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完全版 ローマ人への質問

2023年07月24日 12時14分31秒 | 社会・文化・政治・経済
 
 塩野 七生 (著)
 
20万部のベストセラーを全面改稿!
流入する異民族、広がる経済格差、しのび寄る衰退……すべてはローマに学べ!
「塩野ローマ史」のエッセンスがこの一冊に!

「ローマは一日して成らず」の格言を生んだ古代ローマが西欧各国の〈歴史の手本〉とされたのは、その一千年が危機と克服の連続であったからだ。
カルタゴとの死闘に勝ち抜いたあと長い混迷に苦しんだ共和政時代。
天才カエサルが描いた青写真に沿って帝政へと移行し、〈パクス・ロマーナ〉を確立したローマ帝国時代。
崇高と卑劣、叡知と愚かさ――かつて文豪ゲーテも言ったように、人間の営みのすべてを示してくれたローマは、われわれと同じ生身の人間が生きた国でもあった。まさに人間の歴史のすべてを凝縮しているのがローマ史だ!
古代ローマは、現代の日本人にとっても、まさに「人間の生き方」「リーダーシップ」「国のありかた」を学ぶ宝庫だ!

質問1 ローマは軍事的にはギリシアを征服したが、文化的には征服されたとはほんとうか?
質問2 ローマ人の諸悪なるものについて
質問3 都市と地方の関係について
質問4 富の格差について
質問5 宿敵カルタゴとの対決について
質問6 古代のローマ人と現代の日本人の共通点
質問7 〈パクス・ロマーナ〉とは何であったのか
質問8 ローマの皇帝たちについて
質問9 市民とは、そして市民権とは何か
質問10 多神教と一神教との根元的なちがいについて
質問11 ローマ法について
質問12 ローマ人の都市計画
質問13 真・善・美について
質問14 〈パンとサーカス〉とは何であったのか
質問15 自由について
質問16 奴隷について
質問17 〈イフ〉の復権はイエスかノーか
質問18 女について
質問19 蛮族について
質問20 なぜローマは滅亡したのか

●塩野七生(しおの・ななみ)
1937年7月、東京生まれ。学習院大学文学部哲学科卒業後、イタリアに遊学。68年から執筆活動を開始。
70年、『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』で毎日出版文化賞を受賞。この年よりイタリアに在住。81年、『海の都の物語』でサントリー学芸賞。82年、菊池寛賞。88年、『わが友マキアヴェッリ』で女流文学賞。
99年、司馬遼太郎賞。2002年にはイタリア政府より国家功労勲章を授与される。07年、文化功労者に。『ローマ人の物語』は06年に全15巻が完結。『ルネサンスの女たち』『ローマ亡き後の地中海世界』『十字軍物語』『ギリシア人の物語』など著書多数。
 
著者は、「哲学科を出たにsじては<何ごとも頭から信じないで疑うこと>しか学ばなった」と謙遜しているそうだ。
また「歴史は私にとって、研究する対象ではなく、ともに生きる相手なのである」と言う。
 
古代ローマ人と現代日本人の共通点は、入浴好き、温泉好き、部屋の内装、肉より魚を好む、企業化の才能が傑出している。
ローマ人には、独創性がない。
日本人は、欧米の真似事が多い。
物事を実用化したり、洗練したする能力では、ローマ人と日本人は断然にすぐれている。
それが「企業化の才能」と著者は指摘する。
その企業化の背景には、誠実という美徳がある。
誠実さとは「嘘をつかない」「ごまかさない」ということであり、現代の日本人はこの美徳を忘れているのではないだろうか―本村二東京大学名誉教授
 
 
 
2000年に出た新書の23年ぶりの改稿とのことである。
宣伝は全面改稿となっているが、著者は改訂版と書き、何が書かれているか、にしか関心がない人はわざわざ買うことはないと書いている。
それでも気にはなるので、旧版と改訂版の違いを調べる目的で購入し、質問1から順に比べながら読んでいった。
しかし、この作業は質問11の終わりまできて、見事に挫折した。
改訂版の質問11の最後が、日本国憲法前文に対する罵倒に書き換えられていて、作業を続けるのが馬鹿馬鹿しくなってきたからである。
で、質問10までの範囲での検討。
○字は旧版より大きい。
○ローマ人の会話が、旧版の「です」「ありませんね」「られます」等から、改訂版では「だ」「ない」「られる」等になっている。
○内容の大きな変更はないようだが、細部で直されているところはある。
たとえば質問6のはじめのほう、旧版「裸の交き合いがローマ文明とともに姿を消したのは、キリスト教の影響と思います。
裸体が人間の最も真なる姿であるとは、ギリシャ・ローマ時代の考え方であったのですから」。
改訂版「裸の交き合いがローマ文明とともに姿を消したのは、キリスト教の影響による。裸体は人間の劣情を刺激するとして嫌ったのはキリスト教だが、裸体こそが人間の最も真で美しい姿であるとは、ギリシャ・ローマ時代の考え方であったのだから。」
○旧版も改訂版も、設定としては、古代ローマに迷い込んだ著者の質問に対して、古代ローマ人が、ローマ帝国の滅亡や、帝国主義戦争まで答えるのはおかしいが、まあ、しゃれのようなものだろう。
○改訂版の質問20の最後に、重要な追加がある。
旧版では質問に答えるだけで終わるが、改訂版では、暇を持て余して著者の質問に答えていた古代ローマ人が、最後に、自分は、夏が終わると、対蛮族の最前線基地のドナウ沿岸に派遣される予定と言い出すのである。
意味ありげなラストである。
 
 

本書は2000年が初刊で、2023年6月に改訂版として発刊されました。
紀元前3世紀から紀元後1世紀にかけてのほぼ300年間、元老院階級と呼ばれていたローマの指導者層が子弟の教育を託していた家庭教師は、ギリシア人の独占市場と言ってよかった。
ローマ人は、地中海世界全域の覇者になって以後も、自分たちの言語を強制するよりも、これまでのように自分達の方がバイリンガルであり続ける道を選んだ。
ローマ人の最も優れた資質は、自分たちローマ人だけですべてをやろうとしなかった点である。
プルタルコスはローマ興隆の要因は敗者でさえも自分たちと同化する彼らの生き方にある、と断言している。
ギリシア・ローマの宗教は多神教、ユダヤ教キリスト教は一神教。
ギリシア・ローマの神々には、人間にどう生きるかを指示する役割はなく、自分で考えて努力しながら生きる人間をサポートするだけが役割だった。
反対にユダヤ教やそれから派生したキリスト教の神は、人間に、どう生きるかを指示する存在だ。
援助するのではなく、命令し、従わなければ罰を下す神です。
そして後にローマはコンスタンティヌス帝の時代にキリスト教を国教と定めます。
人間の行為の正し手を、ユダヤ人は宗教に求め、ギリシア人は哲学に求め、ローマ人は法律に求めた。
正し手を宗教に求めても哲学に求めても限界があるが法律であれば解決できる。
しかし、ローマ人が子弟教育に必要と考えた教養科目に法律は入っていないそうです。
それで、著者はローマの法律は「学校で学ぶ類いの知識ではなく、日常的な知恵であったのかもしれない」と述べます。
下水道の完備、公衆浴場の完備でローマ人は大規模な疫病の流行を長い間知らずにいきてゆけた。
貧しいことは恥ではないが、貧しさに安住することは恥である、とはギリシアのペリクレスの言葉であるが、これはギリシア・ローマ時代の考え方であった。
しかし、キリスト教の教えでは貧しいことは善である、となり、これによりローマ人の価値観の動揺は避けられなかったのではないか、と著者は記します。
ローマが滅びたの要因は多々あるが、結局のところローマ人の気力の衰えに帰すのではないか、と著者は架空のローマ人に語らせてこの書を終わらせます。
ローマについての多くの事柄を学べる裨益するところ多大な愉しい本です。
 
 
 
 

 

 
 
 
 
 

 

 
 
 
 
 
 
 
 

 


ヒューマニズム考 人間であること

2023年07月24日 11時48分39秒 | 社会・文化・政治・経済
 
 
 
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「それは人間であることとなんの関係があるのか。」
フランス・ルネサンス文学の泰斗が、宗教改革をはじめさまざまな価値の転換に翻弄されながらも、その思想を貫いたユマニスト(ヒューマニスト)たち――エラスムス、ラブレー、モンテーニュらを通して、「人間らしく生きようとする心根と、そのために必要な、時代を見透す眼をもつこと」の尊さを平易な文章で伝える名著。

●大江健三郎氏による、本書の底本(講談社現代新書版、1973年)への推薦の言葉より
〈この平易な小冊子にこめられているのは、先生が生涯深められてきた思想である。
「人類は所詮滅びるものかもしれない。しかし、抵抗しながら滅びよう。」という言葉を見つめながら、先生はその抵抗の根本の力を明らかにしてゆかれる。〉

【目次】
1 ヒューマニズムということば
2 ユマニスムの発生
3 宗教改革とユマニスム
4 ラブレーとカルヴァン(一)
5 ラブレーとカルヴァン(二)
6 ユマニスムとカルヴィニスム
7 宗教戦争とモンテーニュ
8 新大陸発見とモンテーニュ
9 現代人とユマニスム

渡辺 一夫
フランス文学者。1901年、東京生まれ。1925年、東京帝国大学文学部仏文科卒業。
東京高等学校(旧制)教授を経て、48年、東京大学教授、62年、同大学名誉教授。文学博士。1975年、逝去。
主な著作に『フランソワ・ラブレー研究序説』『フランス・ユマニスムの成立』『フランス・ルネサンスの人々』『戦国明暗二人妃』『世間噺・戦国の公妃』『世間噺・後宮異聞』など、おもな翻訳書にエラスムス『痴愚神礼讃』、ラブレー『ガルガンチュワとパンタグリュエル物語』など。
 
 
 
 
私がこれを読む前にもっていた断片的な予備知識は、以下のようなモノたちです。

たとえば、筆者はかつて東大でフランス文学を学び、やがて教えた。
ラブレーの作品を翻訳した。
大江健三郎 氏の先生だった。
ヒューマニズム (ユマニスム=人文主義) を追究した。
それは、戦前・戦中・戦後の日本において、人間らしさを失うまいとする、筆者にとって自分のすべてを賭けた戦いだった(だろう)。

人間らしくある、ということの中には、例えば『ガルガンチュワ物語』の中の、下品な冗談を笑う、みたいなことも含まれる。

人間らしくあることとは何か?
ヒューマニズムの知恵とは何か?
よく考えると難しいです。私はこの本を読んで良かったと思います。
 
 
 
 
ヒューマニズムの出発点は、「それはキリストと何の関係があるのか」と言う問いから始まったとある。
中世、宗教改革、ルネッサンスまで、西欧では王権と並んで、キリスト教(カソリック)と教会が、すなわち、「神」を語りながら、組織としての教皇、聖職者(人間)が、権力と権威で君臨し、支配する世界であった。
「権力は必ず腐敗する」と言われるように、当時のキリスト教・教会・聖職者は、その体制や価値観の独占と支配体制に安住し、権威を嵩に来て傲慢になり、三百代言で教義解釈を押し付け、放蕩三昧に及び、異を唱えるものは「異端者」として、社会的抹殺か残酷な形で殺してしまう社会であった。
これに対して、「それはキリストと何の関係があるのか」という異議申し立てが始まった。
著者は、その主役として、エラスムスとルター、ラブレーとカルヴァンを上げ、旧来のカソリックに対して、エラスムスの『愚痴新礼賛』、ラブレーの『ガルガンチュワとパンタグリュエル物語」を紹介し、これは、可なりえげつない辛辣なカソリック批判であり、その中に「ヒューマニズム」の源泉を見ているが、これは言葉であり実戦がない。
それを実践したのが、ルターとカルヴァンであるが、これは余りにもの憤激のあまり、暴力、残虐な拷問、殺戮をもいとわないという、カソリック勢力と同じような行動・行為に走り、互いに残虐な大衝突、殺し合いをする。
ここには、もう、ヒューマニズムはない。
ただ、自分の陣営の主張と行動があるだけで、「人間性」がない。
そして、著者は、このことはキリスト教だけでなく、あらゆるとこと、時代にみられるとしている。
他の宗教、無宗教に対して、この時代は丁度大航海時代を迎えた時期でもあり、天動説から地動説への転換以上に、新大陸の発見とそこの行ったスペイン人(キリスト教宣教師含む)は、其処に無知な人間の姿をした動物がいて、金銀財宝を持っていた。
もはや、大航海の勇者たちは、強盗殺人者、詐欺師に変身、彼らを騙し、殺し、財宝などを持ち帰って王や教皇に渡し、おこぼれを頂戴した。
「これはキリストとなんの関係があるのか」、「人間らしさのかけらもない」、「ヒューマニズムはない」、ただの蛮行があるだけである。
人間はこういう事を繰り返している。人間と言う動物程、同種を殺しまくる動物はいない。
著者は、モンテーニュを呼び出す。
モンテーニュは『エセー』を書き、大航海に行った人々の航海記を読んで、「キリスト教徒であるヨーロッパ人の方が、アメリカ大陸の土着民たちに比べ、必ずしもキリスト教徒的ではないということ」を見抜き、それを書にあらわした。
つまり、土着の人(存在)の方が、ヨーロッパ人より、はるかに「人間的であり」、ヨーロッパ人の方が残酷で「人間的ではない」と感じ取ったことを取り上げている。
そこに、著者は「ヒューマニズム・人間であること」を見ている。
弱く、高尚な宗教でも学識でも、金でも、地位でもない」たわいもないことのようであるが、「最も大切であるもの」、そして、おごれる人はそれを忘れることが多いことを、事実をもって示そうとしていると思える。
「奢れるもの久しからず」だが、また「奢れるものが出てくる」。
そして、其れにどっぷりと従う人がいて、「それは可笑しい」と異議申し立てをする人は、少ない。
 
 
 
ヒューマニズム=ユマニスムを自身の専門である仏文学に沿った形で、エラスムス、ラブレー、モンテーニュを通じて語り、読者にその大切さを呼びかけている。
渡辺の語るユマニスムは、自分の人生観、価値観から言っても大変共感できるものであり、今後も繰り返し読んでいきたいと思わせるものがあった(紙の書籍だけでなく、Kindle版も購入してしまった)。
そして、ここから次に進むべきは 『渡辺一夫 敗戦日記』 であろうか。
とにかく、コロナ禍であまりの政治の酷さが明るみに出てしまった今、広く読まれるべき書であることは間違いないだろう。

さて、本書のタイトルは『ヒューマニズム考』だが、当初は『私のヒューマニズム』として出版されたものである。
「私の」という語から連想されるのが「私」と「公」の問題で、どうもこの国では「自分のことはさておき…」と「公」のレベルでものを考えるときにはユマニスムの存在感がぐっと高まるのに対し(そのことは、2019年11月8日に本文庫第一刷が発行され、その僅か1ヶ月後の同年12月13日にはもう第2刷が出ていることでもわかる)、「私」のレベルになるとユマニスムがすっかり影を潜めることが少なくないように思われる。
それは私自身にしてもそうであって、恥ずかしい限りである。
渡辺の論じるルネッサンス期は公私どちらのレベルでもユマニスムの存在感は希薄であり、だからこそ、エラスムスたちが稀有な存在になったわけだが、現代に目を転じると、誰もがユマニスム的に生きているように見えて実はそうではない時代であり、そのような時代において真にユマニストとして生きることの難しさも実感される。

尚、作家や評論家、哲学者の一部に、妙に政治活動に積極的な者がいて、やや不思議な気持ちを抱いていたが、本書のp60を読んで、やっとそのあたりの事情がしっくりと来た。
そのような者達はいずれも渡辺一夫の精神を引き継いでいたのである。
そのことを知ることが出来たのも、本書の収穫であった。

ちなみに、蛇足だけれども、本書を読むとカルヴァンが大嫌いになるとともに、セバスチャン・カステリヨンという一般にはあまり知られていない神学者に興味が湧いてきます。
Reviewed in Japan on October 28, 2021
 
ヒューマニズムとは何かに答えるための小著、約200ページ。かなり簡便な言葉使いで、座談のような軽い調子で、本質的なことを述べています。1964年に旧著『わたしのヒューマニズム』として書かれたものを、1973年に改題し、いくらか訂正・補正をしたもの。

 ヒューマニズムと聞くと、ルネサンスを思い浮かべる人が多いと思いますが、この本は、フランスのヒューマニストと宗教改革者を元にヒューマニズムのことを考察します。(渡辺一夫氏は、フランス文学者であるので、、、)

 ヒューマニズムは、元々、ドイツ史学者たちが、19世紀末に、ルネサンス期の思潮を命名するために使った言葉ですが、ヒューマニストという言葉にあたるフランス語は、16世紀後半より、フランス作家が使っていました。

 中世のキリスト教の議論が、重箱の隅をつつくような、どうでもいいことばかりを話し合うようになり、既存の教会の体制維持にのみ注力するようになると、教会内でも、それに対する批判が噴出し始めます。『もっと人間らしい学芸を』を望む動きが起こり、エラスムスが、「より正しい聖書のテキストの探求』のために、ラテン語訳聖書だけでなく、ヘブライ語やギリシア語の聖書との検討を始めました。ルターも同時期に、同じように「それはキリストとなんの関係があるのか」と疑問を持ち、宗教改革の動き我始まります。
 エラスムスを「精神の上での父」とするフランソワ・ラブレーも 『カルガンチュアとパンタグリュエル 』を書き、エラスムスの『愚神礼讃』同様に、教会を痛烈に諷刺しました。
ラブレーと同時期、宗教改革者ジャン・カルヴァンが『キリスト教綱要』を発表します。
すでに、旧教徒と新教徒の争いは険しくなっており、カルヴァンはフランスからスイスに移っており、カルヴァン派も旧教と同じく粛正を繰り返しました。
カルヴァン派の中でも、セバスチャン・カステリヨンは『異端論 これを迫害断罪すべき』と寛容の重要性を示します。

 キリスト教間の宗派による激しい殺し合いは、1598年のナントの勅令で一応の終結を見ます。
その後も、アンリ4世の殺害やルイ14世のナント勅令の破棄と問題は続きますが、政教の分離と絶対王政は、宗教戦争による血みどろの激戦を退けさせ、フランス革命の惨劇までは、矛盾をはらんだ政治体制は維持されました。

 宗教間の歴史的な大激戦を見ると、ヒューマニストたちは何も役には立っていないようにも思えます。
過激主義がいつも歴史で目立つのは、現代のイスラムテロ組織が注目を集めるのと同じです。
ヒューマニズムは、ごく平凡な人間らしい心構えですが、狂気や痴愚や無知に走る人々に問い尋ねるものです。
「それは人間であることとなんの関係があるのか」と。
 両者ともに異端者を火刑にし、無残に殺し尽くしている時、ヒューマニストのモンテーニュは双方とも理解を示しながら、相対的であることや懐疑的であることを重視していました。
人に、確実で絶対な正統の考えを掴むことができるでしょうか。
天動説は覆り、アメリカ大陸が発見されるような時代に。

 か弱く、惨めで、無力な抵抗にみえるかもしれないが、人間らしく生きることを破壊するようなことが、人間であることとなんの関係があるのか、と問い続けなければならない。

【感想】
 読んでみると、ルネサンスよりも、宗教改革の話がイメージに残ります。世界史を勉強すれば、ルネサンスと宗教改革が同時期であり、双方が同じ原因が伸びてきていることは、知っている人が多いでしょう。
ルネサンス・宗教改革・新大陸の発見というヨーロッパの歴史の変革期です。
 この本では、宗教改革のさなか、ヒューマニズムを捨てず、狂気や過激主義に落ちいらず、キリスト教徒であり続けることができた人々、そしてヒューマニストであれた人々が語られています。エラスムス、ラブレー、モンテーニュというヒューマニストたち、そして、宗教改革にのめりこみ非キリスト教的な行為も辞さなくなったルターやカルヴァンや旧教徒の人々。
 宗教改革者が歴史を開拓していく中で、ヒューマニストたちは、白眼視され、歴史の中では埋もれ、文学者や哲学者のような立場としてのみ語り継がれましたが、現代を見てみると、彼らヒューマニストこそが、本当の人間的な考えを理解していた人物であり、今の主流の考え方を作っている人々であったと分かります。
 彼らは表面的には無力だったし、犠牲者で、何の価値もなかった人物たちですが、狂気に落ちず、過激化しなかった彼らが立派であったことは、疑いはないと思います。
 
 

渡辺一夫氏は東大仏文科教授を務め、作家大江健三郎氏の学問上の師であった仏文学者である。
本書はヒューマニズムについて、明解に語る思想・文学のしょもつである。
特に、エラスムスとルター、ラブレーとカルヴァンを語るところが本書の白眉である。
前者においては、③エラスムスが産んだ卵をルターがかえした」と言われる俗諺を受け、エラスムスとルターのヒューマニズム(ユマニスム)の捉え方の違いについて述べる。
エラスムスは、高位聖職者の腐敗・堕落を「狂気・逸脱」と捉え、『痴愚神礼賛』において、痴愚神の風刺的批判による「正常」への回復を説いた。
ルターにとって、フマニスムス(ヒューマニズム)は人間性の回復であり、神の代理人としての教会を否定し、キリスト者が『新約聖書』を介して直接神と向き合う信仰にフマニスムスを見出だしたのである。
エラスムスは人間の自由意志は神から与えられたものであったが、ルターにとっては、人間の自由意志は神の意志を実現するための意志であり、フマニスムスそのものであった。この両者のヒューマニズムの捉え方の違いこそ、本書の白眉である。
本書は明解に語られるが、その明解な言葉の意味を考えることは、一つの明解な理解・解釈を読者に求めることである。
ルネサンス・宗教改革を導いたヒューマニズムの精神。本書から学ぶべきことは多い。
お勧めの一冊だ。
 

 

 
 

戦争絶滅」を訴え続けたジャーナリスト・むのたけじむのたけじ

2023年07月24日 11時36分45秒 | 社会・文化・政治・経済

NHK アーカイブ

「戦争絶滅」を訴え続けた、ジャーナリスト・むのたけじ(本名・武野武治)。

21歳で報道の世界に入り、101歳で亡くなるまで、日本の戦前戦後を鋭く見続けた。

むのは大正4年(1915年)秋田県の小作農民の家に生まれる。働いても働いても、貧困から抜け出せない―貧富の絶対的格差の中で働く両親を目の当たりにして育ち、「社会の仕組みを変える」と決意する。

東京外国語学校(現・東京外大)へ入学、報知新聞を経て昭和15年朝日新聞社に入社。

戦争へと突き進む政治の裏側を取材。

その後、従軍記者として中国・東南アジアの戦場を目の当たりにする。

直ぐに終わると言われた戦争は泥沼の一途を辿る。

拍車をかけたのは、‘国益に反することは書かない’と新聞社自らが課した‘自主規制’による報道の「嘘」だった。

記者でありながら真実を書くことが出来なかった悔恨から、むのは昭和20年、「負け戦を勝ち戦のように報じて国民を裏切ったけじめをつける」と終戦の日に退社。

「ジャーナリストは何が出来たのか」。

そして、「どうすれば人間が幸せに暮らせる社会が出来るのか」。

二つの命題を胸に、故郷の秋田に戻り週刊新聞「たいまつ」を創刊する。

読者とともに作る新聞を目指し、常に生活者の視点から日本そして世界の姿を見つめ、鋭く深い思索に裏打ちされた言葉を紡ぎ出してきた。

そこには「日本は地域から生まれ変わる必要がある」という強い思いが根ざしていた。

90歳を迎えてからは、憲法9条の大切さを精力的に訴えて講演活動を重ね、反戦を訴える若者たちを応援、子供たちに向けた本を記した。

「ジャーナリズムとは、歴史の日記。過去に何があって現在に至っているのか。何をやって、何をやらなかったのか。人間の歩みを伝えるのが、私たち古い世代の仕事なのだ」。

『平和を手渡す』という強い決意を胸に、ジャーナリストとして生きぬいた。

 

あの人に会いたい

【至言】放送局であろうと新聞社であろうと出版社であろうと
もしも本気で平和な世の中、戦争のない世の中をつくるというなら、
戦争をやらせないことですよ。
戦争が始まってしまって戦争体制ができてからは何もやれないし、
やっても効果はない。

 


冤罪事件

2023年07月24日 11時08分56秒 | 事件・事故

日本冤罪事件に関するカテゴリ。ここでは、松本サリン事件のように広く冤罪事例と見なされているものを除いては、冤罪または警察検察による捏造であったことが裁判で確定した事件のみを対象とする。

また殺意は否定されたが致死行為は認定された城丸君事件は除く。

冤罪の可能性を指摘されながらも、裁判では有罪判決が下った事件については、刑事事件逮捕起訴され有罪が確定した犯罪者のうち、実際には真犯人ではなかったのではないかと、被告人または受刑者本人が無罪を主張し、また社会的にも冤罪が指摘されている事件に関するカテゴリ。


学び方、生き方を学ぶところに、本来の教育がある

2023年07月24日 10時19分31秒 | その気になる言葉

▼若者よ! 責務の高貴さを自覚し力を発揮せよ―哲学者エマソン

ラルフ・ウォルドー・エマーソンは、アメリカ合衆国の思想家、哲学者、作家、詩人、エッセイスト。超絶主義の先導者。

超絶主義(超越論)は、1820年代後半から1830年代 にかけてニューイングランドで展開された哲学運動である。

核となる信念は、人と自然が本来持つ善性であり、社会とその制度が個人の純粋 さを堕落させる一方で、人は真に「自立」し独立してこそ最高の状態にあるというものである。

超絶主義者は、遠い天国を信じるのではなく、日常に内在 する神聖な体験を見ていた。超越論者は、物理的、精神的な現象を個別の実体としてではなく、動的なプロセスの一部として捉えた。

▼勇敢なる人間は、強い意志によって自らを高める。

▼精神の闘争のない青年は、伸びない。勝てない。

▼確固たる哲学をもって、正義のために、人生のために、勇敢に、真剣に戦う青年の人生ほど、美しいものはない。

▼約7割の子どもが「上手な勉強の仕方が分らない」との悩みを抱えているそうだ。

▼学習方法の理解が進むと、学習意欲が高まるともされている。

学び方ときっかけさ得られれば、子どもは自ら成長していくのだ。

▼教育とは知識の伝授が目的ではなく、学習法を指導することにある。

▼学び方、生き方を学ぶところに、本来の教育があるのだ。

大事なことは、そうした機会を周囲の大人たちが、どれだけ子どもたちに提供できるかどうかである。

教育の場は、学校だけに限らない。

▼子どもの可能性を信じ、<自ら学ぶ力>を育むことだ。

▼悩みは、貴重な建設の力であり、勝利の原動力だ。

悩みがあるからこそ、強くなれる。

悩みがあるから、人間が大きくなる。

真剣に悩むからこそ、脳も大いに刺激され、心も成長していくのだ。

▼大切なのは「人材」である。

未来を築く力は「人材」しかない。

▼ともかく動くことだ。

学ぶことだ。語ることだ。そして、戦うことだ。

 


心を動かすのは心である

2023年07月24日 09時45分57秒 | その気になる言葉

▼心の機微—人間の長所であり強み!

機微とは、表面上は分かりにくい人の心の微細な動き、物事の移り変わりのことである。 

▼思いやり

思いやりとは、他人の気持ちに配慮し、相手が何を望みどんな気持ちかを注意深く考え、接すること。 相手の身になって考えたり、推察して気遣いをしたりすることを意味する言葉です。

▼対話型AI(人工知能)にはない人間の特徴には、目と目が合っての<沈黙>もある。

親を亡くした子どもへの慰め—言葉には表せないが、互いの沈黙の涙は、対話型AI(人工知能)には表現できないだろう。

「もう泣くのはやめよう。親の分まで生きよう」と決意する。

▼人の心の痛みを全て分かることはできないかもしれないが、<元気になってほしい>の祈りが込められた言葉は、たとえ一言であっても相手の心に響くだろう。

心を動かすのは心である。