国民が主権や主体性を持つことなどもはやないのだろう。
ラジオ番組「飛ぶ教室」での紹介をきっかけに読了。
第一章の最後「意見や行為と人格が分離していない」は我が国の特徴を言い当てており、若年層でこの分離が出来ているのは少数と思う。
一方で、ある程度の年輪を経た社会人の一定数はこれが出来ていて、彼らが企業や社会へ大きく貢献していることもまた実感している。
サコさんの言う通り、学生時代に「他者を尊重し」「自分で考える」習慣をつけることは、とても有意義と思う。
「人間は一人ではダメだ」
と「コロナの時代をどう生きるか」の章でサコ学長が語っている。
生の人間の大切さに触れる声に、ホッと息が付けた。
最近、AIやARのテクノロジーの進化が激しい。
技術ばかりが先行している。
人間不在の進化は生きにくい、と感じていたからだ。
また学長は「ここがヘンだよ」と直球で日本を斬ってくる。
「平等とは、普遍的な人間をつくることではない。
それよりも平等な機会をどう与えるかが大事なのに、
その機会がない子がいるというのは平等ではない」と学長はいう。
結果でなく機会の平等を説いている。
確かに、日本は未だに過去の産物を引きずっている。
「私たち大人は何よりも、自分たちは最適な解を持っていない
ということを自覚しなければならない」と語る。
大人である私には、今の社会を守るのでなく変えていく意識が必要だ。